職務発明の帰属

日本人研究者3人(正確には中村修二先生はいまや米国人ですが*1)がノーベル物理学賞を受賞したとのことで非常に喜ばしくご同慶であるわけですが、このニュースが流れてから私のこのツイートが私にしては多数リツイートされています。(5)ということで前後もありますので、よろしければそちらもぜひお読みください。

(5)さらに現実には技術者個人がすべて単独で特許を獲得することはまずない。多くの場合は同僚の先行研究開発の成果を踏まえているし、端的に上司の助言や関係部署の協力などを得ていることがほとんどではないかと思われる。そのとき、最終的に特許を申請した人が権利をすべて得ることは妥当でない。
https://twitter.com/roumuya/status/507103461175881728

ちょうど特許法の改正(職務発明を発明者帰属から企業帰属に)が検討されている中ですので、例の「200億円判決」の中村先生がノーベル賞を受賞されたことでこの件への関心が高まったのでしょうか。
ということで当然ながら中村先生のご見解が注目されるわけですが、200億円判決当時には法改正に否定的でした。

 残念なのは,現在,…「特許法第35条」を改正しようとする動きが特許庁などで見られることです。第35条は発明者個人に対価を保証するものですが,改正によってこの権利が実質的に失われることを危ぐしています。第35条の対価請求の権利は残しておかなければなりません。
(「日経ものづくり」2004年4月1日号、p.99)

ところが、今回の受賞に際しての報道では、こう発言しておられます。

…企業と技術者との関係については、「企業で発明した特許権が企業に属するのがいいが、日本ではベンチャーが立ち上がりにくい。日本で働く技術者がどうしていくかはまだ、答えは出ていない」と話した。
(平成16年10月8日付朝日新聞朝刊から)

一転して企業帰属に肯定的になられたようです。これはおそらく、米国では特許法職務発明に関する規定がなく、雇用契約で企業帰属とされている例がほとんどであることや、中村先生ご自身が米国で(日亜化学当時は会社がやってくれていた)研究環境づくり、たとえば資金の獲得にはじまって設備や資材の手配・調達、スタッフの確保などなどを自らやらなければならなくなった(後のほうで出てきますがご自身も「4倍以上忙しくなった」と言っておられます)ことで、職務発明の企業帰属についてもある程度納得されたということではないかと推測します。まあ、期待される役割?をふまえて今後はご発言も変化するかもしれませんが…。
なおこれについては私は明確に法改正を支持する立場なのですが、その考え方について、200億円判決当時にまとめて書いたものがありますので、以下に転載しておきます(中心的な話題は職務発明の帰属ではなく「相当の対価」の計算および技術者の人事管理ですが)。かなり以前の話で時代背景が違いますし情報不十分な部分もありますが、大筋では現在でも通用する議論だと自分では思っています。

日亜化学事件、亡国の判決から考える その1〜「分配」「配分」の観点から考えよう〜(16.2.23)
http://www.roumuya.net/zakkan/zakkan16/nichia1.html
 青色発光ダイオードに関する職務発明をめぐる訴訟(日亜化学事件)で、発明者に200億円という巨額の支払を命じる判決が出され、世間を驚かせました。しかも、認定額は600億円以上であり、請求が200億円なので200億円という判決でしたから、まことに型破りな判決といえましょう。そして、その額の大きさ以上に注目すべきなのは、発明の対価を得られる利益の50%というきわめて高い割合としたことでしょう。
 日亜化学事件は、やはり発明の対価を争っている他の事件とは異なる事情も多々あるとのことで、詳細な事情を承知していないのであまり断定的なことはいえないのですが、それにしても企業経営、人事管理の立場から考えると非常識きわまりない判決というべきでしょう。いささかおおげさではありますが、総合科学技術会議などでいわれているようにわが国が科学技術創造立国をめざすのであれば、それを大きく阻害しかねない、いわば「亡国の判決」ともいうべきものではないかと思います。
 いっぽうで、この事件は技術者、研究者の処遇のあり方について、考えさせられるさまざまな問題をあらためて提起したことも間違いありません。今回から何回かにわけて、発明の対価をめぐる問題を研究者・技術者の処遇という観点から考えていきます。
 まずはじめに、この判決を考えるうえで念頭におかなければならない重要なポイントを再確認しておきたいと思います。それは、これが「分配」あるいは「配分」の問題にほかならない、という点です。判決直後のニュースなどで、企業の技術者が街頭インタビューに対して「いいですね、励みになります」などと答えていましたが、こうした反応を示す人たちのなかには、若干意地の悪い言い方ですが、この200億円が天から降るか地から湧くかすると思っている人も多いのではないかという印象があります。しかし、これは得られた利益を誰が受け取るかという配分の問題であり、発明者が200億円を得るということは、他の誰かが合計200億円を失うということなのです。とりあえず、問題を従業員だけで解決するということで大雑把に考えると、日亜化学は従業員数が約3,000人ですから、ひとりが200億円を得るということは、単純に計算して残りの人たちはひとり平均600〜700万円を賃金や賞与の減額などの形で失うということになります。しかも、今回の判決の認定額は600億円強ですから(原告はこの判決を受けて400億円強を追加的に求める訴えを起こすそうです)、その場合他の従業員は実にひとりあたり2,000万を失うことになるのであって、そう考えれば、単純に「励みになる」などと能天気なことを言ってばかりはいられないはずです。
 そこで、まずこの問題をいくつかのレベルの「分配」「配分」という観点から考え、最後に処遇のあり方について考えてみたいと思います。
 大きなレベルでの分配の問題からみていきたいと思います。これは、一時期流行した「コーポレート・ガバナンス」の問題にも通じるものです。単純化すれば、利益を会社と従業員とでどのように配分するか、と考えることができます。会社はさらに、その取り分の中から一部を株主への配当に回し、一部を将来に向けた投資に振り向け、さらに取引先や地域社会など、さまざまないわゆるステーク・ホルダーに還元していくということになります。いっぽう、従業員への配分の一部が発明者への配分となることはいうまでもありません。
 当然のことながら発明はタダではできません。研究施設も必要ですし、資材も必要でしょう。これらはすべて会社のものであり、さらにいえば株主のものです。したがって、発明から得られた利益の一部は当然会社のものであり、それを通じて株主にも配分されなければなりません。そもそも、資力のない研究者がその技術力をビジネスにして儲けたいと考えたときに、失敗のリスクをとって出資するのが株主であり、それで設立されるのが会社です。日亜化学事件の原告も、自分の資金で設備や資材、研究スタッフを調達して成功したのであれば格別、現実にこれが職務発明である以上、利益の相当部分は会社に帰することは当然であり、さらにその一定部分は株主に配分されることが当然といえましょう(さらに、取引先や地域社会などのステーク・ホルダーにも適切に配分することが望ましいでしょう)。
 なお、日亜化学事件の原告は、研究費用の一部を自分のポケットマネーから支出していたことや、会社から書面で研究中止を命令されたことなどをあげて、貢献度の高さを主張しているようです。これらについては詳細を承知していないの想像での意見になりますが、しかし、いかにポケットマネーを使ったといっても費用全体からみれば微々たるものでしょうし、それをいうなら自腹を切ったりサービス残業をしたりしている日亜化学の社員は他にもたくさんいたでしょう(と想像します)。また、「書面での命令」というのは企業感覚の薄い有識者(典型的なのは裁判官、あとは作家とか)にはずいぶんエモーショナルな訴求力があるようですが、人事担当者の目からみれば、そこまで中止を命令したにもかかわらず研究の継続を結局は黙認していたというのは、むしろ会社の度量の広さを示すものにみえます(とりわけ当時の日亜化学の規模を考えれば)。そもそも、「アングラ研究」ということばがあるくらいで、多くの企業では、研究者はその直接の担当業務だけではなく、多かれ少なかれ自分の関心のある研究を、時間をやりくりしながら自発的にやっていることが多いものです。企業としても、表向きはやめろというかもしれませんが、現実にはそこから有益な成果が出ることも間々あるので、実態としては黙認しています。もちろん、スリーエムのように、これを積極的に奨励している企業も増えてきています(そうなると、もはや「アングラ」ともいえなくなりますが)。
 詳細がわからないので不正確かもしれませんが、今回の判決は、会社・株主まで含めたあらゆる関係者のうち、発明者ひとりに得られた利益の50%を分配すべきというものです。これはまことにもって均衡を欠いた判断であり、これでは失敗のリスクを取って優れた研究者に出資しようという投資家が適正なリターンを得ることができません。結果として新技術への投資が進まず、わが国の科学技術創造立国にも悪影響を与えかねないと懸念されます。これひとつをとってみても、今回の判決は「亡国の判決」と呼ぶべき暴挙といえるでしょう。

日亜化学事件、亡国の判決から考える その2〜今度こそ「文理格差問題」に向き合うべき〜(16.2.25)
http://www.roumuya.net/zakkan/zakkan16/nichia2.html
 前回からの続きです。
 前回は企業内外のステーク・ホルダーのあいだでの分配について考えましたが、今回は一段狭いレベル、企業内の従業員のあいだでの配分(ここからは、賃金用語を使って「配分」といいましょう)について考えてみたいと思います。
 日亜化学事件の場合、会社の原告に対する対応もはなはだ拙劣だったようで、双方の間はひどくこじれていたようですが、同じく発明の対価をめぐって争っている他のいくつかの事件においても、原告の気持ちの根底にはほぼ例外なく「会社が自分に十分に報いなかった」との思いがあるように思われます。「企業を支えているのは技術力なのに、エンジニアの評価が低すぎる」というわけです(もっとも、なかには常識的なサラリーマンの感覚からすれば十分すぎるほど報いられているのではないかと思われる事件もあり、評価という問題の難しさをあらためて感じさせられます)。
 これはなかなか一筋縄ではいかない問題ですが、研究者・技術者の処遇をめぐって古くからある問題として、「文理格差問題」があります。すなわち、理系は文系に較べて処遇、とりわけ役員や幹部への昇進などにおいて不利なのではないか、という問題です。
 もちろん、文系は文系、理系は理系で、そのなかにはまたさまざまな仕事や人があるわけですから、必ずしも文系・理系で単純に二分できる問題ではありません。また、基本的には、企業のなかの多種多様な仕事について、それぞれの貢献度をどのように評価するかは、それこそ各企業の経営ポリシーによるものでしょう。人間だれしも自分の貢献度は高く評価したいものですから、どのような評価をしたとしても、エンジニアに限らず多くの人が「評価が低い」と感じるのも致し方のないことかもしれません。
 それでもなお、理系は文系に較べて昇進などにおいて不利である、と世間で広く感じられているということは、否定できないように思います。その代表的なのが高級官僚の世界で、一部官庁の例外を除けば事務次官はすべて文系(とりわけ法学部出身者)で占められており、それ以外の幹部ポストにおいても技官、いわゆるテクノクラートが占めるポストは限られたものにとどまっています。そして、わが国(には限らないのかもしれませんが)では民間企業もその機構は官庁に範をとったいわゆる官僚組織になっていることが多いせいか、経営陣や経営幹部のポストを占めるのは文系の出身者が多い傾向があるようです。
 それに加えて、「文理格差」をさらに強く感じさせる要因になっているのが、就職前の大学生の実態でしょう。いま現在やこれからは必ずしもそうではないのかもしれませんが、従来かなりの長きにわたって、法学部生や経済学部生の相当部分はどちらかといえば講義もさぼりがちで、サークル活動なども大いにエンジョイし、試験のときには他人の聴講ノートを借りてなんとか単位をそろえて卒業していく、という傾向が見られがちだというのがわが国の大学の実態ではなかったかと思います。それに対し、理系の学生はかなりの程度まじめに学業や研究に取り組まなければならず、そのため勉強以外のことを楽しむ余裕も乏しく、そのうえ学費も文系より高い、という現実が広く見られたように思います。さらにそれ以前の問題として、大学受験においても理系のほうが文系より負担が重いということもほぼ周知の事実といえるでしょう。このように、就職後の恵まれ方に較べて学生時代の苦労がかなり大きいと考えられたことが、いわゆる「学生の理工系離れ」を招いたということも、すでに数十年前から言われ続けてきました。
 とりあえず学生時代における投資にかなり差があるにもかかわらず、多くの企業では、建前としては「学歴としては同じ大卒なのだから」ということで、文系と理系の初任給を変えるわけでもなく、人事上の取り扱いも同様にしてきたという実態があったように思います。そして、これは私の個人的感想ですが、その背景には「技術者はそもそも研究や実験が好きで技術者になったのであり、好きでやっているのだから時間やおカネがかかっていても気にかける必要はない」といったような心情的なものがあったのではないでしょうか。さらに個人的な推測を続ければ、労働条件などを決めるのはもっぱら「文系」の仕事であり、それだけに「理系」に対するシンパシーが希薄であったことも背景にあったのかもしれません。
 そういう意味で、やはりこれまでは理系がいささか冷遇されていたということは、多くの企業が反省しなければならないのではないでしょうか。現在ではすでに、優れた技術者に対してポストにかかわらず役員待遇、部長待遇といった高い労働条件、処遇を与えるしくみを多くの企業が導入し、実施しているのは、そうした反省のあらわれであると考えられると思われます。官僚組織の効率性はそれなりに評価できるものであり、それ以上の組織のあり方が簡単には見当たらないなかでは、当面はこうした方向で対応せざるを得ないのかもしれません。今後さらに、理系の初任給を文系より高くするとか、制度的に技術者の抜擢を増やすなどの目に見える施策を導入する企業が出てくれば、技術者の不満もいくらかは収まってくるでしょう。
 ただし、今回の日亜化学事件に関しては、発明者の貢献が50%ということは、研究者だけではなく、それこそ社長以下(まあ、取締役は除外すべきかもしれませんが、それはたいした問題ではありません)、発明者以外の全従業員、日亜化学の場合は3,000人強という従業員の貢献が、発明者ひとりの貢献より低いということになります。しかし、発明を利益にするまでの間には、現実の生産設備を導入した生産技術者、コストダウンに知恵を出した現場の作業者、売り込みに奔走した営業マンなど、多数の人の、ほとんどは目に見えない、しかし大きな努力があったはずです。また、発明が生まれるまでの間にも、それに先行する研究に従事してきた技術者たちの成果があったはずです(そもそも、発明者自身も、入社以来上司や先輩などの指導を得たからこそ、その技術力を形成できたという部分は大きいでしょう)。こうした人たちすべてのあらゆる貢献の総計が、発明者ひとりのそれを下回るという評価は、およそ常識的な感覚をかけはなれているのではないでしょうか。どんなに優れた技術でも、それ単独では人々の生活を豊かにすることはできません。利益を生むにはさらに多くの人々の努力と苦心を要するのであり、こうした人々の貢献を適切に評価しない今回の判決は、やはりわが国のめざす「科学技術創造立国」を危うくする、「亡国の判決」と呼ぶべきものでしょう。

日亜化学事件、亡国の判決から考える その3〜リスクとリターンのルールにしたがって〜(16.2.27)
http://www.roumuya.net/zakkan/zakkan16/nichia3.html
 前回からの続きです。
 前回は企業内の従業員のあいだでの配分について「文理格差問題」を中心に考えましたが、今回はさらに範囲を絞って、研究開発に従事する技術者相互の配分について考えてみたいと思います。これはいわゆる「成果主義」をめぐる問題にもなります。
 企業の技術者にもさまざまな類型がありますが、今回考えるのは、発明の対価が問題となるような新技術の開発・研究に従事する技術者であり、「研究技術者」と表現したいと思います。問題は、成功した研究技術者と成功しなかった研究技術者の間の配分ということになります。
 昨今、「成果主義」と称されて流行している考え方がありますが、その一般的な主張によれば、成功して成果をあげた人にはおおいに手厚く報い、結果として成果があがらなかった人には(あまり能力やプロセスにはかかわらず)手薄い処遇にとどめるべきであり、それによって研究技術者はよりモチベートされ、より大きな成果を期待できるということになりましょう。これは、基本的に今回の判決(利益の50%までもを成功した研究技術者に集中させる)を支持する考え方であるとみられます。もちろん、成果主義の考え方には合理的な部分も大きいわけですが、しかし行き過ぎた成果主義はかえって弊害が大きいことも、実務家であれば常識の範疇であると思います。
 日亜化学の場合、企業規模やそれに応じた研究開発の規模といった面で必ずしも以下の議論に合致するとはいえないでしょうが、とりあえず一般論としては、企業の研究開発は基本的に組織で進められていることは言うまでもありません。一つひとつのプロジェクトが組織で進められているという意味だけではなく、ある研究所、あるいは研究開発部、といった組織が、複数の研究プロジェクトを同時並行的に進めているという意味でも、研究開発は組織で進められているといえます。
 そこでは、先端分野になればなるほど、研究が成功する確率は低くなるという事実を考慮する必要があります。発明の対価が問題になるような研究であれば、10件のプロジェクトの中で1件か2件当たれば御の字だ、というのが実情でしょう。こうした分野では、事前にどの研究が当たるのかがわからない以上、多少なりとも可能性のありそうなプロジェクトをいくつか選んで取り組んで、ほとんどは失敗でもひとつの成功があればそれでよい、という取り組みを組織をあげて進めることになるでしょう。そして、成功も失敗も含めたすべてのプロジェクトの成果の合計が、組織全体としての成果として共有され、評価されることになります。
 さて、このような組織内の複数の研究プロジェクトを個別にみた場合には、それが当たるかどうかは、研究者の技術力やがんばりの違いにも当然あるでしょうが、それと同じ程度に、いわゆる「運」の要素が入り込んでくるのは避けがたいことでしょう。どれほど技術力と努力を傾けても答のない問題に答は出ません。自分の取り組んでいる問題が答がある問題なのか、あるいは答のない問題なのか、それは多分に「たまたま答のある(ない)問題だった」という「運」の部分も存在するはずです。
 このような不確実性の高い仕事では、成果配分を大きくしすぎると成り立たなくなる危険性が高いことは、ほぼ周知の事実といえます。極端な話、成功した人は昇進と多額のボーナスを手にするが、失敗した人は多額の研究開発費を費消したのだから解雇する、という制度だったらどうでしょうか。それでも優秀な研究者がこうした不確実性の高い研究に取り組もうとするでしょうか(逆にいえば、やってみる前から「この人がやればどんな先端の研究でも必ず成功する」という神様のような技術者がいれば、おそらく巨額の報酬による引き抜きが行なわれることでしょう)。
 こうした仕事については、従来から成功した人はそれなりに報酬や昇進で報われるいっぽうで、失敗した人もそれほど大きな差をつけられることはないというしくみになっているからこそ、成功の可能性の低い研究にも安心して取り組めるわけで、組織で複数の研究開発プロジェクトを同時並行的に進めるということは、リスク分散の知恵でもあり、そこではあらかじめ適度なリスクとリターンの組み合わせに設定されているわけです。どのような組み合わせを採用するかは、各企業のポリシーや、研究内容などによって異なってくるのだろうと思いますが、とはいえ、あまりにローリスク・ローリターンな年功的人事では単なる悪平等であって動機付けを損ねるでしょうし、逆にあまりにハイリスク・ハイリターンな組み合わせではだれもリスクを取れず、組織が成り立たなくなるでしょうから、各企業ともそれなりに常識的なところで設定されているものと思われます。
 ですから、それにもかかわらず結果が出てから(リスクがなくなってから)高いリターンをよこせと言い出すのは、競馬が終わってから馬券を買うようなもので、そもそも筋が通っていないのです。日亜化学事件に限らず、発明の対価を求める事件の原告の最大の問題点がここにあります。ただしこれは、本質的には原告や判決の問題ではなく、法律の問題であるようです。不思議なことに、こうした後だしジャンケン的な訴訟ができるのは特許についてだけらしでいのです。たとえば、従業員が職務で商品デザインを作成したとき、就業規則などで定めておけば、その著作権は問題なく企業に帰属することになります。ところが、特許は法律上事後的に「相当の対価」を争うことができるため、企業としてはある日突然退職した元従業員からこれを訴えられ、多額の支出を余儀なくされるという不確実性を負担しなければならなくなっています。それが数百億円との巨額になる可能性があるとなると、企業が研究開発を進める上での大きな負担となりかねません。
 逆にいえば、もし、発明に失敗したなら費消した研究開発費を自己負担する、そのかわり成功したら得られた利益の相当部分を自身が得る、というハイリスク・ハイリターンの契約にあらかじめなっていたのであれば、当然負担したリスクに応じたリターンを得るのが当然でしょうが、現実にはそうはなっていないのです。
 そう考えると、詳細な事情はわかりませんが、「成功した研究の利益の50%を発明者が独占」という今回の判断はいかにも筋違いというべきでしょう。もし、このようなハイリターンを発明者に与えるべきだということになれば、企業としては当然のことながらすべての研究技術者にそれに応じたハイリスクを負担してもらわざるを得なくなります。しかし、そんなハイリスクを負担できる研究技術者がどれほどいるでしょうか。となると、企業における研究開発自体が成り立たなくなり、「科学技術創造立国」もまた成り立たなくなるでしょう。この面からみても、今回の判決はまことに「亡国の判決」とのほか言いようがないものでしょう。

日亜化学事件、亡国の判決から考える その4〜技術者の処遇の見直しが必要〜(16.3.1)
http://www.roumuya.net/zakkan/zakkan16/nichia4.html
 前回からの続きです。
 これまで、発明による利益の「分配」「配分」について、3つのレベルで考え、今回の日亜化学事件の判決の問題点を述べてきました。今回は、これらもふまえて、発明への報奨や技術者の処遇について考えてみたいと思います。
 すでに多くの指摘があるとおり、判決の200億円も非常識ですが、日亜化学が世間でいわれているように問題の発明に対して昇進・昇格などで報いることもなく、本当に2万円の報奨金だけですませたのだとすれば、それも同じくらい非常識だといえましょう。今回の訴訟において日亜化学は、問題の発明に対する原告の貢献は、かかった費用を考慮するとマイナスである、というような主張をしたのだそうで、その訴訟戦術のまずさも指摘されていますが、これも「2万円」をあくまで正当化しようとするがゆえのものと思われます。こうした日亜化学の姿勢が裁判官にきわめて悪い心証を与えた結果、懲罰的な意味もこめて巨額の請求認容となった可能性も否定できないのではないでしょうか(もっとも、いかに懲罰的に会社に多額の支払を命じたところで、このシリーズの最初で述べたように、それは結局は他の従業員や社内外の関係者に転嫁されることになるのですが)。
 さて、前回まで述べてきた内容のうち、従業員と会社・株主の分配のあり方については、企業によって事情も異なるので一概にはいえませんが、このところの傾向としては日本企業は従業員への配分が手厚すぎるとして、株主に対する分配を増やすべきだとの圧力が高まっているように思います。これに対しては、働く人の代表を自任する(と思われる)労働組合がもっと発言してもいいのではないでしょうか。また、従業員の間での配分に関しては、個別の事情はいろいろだとしても、一般的にはいわゆる「文理格差問題」にきちんと取り組み、技術者の処遇の改善を進める必要性があるのではないかと考えていることは、すでに述べたとおりです。
 それでは、技術者の間での配分、成功した技術者への処遇はどのように考えられるのか、についてみていきたいと思います。
 これまで企業は、研究開発に必要な巨額の投資を負担するとともに、成功しなかったプロジェクトに従事した技術者に対しても冷遇しないことによって、技術者の負担を軽減し、安心して研究に打ち込める体制を整えてきました。同時に、成功したプロジェクトに従事した技術者に対しては、昇給や賞与などの評価を高くしたり、昇進・昇格で有利に扱うなどして報いてきたといえると思います。そうしたなかで、発明の対価をめぐる紛争は古くからありましたが、近年までそれほど多くはなかったのであり、それはすなわちこのようなやり方がそれなりにうまく機能し、発明者(やその他の関係者たち)の納得を得られてきたということでしょう。ところが、このところこうした紛争が急増しているのは、こうした報い方がうまく機能しなくなっているということを示しているように思われます(もっとも、味の素事件のように、人事管理の常識からみて十分に昇進・昇格などで報われていると考えられるようなケースでも訴訟が起きており、評価に納得を得ることの難しさを感じさせられます。ちなみに、この事件の判決は、発明の対価としての昇進・昇格をまともに取り上げておらず、その点では日亜化学事件以上の亡国ぶりかもしれません)。
 これは私の推測ですが、その背景には、近年多くの企業で組織の拡大が停滞するようになり、研究開発組織も同様に拡大しなくなったことで、成功した研究者に対して昇進・昇格という形で報いることが難しくなってきたことが原因として存在するのではないかと思います。研究者(に限りませんが)にとって、昇進・昇格は単なる収入増を意味するだけではありません。それに加えて、その高い技術力に対する尊敬の念を表すものでもあります。そして、なによりこれからの研究テーマの選定や研究予算の使用などに関して、その自由度や裁量が拡大することを意味します。すなわち、「魅力ある仕事」という形で報いているわけです。これは研究開発に従事する技術者(だけではないでしょうが)にとってはとくに、おカネよりも名誉よりもはるかに大きな魅力があるのではないでしょうか(研究者によっては、管理職になって管理業務が増えることを好まない人もいることにも注意が必要でしょう)。
 そう考えると、昨今のいわゆる「ポスト詰まり・仕事詰まり」や、長引く経済低迷のなかでの研究開発予算の効率化などのために、このような魅力ある処遇を企業が提供できなくなっているところにかなり根本的な問題があるのではないでしょうか。となると、それに代わる手立てを考える必要が当然出てくるわけであり、このところ各企業が発明に対する報奨金を大幅に増額したり、上限を青天井(やそれに近い高額)に引き上げたりしている動きが目立つのも、そうした文脈のなかでとらえることができると思います。従来は昇進・昇格などに較べて従属的な位置づけだった報奨金が、より大きな役割を果たさなければならなくなっているということではないでしょうか。そして、これまでの主役だった「魅力ある仕事」の魅力が大きなものであればあるほど、報奨金の額も大きくならざるを得ないわけです。昇進・昇格で報いる余地が少なくなるほど、おカネでの処遇は刺激的なものになっていくのでしょう。
 結局のところ、いたって当然の話ですが、どのような成果に対してどのように評価し、どのように報いるかということを事前にできるだけ合理的に決めておき、合意を得ておいて、それにしたがってきちんと評価と報奨を行なうことが重要だ、ということになると思います(そのためには、現在の特許法の不備を見直す必要があるという議論があることは周知のとおりです)。そして、それにあたっては、いかに合理的な制度を作るかということもたしかに重要ですが、それ以上に大事なのは、過去の評価にとらわれることなく、実現した成果に対してできるだけ冷静かつ公平な評価を行なわなければならない、ということではないかと思います。
 今回の日亜化学事件をみても、問題の発明が成功した時点ですぐに原告に対して「君が正しかった。研究を中止せよなどと言って申し訳なかった」と率直に認め、例えば「取締役研究部長に昇進」(なりなんなりの、それなりに魅力的な仕事と労働条件をともなう処遇)といった処遇をしておけば、報奨金は2万円でも、このような事態にはおそらく立ち至らなかったでしょう。当時の日亜化学の規模ではそうした処遇は難しかったかもしれませんが、その場合にもたとえば原告が退職して渡米するというのであれば、それにあたって退職金に大幅な慰労金を加算し、さらに相応の対価をともなう機密保持特約を締結するとともに、退職後も引き続き技術顧問契約を結ぶ、といったことも考えられたと思います。これに必要な金額も、まず1億円とまではいかなかったでしょう。もちろん、従来の評価を大きく修正すること大きな抵抗感があることは容易に想像できるわけですが、しかしこうしたケースで感情的理由で評価が訂正されず、不当な評価のまま据え置かれるというのでは、評価制度、ひいては人事制度全体が無意味になるといっても大げさではないのではないでしょうか。
 いっぽうで、田中耕一氏のノーベル賞受賞(かなり例外的な事例ですが)に対する島津製作所の対応はなかなか洗練されたものであり、参考になるものであると思います。具体的には、報奨金は1,000万円ですが、それまで「主任」であった田中氏を役員待遇に昇格させ、「田中耕一記念」との名を冠した研究所を新設して功績を顕彰するとともに、その研究内容などについて田中氏に大きな権限を付与しました。ノーベル賞相場なのでかなりの大盤振る舞いですが、キャッシュで数百億円支払うというのに較べれば会社の負担はかなり軽かったはずです。それでも、田中氏の言動からみるかぎり満足度は高かったように思われます(当時の同僚の貢献を意識的に強調するなど、感謝の念が感じられるくらいです)。管理職レベルですらない一介の主任から役員待遇へと大幅な評価の訂正を行なったことが好結果をもたらしたといえましょう。これと比較すると、日亜化学の対応はやはり拙劣だったといわざるを得ないと思います。
 さて、今回の判決に対するマスコミや世論の反応は、当初懸念したほどには大きな騒ぎにはならなかったようです。むしろ、経済や技術開発の現場に近い記者や論者の論調は、特許法改正の必要性を訴えるなど、企業の研究開発への影響を心配する冷静なものになっているようです。そもそも特殊性の高い事例であるのに加えて、やはり常軌を逸した判決だというのが共通の理解になっているとみてよいのではないでしょうか。おそらくは、上級審において適切な修正がはかられるものと思います(日亜化学にも冷静で合理的な対応が求められると思うのですが、どうでしょうか)。
 とはいえ、今回の判決はその衝撃度は特大であり、企業の人事管理という側面に対しても、大きな問題提起となったことも間違いないものと思います。亡国判決を出させてしまったのは、ひとり日亜化学だけではなく、産業界全体にもその責任の一部があると考えることもできるでしょう。特許法の不備を改める必要があることはもちろんですが、企業としても、研究者、技術者の処遇についてその内包する問題点にしっかり向き合って考え直すとともに、人事制度やその運用の一般的な原則、留意点についても、あらためて問い直す契機としたいものです。

高裁で和解が成立したあとに書いたものがこちらです。

「発明対価6億円」高いか安いか?(17.1.13)
http://www.roumuya.net/zakkan/zakkan17/wakai.html
 新聞各社の記事によると、日亜化学青色発光ダイオード製法特許の対価をめぐる訴訟で、日亜化学が原告の中村修二氏に発明の対価として約6億800万円、遅延損害金約2億3,000万円を加えて総額8億4,000万円を支払うということで和解が成立したそうです。この事件では昨年1月、発明の対価を約600億円と認定する地裁判決が出て控訴審が争われていましたが、東京高裁は昨年末に判決期日を3月28日に指定する一方、和解を勧告していました。とにもかくにも、非常識極まりない一審判決が1年ちょっとという迅速さで是正されたことは、おおいに歓迎したいと思います。昨年の特許法改正(不十分なものではありますが)ともあいまって、この問題はそれなりに整理が進んできたと見ていいでしょう。
 報道によると、今回の和解は係争されていた青色発光ダイオード製造の基本特許だけではなく、原告が関与したほかの特許についてもすべて含んだものだということです。その一方、金額の算定にあたっては高裁は将来の売上について「代替技術が出現する可能性がある」として低く見積もり、また、特許による利益についても、地裁が売上の10%としたのに対し、高裁は3.5〜5%としたようです。これらにより、特許の範囲は広げたものの特許による利益は逆に約120億円と大幅に減少し、さらに地裁が50%と認定した原告の貢献度についても5%と大きく見直したことで、結果として「すべての特許に対して合計6億円」との金額が出てきた、ということのようです。
 したがって、高裁としても発明の利益を見積もり、それに発明者の貢献度を乗じて対価を決め、これを現実に支払われた発明報奨金などと比較するという方法については、地裁と同様に、従来のものを踏襲したということになります。これは、仕事の成果に対する対価としてより重要な、昇進・昇格、あるいは研究開発予算などに関する権限の拡大、さらには研究テーマの選定などといったより魅力ある、自分の技術力を高められる仕事といった、「処遇」による報奨を、「貢献度」にドンブリ勘定してしまっていて、きちんと評価していないという点で不満が残ります。中村氏はあちこちで、この特許に対する報奨金がわずか1万円だと言ったら米人研究者に「奴隷」と言われた、という話をしていますが、それはある意味当たり前の話で、雇用保障と処遇による報奨の組み合わせという日本企業の人事管理をを捨象して、報奨金の部分だけをみれば差があるのは当然です。
 逆にいえば、人事管理の観点、「処遇」の見地から、この6億円という金額の妥当性を評価することもできそうです。
 原告の中村氏は、1999年に日亜化学を退職しています。現在50歳ですから、45歳で退職したことになります。日亜化学によれば、「退職する直前には、主幹研究員という、当社では部長待遇の研究員でした。40代半ばでしたが、給与は当社の役員の平均を上回る額を貰っていました。当社での彼の同期と比べれば当然最高額でしたし、他社へ入社した彼の同期と比べても決して低い額ではなかったはずです」ということです。いっぽうで、経営陣との対立から閑職におかれていたとの話もあるわけですが、少なくとも肩書や待遇のようなすぐにわかるようなことでウソはつかないでしょうから、現実の仕事はともかくポジションと給料はかなりのものだったとみていいでしょう。日亜化学の役員の平均を上回り、他社(これは一流大企業をイメージしているのでしょうが)に就職した同期よりも高いということになると、年収2,000万円くらいでしょうか。そこで、経営陣と衝突せず、退職せずに順当に昇格して、社長はともかく技術担当副社長くらいまでは順当に行ったとしましょう。日亜化学は業績も好調ですから、副社長の年収は5,000万円くらいは見てもいいでしょう。45歳2,000万円から65歳5,000万円までリニアに年収が上がったとすると、この間の総額は7億円です。これに退職慰労金が加わりますし、さらにその後も、相談役なり顧問なりで処遇されるでしょうし、社会保険料の会社負担分や出張旅費(最先端技術だけに非常に頻繁に海外出張していたらしい)、秘書、社有車と運転手、などといったことまで考えに入れれば、退職によって10億円以上のものを棒に振ったと考えられます。さらに、自分のやりたい研究に取り組むことができ、必要な高額設備・材料も購入できるといった権限(これは技術者にとっては給料以上に魅力的かもしれません)も手放したわけです。これはちょっと金額では評価できそうにありません。
 もちろん、これだけの技術者が勤続していれば会社に対してさまざまな貢献をしたでしょうし、退職後も日亜化学で培った技術力を生かして収入を得ていることも考慮に入れる必要はあるでしょうが、それにしても中村氏が退職しなければ日亜化学は10億円以上をその処遇に費やしたであろうことはおそらくは間違いのないところで、そう考えると、いたって大雑把で感覚的な評価ですが、6億円という金額はひどく高すぎるということはなさそうにも思われます。
 要するに、中村氏は退職することで受けるべき処遇を受けていなかったわけで、雇用保障と処遇をパッケージにした日本企業流の報奨を受けきれていなかった、ということになります。もちろん、それはそれで退職したほうの勝手だろう、勤続を前提にした報奨なのだから、退職する以上それは放棄されるべきものだ、という議論は十分ありうるものであり、別の論点だと思いますが、放棄したかどうかは別として、払うならこれくらい、とはいえそうです。日亜化学としては、全特許一括で今後の訴訟リスクがなくなることも考えれば、遅延損害金を積んでも和解してしまうのが合理的というのはわかる理屈です。
 そう考えると、他の事件、たとえば味の素事件などをみると、定年までしっかり勤続し、退職金も受け取り、年金の権利も確定して、失うものがなくなってから提訴するというケースが多くなっています。たとえば味の素のケースでは、60歳定年までしっかり勤務し、研究所長や子会社の社長として処遇されて、取るものはしっかり取ってしまってからの訴えです。もちろん、それでもなお、本来はもっと厚遇されるべきであったから、1億5,000万円という金額はその差額として妥当である可能性はあるでしょう。いずれにしても、これまでの裁判所の判断はこうした観点を検討していない点が大いに不満です。
 さて、各種報道などをみると、企業の発明報奨金にスポットを当てたものが多いようです。まあ、現実の判例動向や、特許法の改正などを踏まえれば、企業としても発明報奨金が重要な課題になっていることは事実でしょう。しかし、やはり日本企業においては雇用保障と処遇による報奨のほうがはるかに重きをなしていることを考えれば、むしろ技術者の基本的な処遇をどうするかという問題のほうが大きいのではないかと思います。少なくとも、入社前における人的投資は、技術者のほうがいわゆる文系よりかなり大きいはずで、企業の初任給や賃金体系がその投資を回収できるものになっていなければ、学生が理系から離れるのは当然と言わざるを得ません。
 また、中村氏はこの和解について記者会見で「100%負け」と発言し、「実力主義で大変だが、やる気のある理系の人は米国へ行くべきだ」と述べたそうです。これはまことにそのとおりで、やる気のある、すなわち自分の技術をもとに自分でリスクをとって起業し、成功して巨利を得たい、という人は、そのための研究・起業の環境が整い、しかも経済力が強く成功の確率が高い米国に向かうのが合理的な判断といえましょう(これはなにも理系に限ったことではなく、文系でも似たようなものでしょう)。当然、カネの調達、設備や資材、人手の手配からはじまって、企業勤務なら誰かがやってくれるさまざまな仕事も自分でやらなければなりません(実際、中村氏も渡米して「4倍忙しくなった」と述べているようです。まあ、中村氏ほどの実績があれば、リスクも手間もそれほどのものではないでしょうが)。逆に、リスクを取れない(中村氏流に言えばやる気のない)人は、雇用や労働条件の安定を求めて企業の勤務技術者になればいいわけで、それは個人の自由です。結局のところ、リスクを取らずに来た人が成功した瞬間にリスクを取ったのと同じ対価を求めるところに矛盾があるのであり、中村氏のこの発言ははからずも自らその矛盾を示したものといえましょう。
 いっぽう、近年では独立支援制度のなかで、技術者が職務発明を生かしてスピンオフする際に企業も出資したり、あるいは取引先となったりすることで、起業を支援するという例も増えているようです。これは、うまくいけば技術者は大きな利益を得られますし、企業も出資者としての利益を得たり、技術力に優れた仕入先を確保できるなどのメリットが得られます。このように、いろいろなくふうをこらして、技術者の様々な志向にこたえることができるようにすることが、企業・技術者双方にとって望ましい方向ではないでしょうか。

いま思うと情報不十分で日亜化学に若干辛辣だったかなという感はあり、たとえば日亜化学によれば中村先生に対して1989年からの11年間で同世代と較べて約6,200万円程度の上乗せ支給をしていたそうですし(ちなみに退職時の年収が約2,000万円でこれは私がまぐれ当たりしたようです)、「会社から書面で研究中止を命令された」というのもとりあえず中村先生の自己申告以外の証拠はないということのようです。やや中村先生サイドの情報ばかりに偏って他方当事者の情報のウラ取りができていなかったようでいまさら反省です。
なお、この200億円判決については、高橋伸夫先生がこれを綿密に検証し、その問題点を余すところなく指摘した意見書が高裁に提出されています。高橋伸夫(2005)『<育てる経営>の戦略』講談社選書メチエで読むことができます。

<育てる経営>の戦略 (講談社選書メチエ)

<育てる経営>の戦略 (講談社選書メチエ)

*1:これはおそらく主として米国籍でなければDODの予算が使えないという制約のためではないかと思われます。南部陽一郎先生もおそらくそうでしょう。