賃上げへ政労使協定

今朝の日経新聞で報じられていました。雇用政策は政労使三者で、というのは王道だとは思いますのでその限りではけっこうな話ですが、とはいえ内容はいささか筋が悪いような…。

 デフレ脱却のカギを握る賃金の上昇に向け、政府、経済界、労働組合の3者で協定を結ぶ構想が官民で浮上している。企業が賃上げする代わりに労働者は雇用の流動化を受け入れ、政府が財政面で後押しする。1980年代のオランダの成功例にならい、3者の合意をめざす。安倍晋三首相の要請で広がり始めた企業の賃上げの動きに弾みをつけるねらいだ。
 導入論が出ているのは、オランダの政労使が82年にまとめた「ワッセナー合意」の日本版。オランダでは失業率の悪化に対応し、政府が法人減税、企業が時短での雇用確保、労働者が賃上げ抑制をそれぞれ受け入れた。
 日本版は賃金上昇に向けた3者合意になる。想定では、まず企業が賃上げを促進する。政府は賃上げした企業への優遇や失業者の就業支援を進める。労働者は労働市場流動性を高める規制改革に同意し、一時的な失業増を受け入れる。
 政府の産業競争力会議は、再就職支援金の支払いを条件に従業員の解雇を認めるといった解雇ルールの見直しや、勤務地や職種を限った正規と非正規の中間的な雇用形態の導入を議論している。賃上げを確約する代わりに、こうした労働者の移動を促す改革を進める。
 政府内で、安倍政権の経済政策「アベノミクス」の成長戦略の柱として政労使の合意を進めようとする意見が増えている。経済財政諮問会議では、民間議員が政労使の合意を提案しようとする動きもみられる。6月に策定する「骨太の方針」に盛り込む可能性もある。
 ただし政府、企業、労組がそろって痛みを分け合う必要があり、実現へのハードルは高い。とくに一時的な失業増につながるため、労働組合は懸念を示す可能性がある。労組との調整が難しいとして、経済界も難色を示している。
 政府の支援策では日本政策投資銀行と組み、賃上げ企業を対象に生産性を高めるために不採算部門の切り離しや、塩漬けとなっている技術の売買を活発にする案が浮上している。失業者の生活支援や職業訓練による転職支援のテコ入れも検討課題だ。日本総合研究所の山田久チーフエコノミストは「官民の共同出資による人材サービス会社の設立で雇用対策をすべきだ」と提唱している。
 日本企業の多くは90年代以降、雇用を守るために正規労働者の賃金上昇を抑え、非正規労働者を増やして人件費を減らしてきた。失業者の大量発生は免れた半面、構造的なデフレ状況を生み出したとの指摘は多い。日米欧の過去20年近くの賃金を比較すると欧米が上昇しているのに対し、日本は下落が目立つ。
 賃上げが広がれば、内需を刺激し結果的に企業収益の向上につながる可能性もある。政府が企業の不採算部門の整理を支援して企業の体質改善を促せば、企業が賃上げに耐えられる収益力を確保することにもつながる。政府関係者からは政労使の合意によって「賃上げによる中間所得層の回復と、企業の事業再編の両方を進められる」との声があがっている。
(平成25年3月24日付日本経済新聞朝刊から)
http://www.nikkei.com/article/DGXNZO53153370U3A320C1NN1000/?dg=1

まず「日本版ワッセナー合意」という用語ですが、本家ワッセナー合意はインフレを抑制するために雇用を守りつつ賃金削減と労働時間短縮を行うというものなので、まあ政労使三者の合意という形式は同じですが、内容はむしろデフレ脱却のために雇用を流動化させつつ賃金をアップしようというものですから、まさに正反対と申せましょう。日経新聞はその下のコラム「きょうのことば」でもワッセナー合意取り上げてを解説しているのですが、ここでもインフレ抑制という目的が脱落しているのはいただけません。また、ワッセナー合意の主目的はあくまで雇用の維持であり(そのために労働時間短縮と賃金削減をしたわけで)、これが雇用の流動化を実現させたかのような書きぶりがされているのも問題です。いずれにしても「日本版ワッセナー合意」という表現で「1980年代のオランダの成功例にならい」とか書いてしまうのは非常にミスリーディングであり、まあ記事を書いた日経の記者の問題だろうとは思いますが、記事中に出てくるチーフエコノミスト氏あたりが言っているとしたらいやだなあ。
ちなみにかつて「日本版ワッセナー合意」と呼ばれたものとして2002年3月に厚生労働大臣、日経連(当時)会長、連合会長の三者による「ワークシェアリングに関する政労使合意」があります(http://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/03/h0329-1.html)。これはワークシェアリングを通じた雇用確保を主眼としたものなので「日本版ワッセナー合意」と呼ぶのも違和感ありませんが。
それはそれとして中身をみてみますといきなり「日本版は賃金上昇に向けた3者合意になる。想定では、まず企業が賃上げを促進する。政府は賃上げした企業への優遇や失業者の就業支援を進める。労働者は労働市場流動性を高める規制改革に同意し、一時的な失業増を受け入れる。」となっていて、いや賃金上昇に「向けた」合意なのに「まず」企業が賃金を上げる、というのは理屈が破綻しているでしょう。繰り返し書いているようにまずは経済状況や事業環境が好転することで人手不足状況となり賃金が上がるというのが正常な手順だろうと思います。
それから「一時的な失業増を受け入れる」とありますが、一時的ではすまないだろうという問題もあります。まあ新たな成長産業なるものが出てきてそちらで吸収するから一時的だ、という発想なのだろうと思いますがとりあえず今のところは有望な成長産業も見当たりませんし(当たり前でそれがあるなら若年雇用などはそちらでとっくに吸収されているはず)、そもそも労働市場流動性が高まれば失業率が上がるのが自然(だと思うのですが)であり、そこまで吸収するとなるとかなり大変な話で、まあ失業増は一時的ではすまないと考えるべきでしょう。
さてそうなると心配になるのは本当にこれでデフレ脱却できるかどうかで、デフレ脱却には個人の賃金が上がるだけでなくマクロで賃金総額が増えることが大事なはずで、今回この合意ができて個人の賃金は上がったとしても、「企業の不採算部門の整理」によって失業が増えることで賃金総額はむしろ減ることが大いに懸念されます。いや不採算部門を整理して企業が儲かるようになって採算がいい部門の労働者の賃金は上がるかもしれませんが、整理された部門の労働者はどうなるのかという問題です。あるいは新しい成長産業なるものに労働移動するとしても、はたしてそこでの賃金水準がどれほどのものか。まああまり楽観できる状態ではなさそうです。
ということで記事は「労働組合は懸念を示す可能性がある。労組との調整が難しいとして、経済界も難色を示している。」とまるで悪いことのように書くわけですが、当たり前じゃないかなあ。記事は「賃上げが広がれば、内需を刺激し結果的に企業収益の向上につながる」とか能天気なことを書いていますが、そんなわけないって企業もよくわかっているんじゃないかと。
逆にいえば、これをぜひともやりたいのであれば、これをやっても短期的に失業者が増えないであろう好況期にやるのがやりやすいと言えるわけで、まあそれなりに景況感が改善している今がチャンスという面はたしかにあるのかもしれません。それにしてもまずは景気、経済、企業活動の活性化を継続するような政策が求めれるだろうとは思います。
ということで、まあこの政労使合意なるもの、やった結果は結局のところ失業せずにすんだ採算のいい部門の労働者は賃金引上げの恩恵を享受するいっぽう、不採算分野で企業再編の結果流動化した労働市場で失業した労働者は失業ないし低賃金での転職を余儀なくされるということで、まあ格差が拡大するという結果に終わるんじゃないでしょうか。それでマクロの賃金総額が増加すればデフレ脱却につながる可能性もゼロではないでしょうが、さあどんなもんなんでしょうか。
今朝の読売新聞1面の連載コラムでは「…焦る若者の心につけ込み、「正社員」をうたって新卒を採用するが、実態はサービス残業などで酷使する職場。IT関連など新興ビジネスで目立つ。」という記述があって、これはhamachan先生などが繰り返し指摘されていたことだと思いますが、この政労使合意はこうした領域にそこそこ職務経験のある失業者を流し込み、まあ新興ビジネス屋さんには低賃金でそこそこ使える労働力が調達できてけっこうでしょうが、若年にとってはそんな職ですら経験者と競争を迫られるということになるわけでして。そんなことにならなければいいですけどねえ。