潜在成長率と雇用の流動性

昨日(10月17日)の日経新聞朝刊に面白い記事が掲載されていましたのでご紹介したいと思います。毎週月曜日に連載されている「エコノフォーカス」というコラムで、今回は「転職しやすさ、賃上げを刺激 勤続短い国は潜在成長率高め」という見出しが打たれております。川手伊織記者の署名がありますね。

 働き方改革の中で企業や仕事を移って働き続けるための環境整備がクローズアップされている。海外では転職のしやすさ(流動性)が高成長につながる傾向が認められ、賃上げへの波及効果も期待できそうだ。完全失業率がバブル期直後並みの水準に低下するなど労働市場が引き締まる今が、雇用の柔軟性を高める好機であることが浮かび上がる。
 はじめに2015年の中小企業白書から簡単な問題をひとつ。大企業よりも中途入社や離職が多い中小企業にとって人材の確保は大きな課題だ。では中小企業は引き留め策として「安定した雇用の保証」と「賃金の向上」のどちらの効果が大きいとみているだろうか。
 答えは「賃金の向上」だ。70%の企業が取り組んでいると答え雇用安定(63%)を上回る。では労働者の移動がもっと活発になると大企業を含め経済や賃金にどんなインパクトをもたらしうるか。国際機関などのデータから分析してみた。
 まず経済協力開発機構OECD)や米労働省のデータをもとに、日米欧など35カ国の「勤続10年以上の従業員の割合」を調べた。データがそろう12年時点でみると日本は47%。ギリシャ、イタリア、ポルトガル南欧3カ国に次いで高い。
 経済の中長期的な実力を示す潜在成長率では日本は0.3%だった。こちらは南欧3カ国に次ぐ低さだ。
 勤続年数が短い米国やオーストラリアは潜在成長率も高めだ。35カ国全体では「勤続10年以上の割合が10%低いと、潜在成長率は1.4ポイント高い」という関係性が浮かぶ。
 もちろん潜在成長率を左右する要素はその国の人口や投資(資本投入量)、技術革新の度合いなど様々だ。だが労働投入という切り口から見てみると、転職が活発になるほど人的資本が収益力のより高い成長部門に移動しやすくなり、経済全体を底上げするという流れを裏付けているようだ。
 潜在成長率の上昇に伴って経営者は経済成長の先行きに楽観的になる傾向も強い。強気の収益見通しを立てやすくなる分、賃上げにも応じやすくなる。内閣府の分析では、企業が成長率予測を1ポイント引き上げると、1人あたり人件費の前年比伸び率も1.3ポイント高まる。
 野党などでは安倍政権が目指す解雇の金銭解決制導入や「脱時間給」で非正規化や賃金カットが広がるとの反発が強い。だが脱時間給で職務本位の採用が進むなどして転職しやすい環境になれば、経済の生産性が高まって働き手への恩恵も広がりそうだ。
 第一生命経済研究所の永浜利広首席エコノミストは「労働市場が流動化するほど企業は人材流出を避けるため、生産性に見合った賃金を支払うようになる」とみる。
 裏を返せば硬直的な雇用慣行が賃上げの勢いをそいでいる可能性がある。企業は景気後退期に正社員を中心に雇用を守る。例えば内閣府によると、リーマン危機直後の09年1〜3月に日本企業は700万人近くの余剰人員を温存し、多くが社内失業者になった。この反動で景気回復期に入っても総人件費の高止まりにつながる基本給の底上げ(ベースアップ)などに慎重になりやすい。
 多くの企業が長期雇用を大前提とする日本。流動性は少しずつ高まっているとはいえ、社会で転職を評価する風土は乏しい。賃上げの流れが正社員に及ぶにはまだ時間がかかりそうだ。
平成28年10月17日付日本経済新聞朝刊から、以下同じ)
http://www.nikkei.com/article/DGKKASFS28H5M_W6A011C1NN1000/(有料)

潜在成長率と雇用の流動性に相関があるという指摘はもっともだと思います。ただ、流動性が高いから成長率が高いとか、流動性が高まれば成長率が上がるという論調になっているのはやや慎重さを欠く感があるのと、例によって具体的な政策との紐付けがデタラメなのとで、全体の信頼性はあまり高くないという印象も受けました。以下個別に見ていきましょう。まず、マクラで使われているこの話ですが、

 はじめに2015年の中小企業白書から簡単な問題をひとつ。大企業よりも中途入社や離職が多い中小企業にとって人材の確保は大きな課題だ。では中小企業は引き留め策として「安定した雇用の保証」と「賃金の向上」のどちらの効果が大きいとみているだろうか。
 答えは「賃金の向上」だ。70%の企業が取り組んでいると答え雇用安定(63%)を上回る。では労働者の移動がもっと活発になると大企業を含め経済や賃金にどんなインパクトをもたらしうるか。国際機関などのデータから分析してみた。

だから雇用保証より賃金向上が大事だ、と言いたいらしいのですが、しかし足下の賃金と長期的な雇用保障を直接比較してもあまり意味はなさそうに思えます。そもそも足下の賃上げより長期の雇用保障のほうが経営上の負担が大きいわけですし、中小企業で経営者が「よほどのことがない限りあなたを定年まで雇用します」と労働者に約束したところで、どこまでそれが確実なのか、という問題もあります。それで70%と63%という差しかないわけなので、このマクラはあまり成功していないように思えます。
そこで本論ですが、

…海外では転職のしやすさ(流動性)が高成長につながる傾向が認められ、賃上げへの波及効果も期待できそうだ。

経済協力開発機構OECD)や米労働省のデータをもとに、日米欧など35カ国の「勤続10年以上の従業員の割合」を調べた。データがそろう12年時点でみると日本は47%。ギリシャ、イタリア、ポルトガル南欧3カ国に次いで高い。
 経済の中長期的な実力を示す潜在成長率では日本は0.3%だった。こちらは南欧3カ国に次ぐ低さだ。
 勤続年数が短い米国やオーストラリアは潜在成長率も高めだ。35カ国全体では「勤続10年以上の割合が10%低いと、潜在成長率は1.4ポイント高い」という関係性が浮かぶ。
 もちろん潜在成長率を左右する要素はその国の人口や投資(資本投入量)、技術革新の度合いなど様々だ。だが労働投入という切り口から見てみると、転職が活発になるほど人的資本が収益力のより高い成長部門に移動しやすくなり、経済全体を底上げするという流れを裏付けているようだ。

記事では「勤続10年以上の従業員の割合」(雇用の流動性)と潜在成長率の関係のグラフも示されており、上記リンク先で見ることができます(有料ですが)。
ただこれが「転職のしやすさ(流動性)が高成長につながる傾向が認められ」とか「転職が活発になるほど人的資本が収益力のより高い成長部門に移動しやすくなり、経済全体を底上げするという流れを裏付けている」とまで言えるかどうかというと疑問でしょう。潜在成長率が高いから(良好な雇用が創出される結果として)流動性が高くなる、という流れも十分考えられます。
もちろん現実はこの双方が混在しているのでしょうが、少なくともこのグラフから読み取れる範囲では、「勤続10年以上の割合」が低く潜在成長率が高いコロンビア、チリ、コスタ・リカと言った諸国では、後者の影響のほうが大きいと考えるのが妥当ではないかと思います。「勤続10年以上の割合が10%低いと、潜在成長率は1.4ポイント高い」というのはそのとおりとしても、では日本の「勤続10年以上の割合」をこれら諸国並に引き上げれば日本の潜在成長率が4%台に上昇するとはとても思えないわけであってですな。記事では「潜在成長率を左右する要素はその国の人口や投資(資本投入量)、技術革新の度合いなど様々だ」となっていますが、ことこれに関しては経済の発展段階の相違が大きいのではないかなあ。
ということで、

 潜在成長率の上昇に伴って経営者は経済成長の先行きに楽観的になる傾向も強い。強気の収益見通しを立てやすくなる分、賃上げにも応じやすくなる。内閣府の分析では、企業が成長率予測を1ポイント引き上げると、1人あたり人件費の前年比伸び率も1.3ポイント高まる。

こちらのほうがより妥当だと思います。賃上げに結びつけていますが、要するに潜在成長率が上昇することで労働条件が良好な雇用が増える。そうすればそこに移ってくる人も増えるという話にもなるでしょう。「内閣府の分析では、企業が成長率予測を1ポイント引き上げると、1人あたり人件費の前年比伸び率も1.3ポイント高まる」については、ざっと探した限りでは元ネタを見つけられなかったのですが、今年の経済財政白書に類似の記載がありますのでどこかに元ネタはあるのでしょう。白書の記載によれば「成長率予測」はむこう3年間の名目経済成長率見通しらしいので、であれば(特に根拠もないのだが)なんとなくそうだなという感じはします。先行きの成長が見込めるなら人手不足も予測されるわけで、であれば労働条件を改善して引き止めをはかるというのもわかりやすい理屈です。
ということで、このあたりいいこともずいぶん言っていると思うのですが、それがどうしてこう続くのかが理解不能です。

 野党などでは安倍政権が目指す解雇の金銭解決制導入や「脱時間給」で非正規化や賃金カットが広がるとの反発が強い。だが脱時間給で職務本位の採用が進むなどして転職しやすい環境になれば、経済の生産性が高まって働き手への恩恵も広がりそうだ。

繰り返し書いていますが、解雇の金銭解決について現状議論されているのは解雇不当の際に復職の他に金銭給付による救済も可能とするというものであり、直接にそれが「非正規化や賃金カット」につながるものではありません(し、雇用の流動化につながるものでもありません)。
「脱時間給」についても一部で定額働かせ放題とか言っている向きはありますが彼ら彼女らですら賃金カットとは言っていない(いや私が知らないだけで言っているかもしれないが)わけで、現実には脱時間給となっても相応の手当などが給付されて賃金ダウンにならないことがほとんどでしょう。「脱時間給で職務本位の採用が進むなどして転職しやすい環境になれば」というわけですが、そもそも今回の高度プロフェッショナル制度の対象になる人というのは高度で相当程度汎用的な能力を有する人たちなので、この制度が導入されようがされまいがそれなりに「転職しやすい」環境にある人たちであって制度の対象になるかどうかで流動化にそれほどの影響があるとも思えません。対象者の少なさを考えればそれで「経済の生産性が高まって働き手への恩恵も広がりそうだ」という感じもしないなあ。これまた繰り返し書いているように、脱時間給のような制度が「経済の生産性が高まって働き手への恩恵も広が」ることに貢献できるのは、生産性を大きく高め得るようなイノベーションを生み出すような人たちが、時間にとらわれずに自由に働くことでブレイクスルーをもたらし、それが雇用を生み出して働き手に恩恵をもたらす、という経路によってだろうと思います。

 第一生命経済研究所の永浜利広首席エコノミストは「労働市場が流動化するほど企業は人材流出を避けるため、生産性に見合った賃金を支払うようになる」とみる。
 裏を返せば硬直的な雇用慣行が賃上げの勢いをそいでいる可能性がある。企業は景気後退期に正社員を中心に雇用を守る。例えば内閣府によると、リーマン危機直後の09年1〜3月に日本企業は700万人近くの余剰人員を温存し、多くが社内失業者になった。この反動で景気回復期に入っても総人件費の高止まりにつながる基本給の底上げ(ベースアップ)などに慎重になりやすい。
 多くの企業が長期雇用を大前提とする日本。流動性は少しずつ高まっているとはいえ、社会で転職を評価する風土は乏しい。賃上げの流れが正社員に及ぶにはまだ時間がかかりそうだ。

これまた繰り返し書いていることですが、「労働市場が流動化するほど企業は人材流出を避けるため、生産性に見合った賃金を支払うようになる」というのは、より高い労働条件の仕事に流れていくのを防ぐためにはさらに高い労働条件を提示する必要があるという話であり、より条件の良好な仕事がなければ労働移動は起こりませんし、あればなにもしなくても労働移動は起こります(それを防ぐためには処遇改善が必要)。もちろん移動にともなうストレスはあるはずなので、それを軽減するような支援は考えられてよいとも思います。
逆にいえば、労働条件が良好な職が乏しい中で流動化を強行すれば当然ながらその人たちの労働条件は悪化することは明白であって、雇用を柔軟にすればただちに賃金が上がるとは永浜氏も言っていないのではないかと思います。もちろん傾向として雇用が不安定になればその分賃金が上がりやすくなるだろうという話には一応同意しますが。
長期雇用においては不況期に賃金が下がりにくく(賃金の下方硬直性、ただし日本の場合は賞与にかなりの柔軟性があるので年収ベースでは相当変化することも珍しくはない)、その分好況期にも賃金は上がりにくい(ただし以下同文)というのはとみに指摘されているところです。要するに、これまた繰り返し書いているように労働条件というのはパッケージなのであり、雇用と労働条件の安定と「(特に固定費になりがちな所定内)賃金が上がりにくい」というのもセットであるわけです。逆にいえばすでに流動的な非正規雇用については主に市場価格の変化という形で好況時には賃金が上がりやすいわけですね。
ここで問題になるのは、これまたやはり繰り返し書いていることですが、わが国では転職にともなって賃金が下がることが多いということです(もちろんこれも景気や労働需給の影響を大きく受けますが)。これはわが国では企業特殊的熟練に対しても賃金が支払われていることが多く、転職するとそれが剥落するからだろうということも過去繰り返し書きました(今回こればかりだな)。したがって、雇用を流動化して安定性を損ねればそれに応じて賃金は上がりやすくなるという理屈には一応同意するとしても、それが個別の転職においてそれにともなう賃金ダウンをカバーできるかどうかは、現時点ではまあ少なくともケースバイケースでしょう。「賃上げの流れが正社員に及ぶにはまだ時間がかかりそうだ」という結論はまあそうだろうなと思うわけですが、「だから雇用の安定を損ねて流動化させればきっと賃金が上がるからそうしましょうさあそうしなさい」というのは、まあ少なくとも余計なお世話であり、本当にそうならとっくにそうしとるわいという話ではないでしょうか。
ということで、雇用を流動化することで(潜在)成長率が高まるという転倒した話ではなく、(潜在)成長率を高めるための取り組みが重要であり、それにはまず民間企業の奮起が求められるという話でありましょう。もちろん政府にもそれに向けた支援や環境整備はお願いしたいところであり、「脱時間給」などもその文脈で考えるべきものだろうと思います。