定年制禁止=随意的雇用ではない

連合総研から、機関誌「DIO」の6月号が送られてきました。連合総研のサイトでも全文が読めるようです。
http://rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio239.pdf
その中に、私が書いた文章に言及されている部分があるので、ひとこと。
この号の特集は「『労働法改革』を考える」となっていて、私も参加した連合総研の研究会「イニシアチブ2009研究委員会」の成果をもとにしたシンポジウムにおける水町勇一郎東京大学准教授(研究委員会主査)の報告をメインに、研究委員会でゲストスピーカーとしてお招きしたお二人の研究者の論考が加えられています。
うち、お一方は名城大学法学部准教授の柳澤武先生で、お題は「雇用における年齢差別の撤廃」となっています。趣旨としては定年制を含む年齢差別を法律で禁止せよ、というものですが、その根拠らしきものは「日本でも、年齢に関わりなく働くことができる(エイジフリー)社会を目指した法政策が動き始めた」という記述くらいしか見当たらず、さすがにこれでは議論のしようがありません。まあ、著者の脳内では定年制を含む年齢差別は法律で禁止されるべきものとして自明なのでしょう。この論考では、それを自明とした上での、森戸英幸『いつでもクビ切り社会−「エイジフリー」の罠』への批判が中心となっています。その中で、私の書いた文章への言及があります。

 筆者としては、かねてより年齢差別禁止の実現を主張してきたこともあり、改正経緯には問題があったものの、雇用対策法改正で「義務規定化されたこと自体は一歩前進」と結論付けた(柳澤武「新しい雇用対策法制−人口減少社会における年齢差別の禁止」季刊労働法218号110頁(2007))。そして、義務規定化を契機として、「年齢差別」という概念の多義性や柔軟性が見直され、日本の平等法理全体の発展に寄与することを期待したのである。この見解は、基本的に今でも変わっていない。
 これに対し、今のまま年齢差別禁止政策を進めていくと、年齢に関わりなくクビになる社会がやってくると警告するのが、森戸英幸氏(上智大学教授)である(森戸英幸『いつでもクビ切り社会「エイジフリー」の罠』(文藝春秋、2009))。そして、「義務規定化が少し早すぎたのではないか」として、高年法18条の2による説明義務を中心とした施策を行うべく、雇用対策法10条の廃止を主張する。「なぜエイジフリー社会になるのか?」という要点整理や、高年法が課す説明義務の重要性、現行法に対する「ちぐはぐな法政策」という批判など、森戸氏の主張には共感できる部分も多々ある。ただし、年齢差別の禁止が「クビ切り」に結びつくという見解だけは、にわかに賛同することができない。
 これはアメリカ法との比較から導かれた帰結だとされているが、果たしてそうだろうか。第1に、アメリカの随意的雇用(≒解雇自由)の原則も、パブリック・ポリシー、契約上の誠実義務、被用者ハンドブックなどにより、現在では部分的に修正されている。第2に、アメリカでは差別禁止法違反について行政機関(EEOC)に申立を行うことが可能であり(2008年度には95,402件の申立があり、そのうち年齢差別が25.8%を占める)、内容次第ではEEOCが原告となって民事訴訟を提起する権限が与えられているなど、差別禁止法を実効化するための法システムが整っている。以上の2点からも、日本で年齢差別禁止法を導入することと引換えに、使用者による「いつでもクビ切り」を認める必然性は乏しいと考える。
 とはいえ、森戸氏のスタンス(解雇規制の緩和)に同意される人事担当者も少なくないであろう。実際、年齢差別を禁止するならば50代で解雇されざるを得ない人が多く出てくるとの意見が、大手製造業の人事部長から示されている(「イニシアチヴ2009」ディスカッション・ペーパー163頁)。その一方で、日本マクドナルドなど、定年制度の廃止はもとより、年齢に関わらない雇用管理制度を新たに導入した企業があることも事実である。

うーん、しかし、森戸先生も定年廃止するならアメリカのような随意的雇用になるぞとか、すべきだとか言っておられるわけではないと思うんですけどね。「いつでもクビ切り社会」というアイキャッチーな書名は、たしかにいかにも随意的雇用を連想させるわけですが、森戸先生が言われているのは「定年を禁止すれば、年齢以外の能力減退などのなんらかの理由での解雇の増加を行わざるを得なくなる、年齢以外の理由による以上、それは年齢とは無関係なので、どんな年齢でも解雇されうるという点では当然に『いつでもクビ切り』ということになる」といったようなことだと思うのですが(本が手元になく、記憶で書いているので曖昧ですが)。
また、仮に森戸先生がそう主張しておられたとしても、日本の解雇規制と、柳澤先生が指摘される米国の「パブリック・ポリシー、契約上の誠実義務、被用者ハンドブック」「差別禁止法違反について行政機関(EEOC)に申立を行うことが可能」とでは保護のレベルが大きく異なっていて、柳澤先生の主張はまったく反論になっていません。
さて、引用部分の最後に出てくる

…森戸氏のスタンス(解雇規制の緩和)に同意される人事担当者も少なくないであろう。実際、年齢差別を禁止するならば50代で解雇されざるを得ない人が多く出てくるとの意見が、大手製造業の人事部長から示されている(「イニシアチヴ2009」ディスカッション・ペーパー163頁)。

これは間違いなく私のことです。私のことなのですが、まことに余談ながら柳澤先生のご紹介には間違いがあって、私は「人事部長」ではなく「人事部担当部長」です(笑)。各社とも、「○○部長」というのはおそらく社内でのステータスがかなり高いのではないかと思いますが(ちなみに私の場合は「人事部長」は私の直属の上司です)、これが「○○部担当部長」となると、多くの場合は途端に「名ばかり部長」(笑)となり、かなりの格の違いがある、というのは民間企業では常識でしょう。「担当部長」以外にも、企業によって専任部長とか部長代理とか部長心得とか部長補佐とか部長待遇とかさまざまな呼称があり、さらには次長、課長といった各階層にもそれぞれ同等のものが多々あったりもして(次長待遇とか担当課長とか)、これらの肩書きにはとりあえず「おまえには残業はつかないよ」という程度の意味しかない、要するにヒラ社員ということも多いわけです。私もどちらかというと(というか、明らかに)それに近いのでありまして、柳澤先生が言われるような立派な立場ではありません。
余談はさておき、私のことを「森戸氏のスタンス(解雇規制の緩和)に同意される人事担当者」と言われるのは、はなはだ不本意と申し上げざるを得ません。私は別段、解雇規制の緩和に同意しているわけではないからです。
イニシアチヴ2009のディスカッションペーパーも、いずれ連合総研のサイトで公開されると思いますので、ご関心があれば全体はそこでご覧いただくとして、柳澤先生のご紹介に該当すると思われる部分は、このようになっています。

…定年制を批判する人はとかく定年後ばかりに着目するが、定年前に目を転じれば、50代後半期を中心とした時期の雇用の安定に対する定年制の貢献は大きい。現状、わが国では60歳定年制が支配的だが、現実には50歳を過ぎる頃から能力のさまざまな側面で相当の個人差が出はじめる。典型的には体力や視力であり、あるいは新技術・新技能への対応力なども含まれよう。もちろん、さまざまな能力が良好な状態のまま定年を迎える人もいる。こうした人は再雇用制度などで定年後も引き続き雇用されることも珍しくないに違いない。いっぽうで、残念ながら50代なかばで能力の衰えが覆いがたくなる人もいよう。現状では、多くの企業で「定年までは、60歳まではがんばろう」という目標を労使が共有し、企業も本人の実情に合った仕事につけ、労働条件もそれほど落とすこともせず、本人もなるべく能力を維持したり、あるいは新しい仕事に適応したりすることに努力する。これは定年制なくしては不可能だろう。
 もし、ここで定年制を禁止したらどうなるか。もちろん、あわせて年齢以外の理由による雇用の終了も厳しく制限してしまえば、これは死ぬまで雇用するという文字通りの終身雇用となろうが、さすがにそれは現実的ではあるまい。となると、企業はなんらかの別の基準、具体的には能力の減退などによって解雇などを行わざるを得なくなる。65歳、70歳まで雇用される人がいる一方で、「定年まで」を目標とした企業の努力は行われなくなり、55歳、50歳で解雇されざるを得なくなる人も多く出てこよう。こうした人たちの再就職は容易ではないだろうし、労働条件もおそらく良好なものとはならないだろう。これらの得失を考えれば、わが国では今後とも定年制を維持することが望まれる。年齢による差別の包括的禁止を行うべきでないひとつのゆえんである。

お読みいただければ、私が解雇規制の緩和を主張しているわけではないことはご理解いただけるものと思います。
繰り返しになりますが、定年制のある現状だと、たとえば55歳で明らかに労働能力が減衰してしまい、解雇しても合理性や相当性があるだろうと思われる従業員についても、配置転換をしたり、業務上の配慮などを行うことで「定年まではなんとかがんばって働いてもらおう」という努力が相当程度行われるわけです。これは、実務的には長期雇用が事実上「定年までの有期契約」である以上、当然のことですし、労働者のほうも定年を目標に相当の努力を行うわけです(使用者と異なり、労働者は事実上一方的に退職することが可能な現実があるわけですが、それでも実際には労働者の側も定年まで働き続けられるよう努力することも多いわけで、これもまた「定年までの有期契約」という形式に沿っているともいえます)。
定年制が禁止されてしまえば、定年以外の理由での退職が増えることは避けがたいわけで、現行の規制が緩和されなくても、合理性・相当性のある解雇による退職も増えるでしょう(現実には、解雇の前に、合理的な労働条件の引き下げなどが先行するでしょうが)、ということを私は申し上げているわけで、なにも解雇規制の緩和を主張しているわけではありません。
もっとも、現状でも解雇の合理性・相当性の判断はかなりケースバイケースなわけで、定年制が禁止された場合に、裁判所の合理性・相当性の判断がどうなるのか、というのはかなり興味深い論点のようには思われます。現状は定年制の存在を前提にして判断されているわけで、定年制がなくなってしまえば、その前提が大きく変わってくるからです。

いつでもクビ切り社会―「エイジフリー」の罠 (文春新書)

いつでもクビ切り社会―「エイジフリー」の罠 (文春新書)

(6月19日追記)
池田信夫先生は、「定年を廃止するためには、年功賃金を廃止して同一労働・同一賃金にし、生産性の低い労働者は年齢にかかわらず解雇できるようにするしかない。働ける老人を活用し、少子化社会に対応するためにも、雇用規制の緩和は重要なテーマである。」と主張しておられるようです(http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/3ce56eaa5e8747c0aa136927c9b7e0df)。
たしかに、業務変更とそれにともなう減給をより柔軟にできるようにすれば、将来の貢献が大きくは見込めない高齢者の生産性が残念ながら低下したときにもかなり対応しやすくなることは事実です。これはなにも「年功賃金を廃止して同一労働・同一賃金にし」まで行く必要はなく、ある段階までは育成重視の賃金体系を適用してもいいはずです。そのような雇用規制の緩和は考えられてもいいかもしれません。それでもなお適当な仕事のない労働者は、定年制があればなんとか定年までは雇うとしても、定年制が禁止されればその時点で解雇せざるを得ないわけで、これはおそらく現行の解雇規制下でも不可能ではないでしょう。