電通第二事件

読者の方から電通過労自殺事件についてお問い合わせをいただいたので少し書こうと思います。もっとも私はこの事件そのものについてはほとんど情報を持ち合わせておらず、具体的なことは言えませんので、常見陽平さんがブログでこの事件を取り上げて日本の人事管理についてコメントした記事を材料に使わせていただきたいと思います。まず主要部分を引用します。

 私は今回の事件は、電通や大手広告代理店の「特殊性」に答を求めてはいけないと考えている。これは、大手、中堅・中小を問わず、日本企業が抱える「特殊性」である。誰もが成果や出世の競争をさせられ、職務の範囲も明確ではない。労使関係の利害関係を調整する機能が十分ではない。これが日本の問題である。この手の問題は精神論で語られがちだ。なぜ、このような精神になってしまうのかを問わなくてはならない。人間の精神活動は経済、社会の基盤と密接に結びついているからである。
 国をあげての「働き方改革」が話題となる今日このごろであり、長時間労働の是正、格差の是正などが問題として取り上げられている。しかし、これらは所詮「働かせ方改革」であることを我々は自覚しなくてはならない。仕事の絶対量や任せ方にメスを入れない改革はナンセンスだ。「いかに働かないか」という視点を、今こそ持つべきではないか。「1億総活躍」というあたかも霞が関ポエムのようなコンセプトを超えて(郊外のマンションに”天地創造”というコピーがつくのと何ら変わりはない)、「1億総安心労働社会」をつくるべく、議論を深めるべきだ。
現代日本過労自殺論 電通悪者論ですませず「1億総安心労働社会」を目指せ」
http://www.yo-hey.com/archives/55553079.html

電通の話はのちほどにして、まずは総論として常見さんが指摘する「電通や大手広告代理店の「特殊性」に答を求めてはいけない」について考えてみたいと思います。
まず「誰もが成果や出世の競争をさせられ、職務の範囲も明確ではない。労使関係の利害関係を調整する機能が十分ではない。これが日本の問題である」というのは概ねそのとおりと思いますし、少なくとも前2者については「日本企業が抱える「特殊性」である」ことにも同感です。諸外国では「成果や出世の競争」に参加できるのは出自や学歴で選抜された一部の人に限られていて、そうしたエリートの多くはワーカホリック長時間労働している一方、大多数の人は競争に参加できず、したがって出世することもなく、きわめて明確な「職務の範囲」でほどほどの時間働くというのが一般的でしょう。
こうした「日本企業の「特殊性」」は、敗戦による社会階級の消滅と、その後の奇跡の復興・高度成長(下における人手不足、特に管理職・熟練工不足)というまさに特殊な環境、「誰しも頑張れば(それなりに)報われる」というきわめて恵まれた状態を前提に成り立っていたのであり、安定成長を経て低成長に至った現在では非正規雇用問題に代表される弊害も目立ってきており、持続性が疑わしくなっているというのはこのブログでも過去たびたび書いてきました。
長時間労働についても、高度成長期の供給不足・人手不足下では、「長時間労働して供給を増やすのが「頑張り」」だという意識があったことは否定できず、現在でも「長時間労働を自慢する風土」とか言い出す人がいるわけですが、さすがに低成長・需要不足の中ではもはやそういう考え方は通用していないでしょう。こんにち、組織の枢要なポストを占めている人たちの中には、高度成長が終焉して頑張っても報われることがだんだん少なくなる中で、激しさを増す「成果と出世の競争」を勝ち抜いてきた人たちが一定割合を占めているはずで、そうした人が自身の長時間労働について言及するのは長時間働いたことそれ自体ではなく、長時間働いて大きな成果を上げたこととか、長時間働かざるを得ないほど稀少で貴重な能力を持つ人材(本当にそうかは別問題として)であることを自慢しているのだろう、ということも過去書いたと思います。
したがって、こんにちの過労自殺につながりかねないような長時間労働に、常見さんの言う「精神」「精神活動」があるとすれば、表層的には「自分は成果と出世の競争に参加するエリート」という意識であり、それと裏腹の「成果と出世(だけ)が人生の成功」という価値観であり、さらにその深層には「頑張れば報われる」の陰画である「報われなかったのは頑張らなかったから」という自己責任意識があるのでしょう。
そこで「働き方改革」「働かせ方改革」ひいては「いかに働かないか」という話になるわけですが、人事管理の立場からすれば「いかに働かせるか」より「いかに働かせないか」のほうが難しい、というのは大方の人事担当者に賛同してもらえるのではないかと思います。基本的に働くインセンティブがあれば働いてしまうわけであり、働かせないためにはそのインセンティブを取り上げることが必要になります(だから残業代ドロボー対策としてホワイトカラー・エグゼンプションとかいう困った発想が出てきてしまうわけですね)。したがって「成果と出世の競争」がインセンティブになっているのであれば、一定の「職務の範囲」を上回って頑張って働いても出世(なりなんなり)のインセンティブがない、ということにすればいいわけで、それが欧州の非エリートの労働時間が短い理由でもありましょう(というか、すでに事実上出世のインセンティブがなくなってしまった中高年をいかに活用するかというのはわが国の多くの企業で課題になっているのではないでしょうか)。
つまり、大半の人についてはハナから「成果と出世の競争」を降りてしまうことで、「仕事の範囲」が明確化されて「仕事の絶対量」も決まり、それ以上働くことを求められず、決まった仕事をすれば決まった賃金が支給され、業績がどうであれ安定した収入が確保されるということで、まあ「1億総安心労働社会」と言えば言えるものになるだろうと思います。それならたしかに常見さんが言われる「仕事の絶対量や任せ方にメスを入れ」る改革ということになりそうです。
ただまあこれまた過去何度も書いているように、じゃあその「成果と出世の競争」に参加できるエリートをどうやって選ぶのかという話があり、さらにはどれだけの人が「安心労働」を望んでいるのか、長時間労働でもいいし報われる可能性も低くていいから競争に参加する「エリート」でいたいという人が実は多いんじゃないかとかいう心配もあるわけで(実際、保守的な男性にはそのほうが居心地がいいという人もけっこういそうな)、正直私はあまり楽観的にはなれません。こうした「働き方改革」「働かせ方改革」を断行したときに、「安心労働」の人たちを「負け組」視するような風潮も出てきそうな気もしますし。
さて、そこで最後に少し電通のことも書きたいと思いますが、常見さんに逆らうわけではありませんがさすがに今回のケースはかなり極端なので、業界、企業、さらには職場や上司の特殊性も考えるべきではないかと思います。業務量もかなり過重だったことに加えて、パワハラ的な人事管理もあったようですし。
いっぽうで電通といえば相当なエリート集団であり、やはり相当にクリエイティブな業務に従事しているはずですから(もっとも、実際どうかはわからないものの、年次的には今回亡くなられた方がそれほどクリエイティブな仕事だったとは思えませんが…)、ある程度は長時間労働になることは容認されるべきかもしれません。それにしても今回の件は常軌を逸しているわけで、「安心労働」という観点からは、中央官庁のキャリア/ノンキャリアのような人事制度を導入して、少数のエリート組は初任からアシスタントマネージャークラスの仕事につける、くらいのことを考えてもいいかもしれません。もちろん競争は激しいでしょうが、しかし少人数かつそれなりに確実な将来が見込めるということになれば、極端な長時間労働にはならないかもしれません。
なお、周知のとおり電通では1991年にも同種の事件が起きているわけで(だから標題を電通第二事件にしてみた)、その当時も労働時間管理や人事管理の見直しに取り組んでいたはずですが、まあ長時間労働にしてもいわゆるサービス残業にしても、問題になると改善はするものの、手を抜くといつのまにか元通りなんていう話になりかねません。電通のように特に優秀な人材が集まる企業では「成果と出世の競争」はさらに過酷であって長時間労働への誘因も強いでしょうし、そこでマネージャーになる人というのはそれを勝ち抜いてきた人なのでパワハラに陥りがちとも言われるわけですから、私は偉そうにお説教をするような立場でも身分でもないわけではありますが、それでも正直なところ人事部門はもっときちんとやるべきだっただろうと思いますし、労働組合にももっと頑張ってほしかったとは思います。今回も電通は風土改革に取り組むとのことですが、容易ならざる道になるでしょう。常見さんも書いておられましたが、私も労使でしっかり取り組んでほしいと余計なお世話ながら願っています。