森戸先生とhamachan先生の不思議な議論

さてようやく本題に入りますが、上記日経の記事にhamachan先生から一言ないかと思って先生のブログを拝見したところこんなエントリを発見しました。「ジュリスト」の当該記事を読んでいないので的外れな話になる危険性は多々あるのですが、とりあえず先生のエントリにある範囲でコメントしてみたいと思います。まずは引用から。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/5-9922.html

『ジュリスト』5月号は「高齢者雇用の時代と実務の対応――高年齢者雇用安定法の改正」という特集です。
http://www.yuhikaku.co.jp/jurist/detail/018853
〔鼎談〕高年齢者雇用安定法改正の評価と高年齢者雇用のこれから●森戸英幸●清家 篤●水町勇一郎……12

 やはり、森戸、清家、水町という何とも言えない取り合わせの鼎談が読み応えがあります。
 それぞれに、自分の本来の考え方と、今回の改正の妥協の距離感を感じつつ、より良き現実への第一歩として論じているあたりがなんとも。
 本来定年廃止論の清家さん、年齢差別禁止論の水町さんとの対比で面白いのは、森戸さんが「思い切って解雇してみろよ」論になっている点で、これは労政審での審議がかなり影響しているのでしょうか。

森戸 私は、企業が今回の改正に本当にちゃんと対応しようとするのであれば、場合によっては60歳前でも解雇する、という覚悟を決めなければいけないと思っています。・・・

森戸 企業はこれまで、60歳になったので辞めて下さい。あなたはまだまだできるけれども、60歳定年なんですいませんと言えばよかった。今後はそうではなくて、あなたは定年まで仕方なくつないであげたけど、もう能力的にはゼロなんですよ、と言わなければいけなくなるわけです。私が思うに、経営側が今回の改正案に強く抵抗したのは、本音のところで、「おまえは能力がないから辞めろ」とは言いたくないというのがあったのではないかと。

これは、まさに私も改正の経緯の中で強く感じたことです。その趣旨は、例の海老原さん主催の場でもちょいとしゃべりましたね。
ただ、そういう議論自体が、実は日本型システムにどっぷり浸かった感覚から出てくるものであって、本当にゼロベースで考えて、「もう能力的にはゼロなんですよ」なんて馬鹿なことはほんとはないわけです。そういう風にしてしまったのは、本人の本当の能力とは別に年功的に昇進させて管理職にしてしまってきたからなので、就職したときから「もう能力的にはゼロなんですよ」だったはずはないのですね。
会社の命令であれこれ回されてきたあげくに「もう能力的にはゼロなんですよ」が通用するかという話になると、それはなかなか難しかろうとも思われるわけです。この手の話は全部つながってくるわけですが、日本で能力に基づく解雇も結構難しい最大の理由は、具体的なジョブの遂行能力でもって人事管理をやってないからですから、これは覚悟だけの問題じゃないのですよね。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/5-9922.htmlから

まず前段の森戸先生のご発言ですが、これは現に労政審(の部会)での審議に森戸先生とともに参加していた私にとってはかなり違和感のある議論です。
たしかに、部会でも申し上げたと思いますが、定年制が60歳までの雇用に対する労使双方の努力を促し、結果的に50代後半の雇用の安定に大きく寄与してきたことは事実だと思います。本当にゼロかどうかはともかくとして森戸先生の表現を借りれば50代後半にしてすでに「もう能力的にはゼロなんですよ」の人も60歳まではとにかく何らかの形で働いていただく。もちろんその人件費原資は他の従業員が広く薄く負担するわけですが、それは長期勤続の中で誰にも発生しうるリスクに対する事実上の互助的な保険機能として結果的に労使が選択してきたものだ、ということも繰り返し書いてきたと思います。いっぽうで、現実には能力的にはゼロどころか十分なんだけれど、しかし組織を長期的に継続するためには後進育成のために道を譲っていただかなければならないというケースも出てくる。こうした中では、往々にしてあいまいで恣意的な判断がはいりやすい「具体的なジョブの遂行能力」ではなく、年齢というきわめて客観的、かつ出自やカネなどに左右されないという意味で公平であり、生き延びる限り誰しも20歳、40歳、60歳を1年経験するという意味で機会均等な指標を用いることは、従業員の納得を得るという意味できわめて有効だったわけです。
ですから、たしかに森戸先生ご指摘のとおり「おまえは能力がないから辞めろ」とは言いたくないのは誰だってそうだろうと思いますし、そんなこと言わずに「定年だから」と言って感謝状と花束を渡してハッピーリタイヤメントを演出しているという面も確かにあって人事管理上それはそれで重要ですが、しかし副次的なものであるともいえると思います。
しかし、ここからが重要なところですが、2004年の改正高齢法施行以来、そうした性格もかなり大きく変化しています。つまり、原則65歳まで継続雇用とはなったものの、労使協定で継続雇用しない人の基準を設けることができるようになったわけです。しかも、その基準については極力明確で恣意を排するものとされました。もう一度森戸先生の表現を借りれば、基準に該当しない「もう能力的にはゼロなんですよ」という人が継続雇用を希望してきた際には(労使で)「おまえは能力がないから辞めろ」と言うようになったわけです。それが2004年に導入され今回存続をめぐって議論が分かれた基準制度の本質ではないかと思います。逆にいえば労組がこれに加担することを忍びなく思うのもわからないではないということも以前書いたと思います。

  • さらにいえば、この希望したけど「おまえは能力がないから辞めろ」と言われた人が全体の2%いたわけで、2%の話だから基準制度廃止の影響はほとんどないと行政は宣伝していたわけですが、当然ながら希望しなかった人の中には相当程度「自分は基準に該当しそうにない、能力がないから辞めろと言われるくらいなら希望しないでおこう」と考えた人がいたはずで(審議会の部会でも労働者代表委員から「だから基準を廃止すべき」という趣旨の発言がありました)、それを考えれば「2%だから影響ない」という主張は失当だと思いますし、ましてやそれを「賃金が下がるから希望しないのだ」という議論にすりかえるのは悪質だと思います(いやそれで希望しない人もいたとは思いますが)。上で取り上げた若年雇用への影響も含め、こうした行政の詭弁がまかり通ったのが今回の高齢法改正の特徴のひとつだったように思います。

同時に、多くの企業では、60歳でみんな感謝状と花束と退職金をもらうけれど、ある人はそのまま去って行き、別の人は「給料半分ですが明日からもここで働きます」と残ったわけで、まあ建前は崩れていないにしてもハッピーリタイヤメント演出度もやや低下している感は免れません。
そこで今回の改正ですが、基準制度は廃止されるものの、継続雇用しないに値する理由があれば継続雇用することを要しないとされたわけで、結局は労使で決めた基準という比較的明確な尺度がある状態から、従来から解雇権濫用法理などで指摘されているのと類似の予見可能性の低い状態への移行を余儀なくされた、というのが経営サイドの受け止めではなかろうかと思います。ですから、おそらくは企業は従来の労使協定した基準と同じような「おまえは能力がないから辞めろ」基準のようなものを示しつつ、それに該当しそうな人は継続雇用を希望しないでね、それなりに再就職支援や生活支援はしますから、といった対応をしていくのではないでしょうか。ただ、それはあくまで定年退職ですから、森戸先生の言われる「60歳前でも解雇する、という覚悟」とはかなり距離があるように思われます。ということで森戸先生の議論をまとめれば「10年前の話」というのが率直な感想です。
さて続くhamachan先生の議論ですが、「本当にゼロベースで考えて、「もう能力的にはゼロなんですよ」なんて馬鹿なことはほんとはないわけです。」というのは、本当/ほんとが2回出てきて思いの強さが伺われますが、たしかにそのとおりで、いくらなんでも定年まで勤め上げてきた人が能力的にゼロということはないだろうと思います(もちろん森戸先生もご承知のうえで誇張されているのだと思います)。賃金水準に見合わない、というのはもちろんあると思いますが、そこは60歳定年でそれまでの分は清算して、継続雇用時は賃金は2分の1とか3分の1とか、賞与は金一封とかにできるわけなので、まあ健康面で問題があるとか組織運営上難しいとかいう事情があれば格別、そうでなければマッチする仕事がプロバイドできるか、という問題になるのだと思います。そこに企業の苦心があるわけですが。
さてそれに続けてhamachan先生は「そういう風にしてしまったのは、本人の本当の能力とは別に年功的に昇進させて管理職にしてしまってきたからなので、就職したときから「もう能力的にはゼロなんですよ」だったはずはないのですね。」と苦言を呈されるわけですが、どういう意味なのでしょうか。まず後段、「就職したときから「もう能力的にはゼロなんですよ」だったはずはない」と言われますが、しかしわが国の新卒採用・長期雇用においては就職したときが最も「能力的にゼロ」に近いことは明々白々ではないかと思います。
前段の「そういう風にしてしまったのは、本人の本当の能力とは別に年功的に昇進させて管理職にしてしまってきたから」というのも、まずそういう風がどういう風なのかがよくわからないのですが、とりあえず「本人の本当の能力とは別に年功的に昇進させて管理職にしてしまっ」たという人がいたとして(いまどきそんな人も滅多にいなかろうと思いますが、などと書くと貴様がそうだろうという声が聞こえてきそうですが)、それこそ定年後は上に書いたように「本当の能力」に応じた適度な労働条件と職務で再就労していただけばいいわけで。まあ同じ賃金で管理職として雇い続けることができないのは「年功的に昇進させて管理職にしてしまってきたから」というのはそのとおりというケースもあるでしょうが(場合による)。もっとも、企業組織が拡大しにくい昨今、管理職ポストというのは企業の人材育成上かなり希少な資源なので、上でも書きましたが定年前に(能力的には十分でも)返上していただくことのほうが多いのではないかと思いますが。
続く「会社の命令であれこれ回されてきたあげくに「もう能力的にはゼロなんですよ」が通用するかという話になると、それはなかなか難しかろうとも思われる」に関しては、定年前は格別定年後については私は十分通用するし当然に通用すると考えています。「会社の命令であれこれ回されてきたあげく」定年を迎えるわけであって、それまでの分はそこで退職金も受け取っていったん清算して「会社の命令であれこれ回され」たことの落とし前がついたうえで退職するわけです。そして、希望すれば新たな労働条件、新たな職務で再雇用され、65歳まで継続雇用される。もちろん、この新たな労働条件、新たな職務の提示まで「もう能力的にはゼロなんですよ」だからしませんというのは、それは(企業としては苦心するところですが)「なかなか難しかろうと」私も思います。しかし、定年後再雇用の新たな雇用契約は多くの場合hamachan先生のいわゆるジョブ型の有期契約であり、当該ジョブを遂行する能力を喪失する/事業縮小などで当該ジョブが消失するといった場合には当然に雇い止めもありうるものでしょう。定年前までの人事管理を定年後再雇用においても引きずるのだとすれば、それはまさに審議会の部会でも繰り返し議論された「定年延長となにが違うんだ」という根幹の部分にかかわってくるわけですし、再雇用後は定年前とは切れたジョブ型雇用になるからこそ「代替は主に非正規雇用との間で発生し若年正社員就職への影響は軽微」という議論もされていたわけですし。まあこのあたり人事制度や再雇用制度がどういう設計になっているかによりますので、企業もそれを慎重に検討する必要があると思います。
最後の「覚悟だけの問題じゃない」については、60歳以前に解雇する覚悟という話とはかなり距離があるだろうなと思うのは上で書いたとおりですが、定年時についてはすでに清算が済んでいるので別問題です。もちろん難しかろうと思いますが、「能力的にゼロ」だから、あるいは別の理由もあるでしょうが、再就労を提示しないことはできるし、それが合理的で相当な場合もあるはずです。争いになるかならないか、なった場合にどういう結論になるかということも考えたうえで再就労を提示しないというチョイスは当然ありうるもので、ここは覚悟といえば覚悟の問題かもしれません。
その観点から今回の法改正を評価すれば、改正前は労使の覚悟の問題だったのに対し、改正後は使用者だけの覚悟が問われるようになったということではないでしょうか。そう考えると、以前は企業が労組を一種の「共犯関係」に巻き込んでいたところ労組がそれを解消したというのが今回の法改正だったのかもしれません。上で書いたようにその気持ちはわかりますし、いっぽうで私などはそれをとらえて逃げるのかなどと申し上げて各方面の顰蹙を買ったわけですが、しかし労組として制度的な関与の保障を捨てて使用者のフリーハンドに任せることが本当によかったのかということは私は今も疑問に思っています。