日経新聞朝刊で「大学開国」という特集記事が連載されていますが、今日の内容が企業の採用と表裏になった非常に興味深いものでしたので備忘的に転載しておきます。
「断念するしかないですね」。2011年5月、九州大幹部13人が参加した入学試験審議会で有川節夫学長が断を下した。旧帝大の入試では初の「女性枠」が幻と消えた瞬間だった。
国際比較をすると、日本の理系学生の女性比率は際だって低い。九大も同じで、特に理学部数学科は女子学生がほとんどいない。「多様な人材が集まれば、お互いを高め合えるだろう」(丸野俊一副学長)。九大が、12年入試から数学科後期日程に5人の女性枠を設けると発表したのは、10年3月のことだった。
だが、女性枠は予想外の波紋を呼ぶ。「不公平だ」「逆差別だ」という批判が殺到したのだ。これでは入学した学生の精神的負担も看過できない。1年余の議論の末、撤回が決まった。12年の数学科後期入試では女性合格者はゼロ。丸野副学長は「グローバル化に対応する多様な学生の確保には、大胆な改革が必要なのに」と悔しがる。
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その点、SAT(共通試験)や高校の成績、小論文、面接などで総合的に合否判断をする米国の大学入試は「問題も多いが、日本よりもはるかに融通が利く」(宮田由紀夫・関西学院大教授)。マイノリティーを優遇し、スポーツ選手や芸術家、留学生に手厚い。卒業生や多額寄付者の子弟への“配慮”さえある。米国内でも議論はあるが、学力以外の多様な学生の受け入れが可能だ。
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試験場でサイコロを振り、出た目の数倍を筆記試験の点数に加える――。須藤靖・東京大教授の持論は「サイコロ入試」だ。難関大学の入試では、当落線上に数百人もの受験生が集中する。「そのわずかな点差で合否を分ける仕組みは無意味であまりに機械的だ」。ユニークな提案は、「点数こそが公平」という風潮への痛烈な皮肉でもある。
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受験戦争が厳しいこともあり、日本人は入試に極端なほどの潔癖さを求める。だが、公平性を意識しすぎると、一見客観的な点数への依存が強まり、永遠に入試は変わらない。大学に国際標準を求めるのであれば、社会の入試観も変わらざるを得ない。
(平成24年10月24日付日本経済新聞朝刊から)
もちろん大学と企業ではその目的も活動もまったく違うわけですし、大学教育を受けるにふさわしいかどうかを判定する大学入試と企業が期待するような就労ができるかどうかを判断する採用選考とは大いに異なるわけではありますが、多様性を重視する考え方は双方にあるということでしょうか。
そこで、学部ならまあ4年で卒業していく大学と、正社員採用したらよほどのことがない限り何らかの形で定年までは雇用する企業とでは、当然ながらその入学・採用のポリシーは異なってくるわけで、大学は相当程度効率重視で試験の成績順にするのも合理的でしょうし、企業はある程度手間暇をかけても複数段階の面接試験で選抜するというのが合理的だということになるのかもしれません(もちろんそれぞれ個別の差はあるでしょうが)。
こうした実情に対して、大学の一部の先生方などから「企業は採用基準を明確化すべし」とのご意見が出され、しかし多様な人材を求める企業にしてみれば採用基準なんて先生方のご満足をいただけるような形で明確化できるわけがないというのは、これはこのブログでも過去繰り返し書いてきたところです。
まあ「多額寄付者の子弟への“配慮”」とか言われるとアレルギーを起こす人がおられるのはある程度致し方のないことでしょうし(私は善し悪しはともかくとして苦笑いしつつも納得はするような気はしますが)、多額の国のおカネが投入されていることを考えれば「潔癖」も悪いばかりではなかろうとも思います。米国流を「国際標準」と断言するのもどうかとも思いますしね。ただまあ、大学のほうでもこうした多様性重視の考え方が広がってくれば、企業の採用活動に対する理解も進んでくれるのではないかと、ちょっと希望的観測をしてみたくなったという話です。
ちなみに須藤靖教授のサイコロ入試論については以下(高山峯夫福岡工大教授のブログ)に紹介があります。
http://blog.livedoor.jp/mineot/archives/51883088.html
大学の先生も大変ですね。