昨日まで今度は信州でまた山籠もりしておりました。なんか山籠もりばかりな私ってなんでしょう。今週末からは長崎だぞっと。
さてこの間いなば先生のブログのエントリ(「流れた研究会用のメモ」http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20141002/p1)をhamachan先生が批判されて(「レトリックとしてもそこまで言うたら嘘やろ」http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-7ae8.html)興味深いやりとりが展開されましたので少々感想を書きたいと思います。
まずhamachan先生の批判ですが、こういうものです。
話の主眼がそこにはないのは承知の上で、それ故話を盛り上げるために盛った言い方をしていることを差し引いたとしても、それにしてもそこまで言うたら嘘やろ。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20141002/p1 (流れた研究会用のメモ)
- 結局バブル崩壊以降、労働プロパーの研究者の大半は、左右を問わず伝統的日本型雇用への回帰を呼びかける以上のことができない。
こういう嘘を言わんとリフレの宣伝がでけへんのやったらやめた方がええ。
(http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-7ae8.html
どうでもいいことなんですがなぜに関西弁?
さてhamachan先生も「主眼がそこにはない」と書かれているとおり、いなば先生のメモには「「新自由主義neoliberalism」という思考停止用語について」というタイトルがつけられていて、ご所論のポイントを抜書きするとこんな感じでしょうか。
何でもかんでも憎らしいものに対してレッテルを貼っているだけではないか?
☆例えば――
…
「新自由主義」のレッテルは「マネタリズム」「小さい政府論」「規制緩和論」「民営化論」をごっちゃにしたうえでその幻想の複合体につけられたもの、といった方がよい。
…
aマクロ・マネタリーに緊縮志向か、拡張志向か
bミクロ・実体面において規制緩和か、規制志向か
c財政的に緊縮志向か、拡張志向か
通俗的な「新自由主義」イメージはおおむねa軸における緊縮、b軸における規制緩和、c軸における緊縮を混交させたもの。しかしそうしたイメージで「新自由主義」批判を行う論者には、a、c両軸についてあまり定見を持たない人が多い。むしろ拡張志向をを古い「土建国家」のそれとして否定的に評価する人も多い。
…
☆いわゆる「リフレ派」の立場
不況期における規制緩和、財政緊縮は明らかにマイナスである(競争が潰し合いのマイナスサムになる)、と考えるが、景気が良い時には財政健全化、規制緩和をむしろすべき、とする論者が多い。
今日でもなお石橋湛山が範型を提供する。
☆a、b、c軸は完全に独立しているわけではないが、それでも区別されるべきである。
(http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20141002/p1から勝手に抜き書き)
ということで「いわゆる「リフレ派」の宣伝」と読めないこともないわけですが、議論の枠組み自体はhamachan先生の(先生のいわゆる)「リベサヨ」批判とも相通じるものがあるように思いますし、いなば先生の書かれた「いわゆる「リフレ派」の立場」についてもhamachan先生とある程度共通ではないかと思います。ちなみに私自身も(主として円高是正のために)金融緩和を主張したせいだと思いますがリフレ派の箱に入れられているようで、いなば先生の「立場」と基本的に共通しており、ただし個別の問題として予定されている消費増税については政策の一貫性の観点からの検討も必要だと考えている、ということは過去何度か書いたと思います。
さてhamachan先生が批判された記述というのは上の「☆例えば――」に続く例示として労働問題があげられている中にあるもので、これも勝手に抜き書きしますと、
☆例えば――
バブル崩壊前の日本経済についての理念的モデルとしての「日本的経営」 「日本型企業社会」と「産業政策」「護送船団行政」の組み合わせその組み合わせを破壊し、退廃した安定を崩してより大きな混沌へと導いたのが「新自由主義」である――というのがバブル崩壊以降、ことに21世紀に入ってからよく聞かれる話
…
80年代の日本における「新自由主義批判」はどのようなものだったのか? とりわけ、「労働」「雇用」については?
…「労働市場の柔軟化」に対してそれを「新自由主義」的と批判する向きが左翼の労働研究者の中になくもなかったし、それに対して労働政策に近いサイドの研究者が現状を合理化する傾向もあった。
――しかも厄介なことに、左翼はこうした柔軟化傾向に対して批判的であるだけではなく、旧来のあり方にも「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」と批判的であった――ではどこにいきたいのか?
アカデミックな落としどころは、戦後日本のいわゆる「年功的労使関係」が実は実態としては競争的な「能力主義」的であることについて大まかに合意し、それをストレートに肯定する(代表が小池和男)か、そうした実態を共同体的・家族的雰囲気で糊塗する企業社会のありようを欺瞞として批判する(代表が熊沢誠)かの対立図式であった。
――しかし、マクロ的に言えば完全雇用が継続していたので、今となってはそんなものは「コップの中の嵐」にしか見えない!
「フリーター」なる語はバブルの産物、ただしこの時代「フリーター30歳定年説」がささやかれたように、個人的な限界にきたフリーターはいずれ安定した正規雇用に吸収されるものと想定されていた(ライフサイクル・サーバントならぬライフサイクル・フリーランサー?)――今日との大きな違い
――結局バブル崩壊以降、労働プロパーの研究者の大半は、左右を問わず伝統的日本型雇用への回帰を呼びかける以上のことができない。
それができない条件があるのに、それを問題にできない――つまりマクロ的な完全雇用、有効需要不足は、労働研究者の道具箱ではとらえがたい。
(http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20141002/p1)
続いて「個別の具体的雇用はどこまでもミクロ的、かつ実体的な現象」「それに対してマクロ的な完全雇用―失業は基本的には貨幣的現象」ということで「新自由主義批判」批判に続いていくわけです。
ということで、hamachan先生が問題視している「バブル崩壊以降、労働プロパーの研究者の大半は、左右を問わず伝統的日本型雇用への回帰を呼びかける以上のことができない」については、私個人の感想としては、まあかなり割り切った評価だなとは思いますが、あとはいなば先生が言われるように「大半」とか「以上のこと」の含意、あるいは(これはいなば先生は明示しておられませんが)「労働プロパーの研究者」「伝統的日本型雇用への回帰」の守備範囲によってはこういう評価もあるだろうなという感じです。特に後者が悩ましいところで、いなば先生がエントリであげられている熊沢誠先生や、hamachan先生のブログのコメント欄であげられている野村正実先生などがそうではないか(違うかもしれませんが)と思いますが「伝統的日本的雇用慣行にも批判的、しかし彼ら彼女らのいわゆる「新自由主義者」が志向する(と彼ら彼女らが考えている)政策に較べたら伝統的日本的雇用慣行回帰のほうがはるかにマシ」という人まで含めるのであれば、それは(いなば先生が想定される6割程度以上の)「大半」が「回帰を呼びかける以上のことができない」と言えそうに思います(もちろん私も検証したわけではありませんので単なる感想です)。なおhamachan先生も「大半」が例外を除く大多数といった意味ではないということを確認されてここについては一応了解されたようです。
ということで、いなば先生としては労働プロパーの研究者(は例であって、労働に限らず個別分野プロパーの研究者)のみなさんも(「新自由主義批判」で思考停止せずに)マクロ成長やマクロ政策に関心を寄せてほしい(そしてできればリフレ政策をプッシュしてほしい)と要望されたのでしょうが、これに対してhamachan先生が従来のご持論を述べられている、という展開だと思われます。
例によってごく大雑把にまとめますとこんな感じでしょうか。私がこう受け止めた、というだけの話なのでもちろん私の理解が間違っている可能性はかなりの程度ありますし表現のまずいところも多々あろうかと思いますが…。
- hamachan先生:リフレ派の有力な論者の中には労働政策や公共政策でとんでもない「カイカク」を唱道する人がいる。労働プロパーにリフレに関心を持ってもらいたいなら、まずはいなば先生のような人が彼らを黙らせるべきだ。そもそもマクロに関心のない労働プロパーが「金融緩和を攻撃する労働学者より、日銀法改正で雇用確保をいうオレのほうがよっぽど労働学者みたい」「大半は、左右を問わず伝統的日本型雇用への回帰を呼びかける以上のことができない」などと言っている人たちの関心事に興味を持てるはずがないことを反省してほしい。
- いなば先生:たしかにリフレ派の中にも労働政策について多様な意見があって一致した見解はないが、hamachan先生からみてもまともな意見を持つリフレ派もいる。あんなとんでもないことを言っている奴の仲間が信用できるか、というのもわからなくはないが、とんでもない「カイカク」を主張している人がリフレを主張しているからといってリフレまでとんでもないと考えてほしくないし、そう考える労働プロパーの研究者はいないのではないか。
一連のやりとりを見て、だいぶ前の話になりますが2009年9月15日のエントリhttp://d.hatena.ne.jp/roumuya/20090915(もう5年前になるのか)のコメント欄でのやりとりを思い出しました。当時ウェブ上でリフレ派の代表的な論客と目されていたbewaad氏が「総じて皆が幸せに生きていれば為政は総じて高く評価されるでしょうし、逆に総じて不幸なら為政は結果責任を問われざるを得ません。…そうされたくないならばまともなマクロ成長を達成するしかないのですが、そのような発想をする官僚は圧倒的少数ですから、自業自得ではあります」と述べられたのに対し、匿名の方から「官僚と言っても所掌する物が多岐に渡りますから、…例えば、外務、防衛系にマクロ成長云々を言うのは、かなりずれてると思いますし、厚生労働系に対して、マクロ成長を重視せよというのは、その本来趣旨と相容れないのでは?」というコメントが寄せられました。
その後の展開は続くコメント欄をご覧いただきたいのですが、今回も似たような図式だなあと思いました。おそらく、一部リフレ派の論者が述べ立てる「カイカク」のとんでもなさに対する「許せなさ加減」について、(元労働キャリアの)hamachan先生と、いなば先生とには決定的な温度差があるのでしょう。
実際、いなば先生は飯田先生の流動化論(たぶんあまり深く考えずに事実上の解雇自由化論を述べておられます)に対して「まあ飯田泰之君なんかは雇用流動化について変な期待をしてるなあとは思います」とあっさり片付けているわけですが、このあたりhamachan先生からしてみれば「経済成長やそのための金融緩和の重要性も承知しているが、もっと大切な正義がある」ということなのかもしれません*1。まさにhamachan先生のお言葉、「トッププライオリティ」の違いなのでしょう。
ただまあhamachan先生は村上尚己氏の
「日経「厚生労働省、正社員と同じような仕事をするパート労働者の待遇の差別を禁じるパート労働法改正案を通常国会に提出し今年度中に施行する予定。非正規そのものを否定するのではなく新たに10万人の待遇改善で格差解消を狙う」 こういうおバカな規制強化は逆に状況悪化させる。脱デフレしろ早く。
https://twitter.com/Murakami_Naoki/status/287106606313914368
というツイートをとりあげて、「「脱デフレしろ早く」という言葉が、「正社員と同じような仕事をするパート労働者の待遇を差別しろ」というたぐいの言葉とともに語られることが多い」「まっとうなリフレ派と自称する人々が、「リフレ政策以外はさまざまだから」という万能の言葉を振りかざしてこういうリフレとある種の思想との結合に対して何にもいわない」だから労働のプライオリティが高い人から信用されないと批判されるわけですが、そこまで求めるのはさすがに無理ではないかという感はあります。世の中には農業がトッププライオリティの人もいれば再生エネルギーこそトッププライオリティだという人もいるわけで、それこそ竹中平蔵先生*2なんかはそれらの人たちからも軒並みとんでもない「カイカク」批判を受けているわけですから、それらすべてに配慮して「いやリフレを主張するならそんな「カイカク」を主張してはいけません」と言って黙らせろというのも無理な話でしょう。そもそもそのトッププライオリティな人たちの見解が適切なのかという問題も別途あるわけなので、どうしたって「リフレ以外はさまざま」にならざるを得ないように思います。もちろんリフレ派は金融政策と経済政策だけ主張してろ、労働とか他の分野に口出しするな、という考え方はありうると思いますが、言論の自由を相当程度重視する私にとってはそれはちょっとヤバい感じのする「ある種の思想」のようにも思われます。
しかもこの村上氏のツイート、「おバカな規制強化」と言われて憤慨される気持ちはよくわかりますし私も率直に申し上げて気分は悪いですが、「正社員と同じような仕事をするパート労働者の待遇を差別しろ」と書いているわけではない。脱デフレして景気回復すればそんな規制をするまでもなくパートの賃金は上がるだろう、とも読めることも認めざるを得ません。これを異なるトッププライオリティの人が読んでどう感じるか、まで考慮しなければならないとなると、これはまた難問だなあと。
ただまあたとえば民主主義なんてものも「私には他のプライオリティがあります」という人たちを説得する気の遠くなるようなプロセスがあってここまで進歩してきたのでしょうから、社会的になにか従来と違うことを実現しようとしたらそうした努力が欠かせないことも事実なのでしょうが。