きのうの日経「経済教室」に、樋口美雄先生がワーク・ライフ・バランスに関する論考を寄せておられます。お題は「持続性向上へ働き方再考 長時間労働を解消−生活との調和、労使で対応」となっています。注目される記述を抜き書きしてみます。
ストルバー=サミュエルソンの生産要素価格均衡化定理に従うと、資本に比べ労働が希少な先進国では、自由貿易によって、高い相対賃金が引き下げられ、所得分配上、労働者は資本所有者に比べ不利になる。正規と非正規の賃金格差が大きいわが国では、それが非正規比率の引き上げでもたらされた。もっとも種々の分析結果を見ると、貿易の拡大が賃金低下に寄与した割合は大きくない。むしろ株式の外国人保有比率が上昇したことで、経営上、企業利益を重視するようになったことが影響していると指摘される。他方、中小企業では、大企業に比べ設備投資による資本装備率の引き上げが遅れ、労働生産性や利益の低迷が賃金上昇を難しくしている。
非正規比率上昇の背景には、企業の人件費の固定化を避けたい気持ちもある。電機総研の調べでは、技術革新で、製品のライフサイクルが短縮したり、長期的な生産の見通しが立てにくい企業ほど、請負労働者比率が上昇している。
(平成19年10月16日付日本経済新聞朝刊「経済教室」から)
感覚的には安価な中国製品との競争といったものが大きく感じられるわけですし、実際それを意識して非正規比率を上げている経営者も多いのではないかと想像しますが、その背景にあるのは「株式の外国人保有比率が上昇したことで、経営上、企業利益を重視するようになったこと」だというのはなかなか納得のいく話です。実際、技術力・開発力のある日本企業との長期的取引関係を犠牲にしても中国製の安価な素材・部品・資材などを使うというのと、長期的な人材育成を犠牲にしても非正規雇用を増やすというのとは、目先の短期的利益の実現のため、という点では一致しているわけですから。ということは、やはり短期的利益重視の短期保有株主の権利を制約することは必要だと思われてなりません。長期的人材育成を放棄する解雇規制撤廃ではなく。
逆に、ちょっとよくわからないのがここです。
近年、労働基準法での有期契約期間の延長や労働者派遣法での職種の拡大、期間の延長が進められ、雇用機会の拡大が目指されたが、同じような規制緩和を進めた欧州諸国に比べ日本の均衡処遇強化への対策は遅れている。今年成立した改正パート法でパート労働者の均衡処遇を求める法的根拠は強化されたが、有期労働者の議論も、今後必要であろう。正規と非正規の労働者保護の大きな違いは、労働需給の緩みと相まって非正規雇用を増やし、正規雇用者の就業環境をも悪化させる。
均衡処遇というのは格差を前提とした概念ですし、経営者が一方的かつ恣意的に賃金を決めているというならともかく、団体交渉や需給関係で決まった賃金であればそれなりに合理的で、格差はあっても均衡だと言ってもいいのではないでしょうか。ただ、組合の交渉力が強すぎて内部労働市場の賃金が高止まりし、企業の支払能力を圧迫して非正規雇用に低い賃金しか提示できない、といったようなことが全国あまねく起こっているというのなら話は別という気もしないではありません(以前、規制緩和屋さん?の誰かがどこかでそんなようなことを書いていたのを読んだような記憶があるのですが、自信なし)。実際、組合の交渉力はともかく、解雇や労働条件不利益変更に対する規制の存在が企業の支払能力を圧迫しているというのは可能性の議論としてはありうるのかもしれません。まあ、正規雇用の賃金を引き下げればたしかに格差は縮小することは間違いないわけですし、現在のような人手不足基調のもとではそれが非正規雇用の賃金上昇に向かう可能性もあるかもしれません。仮定の議論ですが…。
ただ、労組が団交で賃上げを実現することを禁止するわけにもいかないでしょうし、あまりに結果の均等を求めてしまうと、正規雇用の賃金が高い企業は、そうでない企業と較べて、同じ外部労働市場の同じ求職者により高い賃金を提示しなければいけないといった不合理なことが起きかねません。
また、「非正規雇用を増やし、正規雇用者の就業環境をも悪化させる」というのは、非正規が多い職場の就業環境は悪いということでしょう。たしかに、正規雇用者ばかりの職場に較べれば、なにかとフリクションは多いかもしれません。とはいえ、非正規雇用には雇用の柔軟性を確保するという役割もあることを考えれば、正規雇用者ばかりになった結果として雇用の安定性が低下し、失業のリスクが高まるとすれば、どちらが「就業環境の悪化」なのかはわかりません。
ただし企業の均衡処遇が強化されても、それは同じ雇用主のもとで働く労働者に限定され、同じ職場で働きながら雇用主の違う派遣労働者や請負労働者の処遇は均衡化されない。わが国では一部を除き職種別の企業横断的な労働市場が形成されていない。今後は社会的職能評価制度の構築などを通じ、高質な外部労働市場の形成を図り、企業の枠を超えた問題にも対応する必要がある。企業を辞めることで大きな損失が発生するとすれば、労働者はホールドアップ状態(無理難題をいわれても受け入れざるを得ない状態)に陥ってしまう。労働市場を整備するには官民の人材サービスの活用とともに、職業履歴や訓練履歴などを記入したジョブカードの普及が一助を担うと期待される。
まあ、金融業界では転職回数の多さを自慢する人がいるくらいで、どこでも通用する人材だと威張っているのでしょうが、これはやはり業界によるわけで、資産運用の仕事ならどの企業でもそれほどやっていることに違いはないでしょうが、独自技術や独自ノウハウの蓄積を競争している企業・業界ではそうはいかないでしょう。高度な人材になればなるほど「独自」の割合が高まり、結果として「企業を辞めることで大きな損失が発生する」ことになります。それは、そういう人材を育てるために企業が相当の人的投資を行っていることの裏返しでもありますし、また、そのために社員も相当の努力を払うわけですから、それが解雇規制が必要な理由でもあるということでしょう。「社会的職能評価制度の構築などを通じ、高質な外部労働市場の形成を図り、企業の枠を超えた問題にも対応する必要がある」というのももっともな部分はありますが、その通用する範囲はそれほど広くはないのではないかと思います。もちろん、通用する範囲ではやればいいと思いますし、実際やられているのではないかと思いますが。
ところで、「同じ職場で働きながら雇用主の違う派遣労働者や請負労働者の処遇は均衡化されない」とおっしゃいますが、同じ職場なら均衡化されなければならない、というのはいくらなんでも乱暴ではないでしょうか。同じ職場でも仕事や役割、責任、能力、成果などなどが異なれば当然処遇は異なるわけで。また、派遣や請負は職場が変わることも多いわけですが、そのたびに「同じ職場」の「雇用主の違う」正規社員との「均衡化」で賃金が変わるというのも不自然ではないかと思うのですが、これは私の感覚のほうがおかしいのかもしれませんが…。
職場環境の改善の直接的対応策として、ワークライフバランスの促進により、労働時間の短縮や柔軟化を図るべきだろう。ワークライフバランスとは、個人が働き方を見直し、私的生活を充実させるとともに、企業は仕事の内容や進め方を見直し、時間当たり生産性を高めようという取り組みである。この取り組みにより、従業員の就業意欲や生産性の向上、有能な人材の確保が可能になると考える企業は八割前後にのぼる。その取り組みの重要性は、人口減少社会で一段と増す。職場のどこに問題があるかは、それぞれの現場がいちばんよく知っており、労働基準関連の問題を除き、基本的には働き方の改革も個別労使の取り組みに任せるべきだ。
ただ、非組合員や派遣・請負労働者への対応、下請け企業や家族・地域への影響、少子化、地域活動などへの外部効果を考えると、政府による支援策も必要になる。この場合も主体はあくまで個別労使であるべきだ。政府は好事例の紹介やコンサルティング活用の支援をすることが考えられる。また各企業に自らの長時間労働者割合や有給休暇取得率、女性の出産後の継続就業率などの数値目標の作成や公開を求め、達成状況をチェックする仕組みを作ることが有効であろう。このような方式は次世代育成支援対策推進法を応用することで実現可能であり、労使など関係者で早急に検討すべきである。
前段はまったくそのとおりでしょう。後段についても、政府の役割がまったくないかといえばそうではないのでしょう。ただ、「各企業に自らの長時間労働者割合や有給休暇取得率、女性の出産後の継続就業率などの数値目標の作成や公開を求め、達成状況をチェックする仕組みを作る」のがいいかどうかはかなり疑問です。極端な話、最賃ギリギリのパートタイマーばかりの企業であれば長時間労働者割合はゼロ%になりますし、長時間労働の人が多くても、それ以上に賃金や福利厚生などが充実していて、企業内託児所も完備というような企業であれば、ワーク・ライフ・バランスの面で悪い企業だとも言い切れないでしょう。十年間の時限立法である次世代育成支援対策推進法を拡大活用することにも疑問がありますし、これこそ個別労使の取り組みに任せていくべきでしょう。企業は自分で宣伝になると判断すれば言われなくても宣伝するわけですし。