労働市場改革を加速する鍵

 日経新聞は先週の金曜日(8/23)から今日にかけて、「経済教室」欄で「労働市場改革 加速できるか」の特集を上中下3回にわたって掲載しています。登場されたのは昭和女子大八代尚宏先生、早大の大湾秀雄先生、日大の安藤至大先生という錚々たる顔ぶれです。「加速できるか」というお題については、私はこのブログでも何度か書いたかと思いますが、なにをやるにしてもゆっくりやれ、労使・労働市場が対応できるよう激変を避けて進めることが最重要というスタンスなので、まあねえという感じなのですが。
 さて初回の八代尚宏先生の論考には「雇用慣行の成功体験 脱却を」との見出しがつけられています。前半部分は過去の経緯と現状の整理で、日本社会の雇用慣行は高度成長期に成立し、企業グループ内の高い流動性を生かして企業グループ内での衰退分野から成長分野への移動を実現して大成功をおさめたが、現在ではむしろ「成功体験が必要な改革を困難にしている」と指摘されています。具体的には、まず第1に、経済成長が減速して長期雇用や年功昇進が保障できなくなったため、その対象となる正社員が減少して非正社員が増加していることが示され、その上でこれらを「単に経営者の利益追求の結果と見なす」のではなく、正社員・非正社員間の「「労働者間の利害対立」としてとらえ」るという八代先生の「労労対立」のご持論が展開されます。次に従来型の専業主婦を前提とした無制約な働き方が女性の進出や多様な働き方の拡大を妨げていることをあげられ、これについても(労使対立ではなく)「企業内の働き方の異なる世帯間の利害対立」であり、「専業主婦を保護する旧来の税制や社会保険制度を漫然と維持する政府の責任もある」と述べられます。さらには、従来型の雇用慣行を維持するために定年制によって高年齢者の就労を阻害していることも指摘されています。
 そこで具体的な対策として、すでに上述のとおり「専業主婦を保護する旧来の税制や社会保険制度」の見直しがあげられています。これについてはこれ以上の言及はないのですが非常に重要な論点であり、おそらくは当然のこと、明白なことなのであえて詳述されなかったのでしょうか。これについては周知のとおり政府もさまざまな「年収の壁」対策を講じているところであり、たしかに3号被保険者などは廃止が望ましいと私も考えますが、冒頭書いたとおりとりあえず現状ではこれが容認できるペースだということなんだろうなあと思うことにしています。正直もっと速くとは思いますが漸進的な進展を期待したいところです。
 続けて「欧州で普及している個別解雇の金銭解決制度の導入」が提案されています。これについてはこのブログでもご紹介しましたが(このあたりとか。https://roumuya.hatenablog.com/entry/2019/03/27/134726)私は不当解雇の金銭解決を労使双方が選択できるようにしていくべきだと考えているので一般論としては同意ですが、制度設計は十分慎重に行う必要があると考えています。八代先生はここでは高年齢者雇用の文脈で「企業にとって定年制は、辞めてほしい一部社員を解雇できる限られた機会でもある。だが能力のある高年齢者まで一律に解雇されるのは大きな社会的損失だ」と指摘された上で「個別解雇の金銭解決」により「定年制撤廃への道も開ける」と述べておられるので、直接的には一定以上の高年齢者について比較的簡易な手続での金銭解決を考えておられるのでしょう。金額水準がどうなるのかが決定的に重要ですが、高年齢者については個人差が大きく多様であり、また社会保障などもあることを考えれば漸進的な取り組みとしては十分考え得るものなのかもしれません。考えてみたいところです。
 次に労働時間と割増賃金の話になり、ここでも「残業労働を追加的な収入源とみなす労働者が多いため、(割増賃金の)長時間労働の抑制効果も小さい」ことから「残業手当より生活時間を重視する共働き世帯との利害対立が生じている」と労労対立の図式が指摘されています。その上で「専門的な働き方について労働時間規制を適用除外する仕組み」の拡大を求め、現行高プロ制度は「適用基準が厳格すぎて、ほとんど利用者がいない」と苦情を申し立てておられます。正直これについては私も過去繰り返し書いているようにもっとうまいやり方があるだろうとは思っているわけですが、まあ時間がかかるのは仕方がないのかなあ。
 もう一つ退職金についても触れておられ、「年功賃金と相まって長期勤続者ほど優遇されるため、労働者を企業内に閉じ込める効果が大きい。…税制上の大幅な優遇策を見直していくべきだ」と主張しておられます。文中にも「年功賃金と相まって」とあるように、これは退職金だけの問題ではありません。
 一般論としてわが国の長期雇用慣行では未熟練労働力(典型的には新卒者)を採用して内部育成して熟練工(なりなんなりの高能力者)に育て上げることが一般的であり、流行りの言葉で言えば人的資本投資がすでに組み込まれているわけです(もちろん改善の余地は大いにあると思いますが別途)。でまあせっかく育成した人材を他者に引き抜かれると投資が回収できないのでなるべく長期勤続奨励的な人事制度になる。これがさらなる能力向上のインセンティブにもなるという好循環があるわけです。ところが、経済成長が止まって高能力者へのニーズが停滞する(組織≒管理職/専門職ポストが拡大・増加しなくなる)と必ずしもすべての高能力者を引き留める必要はなくなってくるわけで、そうなると本当に残したい人材には高い労働条件を提示したり、あるいは(あるいはこちらが主力かもしれないが)転職すると剥落する企業特殊的熟練で組織内に強力にインボルブする一方、引き留めニーズの相対的に高くない人材はそこまではしなくなる。2000年前後の成果主義騒ぎにもそうした側面があったように思われますし、昨今のジョブ型騒ぎも同じでしょう。考えてみれば人的投資でも適切なポートフォリオを考えなければならないという話で、人的資本経営ともそれなりに整合しているのかもしれません。
 中でも退職金については退職/引退後の生計費という性格が強くあり、長期雇用が一般的だった時期にはその側面からも労使が揃って優遇税制の拡大を求めてきた歴史もあります。したがって退職金の優遇税制の見直しは高年齢期の生計費確保との関係を考慮せざるを得ず、まあ年金の増額は非現実的なので高年齢期の就労拡大といったことをあわせて実施する必要があるでしょう。八代先生が中略部分で退職金の保全にも言及され、また退職金の直接的な減額まで踏み込んでいないのもそれが現実解ということなのかもしれません。
 退職金、年功賃金に限らず、過度に足止め的な人事管理はそもそも職業選択の自由という観点から好ましいものではないので、適切な見直しを通じて、八代先生ご指摘の「企業内に不本意な労働者を抱え込むのではなく、転職の自由度が高くても、労働者が働き続けたいと思う企業に優秀な人材が集まるようにすべき」という動きを妨げないようにすることが大切なのだろうと思います。まあ前述のように本当にリテンションしてほしい人材には引き続き「転職の自由度が高く」なりにくい人事管理を並行して考えていくのでしょうが。
 そして最後に非常に重要な二つの指摘がきます。あらためて労労対立の視点の重要性を強調した上でこう述べられています。

…労働者を閉じ込める固定的な雇用慣行の維持では、企業と労働組合の利益は共通している。必要なのは労働力不足を通じた市場の圧力の活用であり、それが労働市場改革を加速する鍵となる。
(令和6年8月23日付日本経済新聞朝刊「経済教室」から)

 第一は「企業と労働組合の利益は一致している」という点で、「労働組合」というのはもっぱら正社員(の労組)を含意していると思われます(もちろん労組は非正社員の組織化に努力しているわけですが)。つまり、雇用慣行の維持に関しては労使の利害が一致している以上は労使から自発的な変化は起こりにくいので政府による政策的介入が必要になる、という話です。その具体的な施策としてはすでに見たとおり解雇の自由化とか退職金制度の廃止とかいった極論ではなく、専業主婦優遇税制の見直しや退職金税制の見直しといった比較的現実的・漸進的なものが提案されていることも重要だと思います。。
 もう一つは「必要なのは労働力不足を通じた市場の圧力の活用」と明確に述べられていることで、文中でも「低賃金で労働条件の悪い企業から高賃金の企業への移動を促進する」とあるように、高賃金な転職先が十分に存在することが前提とされている点です。現実が本当にそうなのかというのはこのブログでもたびたび疑問視してきたところではあるのですが、しかし昨今の人出不足下においてはそうした望ましい状況も見られるのかもしれません。まさにそれこそが「労働市場改革を加速する鍵」になるものと思います。