玄田有史先生から、先生の編になる社研の研究シリーズNo.42『危機に克つための雇用システム−近未来事業プロジェクト成果報告会の全記録−』をご恵投いただきました。ありがとうございます。
http://jww.iss.u-tokyo.ac.jp/publishments/issrs/issrs/
これは1月11日に開催された社研のシンポジウムの記録です。概要は以下のサイトにありますが社研を中心になかなか豪華な顔ぶれで、とりわけhamachan先生ことJILPTの濱口桂一郎総括研究員が指定討論者として登場しておられるのが目を引きます。
http://web.iss.u-tokyo.ac.jp/future/sympo.html
私も参加して途中発言を求められたりもしたのですが、なかなかご紹介するタイミングもないまま報告書を頂戴してしまいました。でまあ社研のサイトでコピペできるのではないかと思って見に行ったところそこまでのサービスはないようで(笑)、細々とタイプできる範囲で(激しくいまさらながらではありますが)ご紹介と若干のコメントを試みたいと思います。
さてこのシンポジウム、第1部では社研の近未来事業プロジェクトの研究成果を報告する玄田先生の基調講演があり、それに対して濱口先生がコメントされました。具体的な研究成果もすべて興味深いのですがとりあえずスキップさせていただいて、そこからの含意として玄田先生が標題の「創造的安息(Creative Rest)」を提案されました。一見して意味のつかみにくい概念ですので当該部分を引用します。
…我々が今回大きくテーマとして提案しているのは、まず「余裕のなさ」という概念です。…どこもかしこも「一杯いっぱい」。個人も、企業も、学校も、社会も、「一杯いっぱい」。なにが「一杯いっぱい」なのかは状況によって違うかもしれませんが、とにかく余裕がない。
誰か支えあう人がいれば、支えあいながらその「一杯いっぱい」な状況を変えることができたとしても、…孤立無業もそうですし、…無縁社会もそうですし、高齢者の孤独死もそうですが、社会の孤立化がこの「一杯いっぱい」の状況や余裕のなさに拍車をかけているように思います。
…余裕のない状況が続くと、それは次第に「焦り」になります。そして「焦り」が募ると、今度は何が起こるかというと「誰か解決して」となります。そして解決を待つだけで、結局、「自律的な思考停止」の状況が生まれる。最後は、目の前の短絡的な解決策に藁をもすがるようにすがりついてしまう。そんなスパイラル状況が、実は雇用社会に見られたのではないでしょうか。
…あらゆる意味で余裕を失ってくる。その結果、多かれ少なかれ思考停止の状況になってしまったことが、真の危機ではないかと思うんです。
では、この余裕のなさに対してどういうふうに対処しているのか。難しい問題です。難しいけれども、あえてここでひとつのキーワードを示したいと思います。それは創造性のある、柔軟性のある、安定性のある将来の雇用システムのキーワードでもあります。そのような概念として「創造的安息(CREATIVE REST)」を提案してみたいと思います。
…危機の状況でいちばん懸念されるのは、余裕がなくなることで更に危機を助長する負のスパイラルです。だとすれば、大事なことは何か。日常的に創造的安息をもたらす環境を誰でも保証する必要があるということです。
では、創造的安息とは何か。いくつかのヒントがあります。労働に関わっている方…が、しばしば仕事の「棚卸し」とか、ときには働く上での「遊び」が大事だと言われることがあります。…また日雇い派遣村が話題になったときに、そこで一生懸命に仕事をされていた湯浅誠さんとか、哲学者の鷲田清一さんたちが当時、盛んにおっしゃっていた「社会に『溜め』がなくなっている」という表現もあります。こんな「溜め」とか「棚卸し」とか「遊び」という一部の人たちはよく知っている言葉が、実は社会の中では未だに共有されていないのではないか。
…安息というのも、単なる休息とは少し違うと思っています。むしろ、次の跳躍につなげるための必要なステップのようなものです。いってみれば「節目」のようなものがこの創造的安息だろうと考えています。
…もともと「ワークライフバランス」の概念に込められた思いのひとつは、そのなかにある種の「溜め」をつくるとか、「遊び」をつくるとか「ステップ」をつくることだったのではないかと思うんです。
「キャリア」というのも、まさに節目、節目を大切にしながら、生涯を歩んでいくことだろうと思います。ですので、ここで創造的安息という言葉に我々が込めた思いは、実のところ、ワークライフバランスやキャリア形成の考えの根幹にあるのだと思います。
だとすれば大事になるのは、それをどうやってシステムのなかに保証するかということです。経済学ではよく「労働」と「余暇」というのを二分法で考えます。けれども、これからは「労働」と「余暇」は二分法ではなく、「労働」と「創造的安息」と「余暇」というトライアングルで発想していくことが必要ではないでしょうか。正規でない働き方をしている人にも必要なのは、もちろんそれなりの報酬、そして安定なのでしょう。しかし、それと同時に、次のためのステップとなるような創造的安息が、正社員の人たちにこそ、もっと保障されるシステムが考えられるべきだと考えています。
…具体的に何から取り組んでいけばいいのか。…やはり、創造的安息では「時間」という誰にとっても限られて大切な資源をどう取り扱うかということを、もう一度見直さなければならない。…もう一度、どういう労働時間のあり方が望ましいのか。時間外割増の検討や、また一定時間働いた後にはそれなりの休息を義務づける。…労働時間のあり方をもう一度、いまこそ立ち止まって考える必要があるでしょう。
また、トラブルや日常に困難に出会ったときに、その節目、節目で必要なのは人との出会いです。一人で考えるだけでは将来勤められないときに、節目で人と出会い、いろんな話をし、いろんなヒントをもらう。そのためには、その対応に乗れる「専門的な人材」…も必要になってくるわけです。そして、その人がいる「場所」もいる。それは、学校であったり、NPOであったり、行政であったりするでしょうが、そういう場所をどうやってつくっていくのかが、問われています。
私は、…「支援者支援」という言葉を政策の検討ではよく使います。…政府が若者を支援すること…も大事だが、若者を支援する若者を支援することはもっと大事なことかもしれない。それは、社会にとっての対策ではなく、大きな投資になる…。今そういう支援する人材を育てなければ、無業者をはじめ、多くの人にとって創造的安息のための準備ができないかもしれません。
(玄田編上掲書、pp.39-45)
タイポがあろうかと思いますがご容赦ください。まあなかなかとらえどころのない概念のように思いますが、人生の「節目」において、仕事をしなければならないわけではなく、余暇として使うわけでもない、そういう時間に、これまでの自分を振り返り(「棚卸し」)、これからの自分について考え、それに向けた準備をする。そんな余裕が「遊び」「溜め」であり、そんな「余裕がない」と「一杯いっぱい」になる。こんな感じではないかと思うのですが、これってキャリアデザインそのものではないでしょうか。
そのために必要なものとして玄田先生は「時間」と「支援」を強調しておられますが、もうひとつ、これはかするくらいに触れられているだけですが、「金銭」もたぶん必要でしょう(たぶん湯浅氏の「溜め」は金銭も含んだ概念ではないかと思います)。もっとも玄田さんの主たる関心は無業者などにあるので、ここでは金銭は支援に含まれているのかもしれません。
- もちろんこうした創造的安息は無業者に限らず職業能力/経済力を有する人たちにも望ましいものであり、例の「40歳定年」なるものも学び直しを強調することを考えるとここでの「節目」を無理矢理に作ろうとするものだという理解ができるかもしれません。ただまあ根本的に「節目」って年齢や勤続年数で無理矢理押し付けられるものかねえとは思いますし、時間、金銭、支援への配慮は十分なのかなあとの疑問はありますし(これは疑問であって実際十分な可能性はある)、その他あれやこれやで依然として「40歳定年」はダメだろうとは思いますが。
さてこの創造的安息、もちろんその趣旨は大筋で賛同できるものではありますが私としても申し上げたいことがないではなく、実際この場でも後からご指名により申し上げましたが、とりあえずは指定討論者のhamachan先生こと濱口桂一郎先生のコメントをご紹介しましょう。前段ではプロジェクトの研究成果に対するコメントがあってこれも非常に面白いのですが割愛させていただいて、創造的休息についてのコメントをご紹介します。おお、これはhamachan先生のサイトからコピペできるぞ。わーいわーい。
…玄田理論というか、玄田ビジョンというか、玄田ドクトリンというのかよくわかりませんけれども、社研の一緒に研究された方々に共有されているのかいないのかもよくわかりませんけれども(笑)、いくつか玄田先生の出されたキーワードについて、ものすごく格調の低いコメントをしてみたいと思います。…曲解して、そして難癖をつけるようなコメントです。だけど、それにまったく意味がないとはじつは思っていない。
なぜかというと、…きょうは何人かマスコミの方も来られています。そういうのが記事になると、キーワードだけ捉えてカッコいい記事になるんですね。そのカッコいいキーワードだけをちょっと盛った記事を見たどこかの会社の社長が、朝礼の社長訓示でどう言うかというと、決してここで1時間半聞かれた皆さんと同じような意識、認識でものを言わないんじゃないか。…
最初に、玄田ドクトリン・その1で「余裕のなさ」という言葉が出ました。そのとおりだと思います。しかも、その余裕のなさというのは、労働時間だけの問題じゃない。…確かに労働時間だけで見れば、昔だってやっぱり高かっただろうと。それはそうだと思います。だけど、余裕がなくなってきた。それは多分、皆さんも実感としてあるんじゃないかなと思います。それは何だろうか。
ひとつは、これも昔から言うことですけれども、労働時間の密度。それも、少数精鋭化でよりたくさんの業務量が入ってきたという量的な密度もありますし、…非正規化が進んで、昔に比べて正社員の仕事がより難しい、管理的な仕事になってきたという、質的な密度ということもあるでしょう。
このへん、じつは一般的というよりも、特定のところを念頭に置いてしゃべっているなとお考えになるかもしれませんけれども、世の中全体が責任を追求する度合いがすごく高まった、高まってきているというのがけっこう大きいような気がします。何かあったときに、「なんでこんなことをしたんだ」と責任を追求される度合いが高まれば高まるほど、後で「なんでこんなことをやったんだ」と言われないように予め防波堤をつくっておく。…
さらに言うと、このへんからものすごく偏見に満ちた言い方になりますが、トップダウンで無駄な作業が増えているんじゃないかという印象を持っています。もともと日本はいわゆる御神輿型という言い方で、末端の人たちがすごく熱心に、いわば経営者目線で仕事をする。その結果、上は御神輿として乗っていれば物事がうまくいった。ところが、それではだめだと。もっとトップダウンで、しっかりリーダーシップを発揮しなければいけない。すごく立派ですが、そのリーダーシップはそれだけの人がやっているのかなと。「特定の組織を想定してるんじゃないですよ」って、ちょっといいわけしておきますが、流行に流されて闇雲にトップダウンすることでかえって組織が非効率になり、無駄な作業が増えているんじゃないかなと。これ、印象論です。…
…といって、もちろん昔の御神輿型に戻れという話でもないのだろうと。だけど、さっき言いましたけれども、「余裕のなさ」という話がポーンと出て、社長訓示で「余裕がないのはだめだ。もっと余裕をつくるようにがんばれ」みたいな変な話になるかもしれないんですよ(笑)。それでいいのかなと。
もうひとつ、きょうの玄田ドクトリンのいちばんカッコいい言葉、「CREATIVE REST」…カッコいい言葉ですね。偏見ですけど、私はクリエイティブという形容詞が付くと、ちょっとこうしたほうがいいんじゃないかなと思うんですよ(眉に唾をつける真似)。何か言うと、すぐ「もっとクリエイティブであれ」と。…「…クリエイティブ人材だ」というんですけれども、そんなクリエイティブ人材が何を生み出しているのと。「クリエイティブ、クリエイティブ」と言ってるところが、いちばんガラクタを生んでるんじゃないのと(笑)。…
安息って、あまり日本語では使いませんよね。…RESTをそのまま訳すと「休息」ですよね。「安息」とわざわざ使うのは何だろう。「安」と「息」、「安心」と「休息」。「安心はだめだと言ったけど、やっぱり安心じゃないか」…、安心して休めるということじゃないか。あれこれ心配せずに休めるということじゃないかなと、私は思います。
それと、このクリエイティブという形容詞は本当に合っているのかと。また、新聞記事を見た社長が出てきます。社長訓示で、「東京大学の玄田有史先生という偉い先生が、これからは創造的安息だと言われている。君ら、休んでいるときも夢、安心なんかしちゃいかんのだ。創造的で安息だよ」と。大変です(笑)。おちおち休んでいられません。CREATIVE REST だけど、夜も寝ずに一所懸命にクリエイティブになろうと思って休息していて、それって安息なのだろうかと、私のような人間はつい思っちゃいます。
逆に、「もっとクリエイティブであれ」なんて言われないほうが、結果的にクリエイティブになるかもしれない。…「クリエイティブであれ、クリエイティブであれ」と1日24時間、ずっと思いながら休息しているよりも、ポーンとそんなこと考えずに休息しているほうが、もしかしたら何か生み出すかもしれませんよね。と思いません? 私はそう思います。これは怠け者の発想ですけれども、だけど世の中の多くの人はじつは怠け者だと思います。怠け者がクリエイティブになるって、なかなか難しい。その怠け者に、「クリエイティブであれ、クリエイティブであれ」と言うのが本当にいいことかなというのが、多分玄田先生が期待されていたのとはちょっと違うコメントですけれども、私のコメントです。
そして、最後に一言。過度にクリエイティブを求められない。しかし、それなりに安心と休息が確保されるような、要するにそんじょそこらにいるごく普通の人が、普通に仕事をして暮らしていけるような、そんなあり方。「危機に克つ」というのは、本当に社長が朝の朝礼で訓示するのにふさわしい言い方で、これだけ言うと絶対に「危機に克つためにこれしろ、あれしろ」と言うと思うんですが、それをやればやるほどますますカチンコチンになってしまうと思います。そうじゃない、「クリエイティブであれ」とか「危機に克つ」とかいうのをいったん外してものを考えてみたらどうかなと。玄田先生の格調の高い報告をぜんぶぶち壊しにするような、格調の低いコメントをしてしまいました。その責任はすべて、私なんかにコメントを要求した社研の皆さまにあるということを最後にお断りして、私の拙いコメントを終わりたいと思います。ありがとうございました。
(玄田編上掲書、pp.53-57)
「特定の組織を想定してるんじゃないですよ」とおっしゃるわけですが民主党とか政治主導とか。それはそれとして、聴講した際にはhamachan先生(みなさまこちらのほうが通りがいいと思うので先生には失礼ながら以下この表記とします)頑張っておられるなあと思ったわけですが、しかしこうして文章にして並べてみるとけっこう同じです。実はhamachan先生も玄田先生の創造的安息の考え方自体には反対はしておられず(明言はしておられませんがむしろ賛成で)、ただそれをクリエイティブと称するのはどうかと言っておられるわけですね。というか、「クリエイティブになれ」と言われてクリエイティブになれるってもんじゃない、というところでしょうか。hamachan先生は「怠け者がクリエイティブになるって、なかなか難しい。」と言われていますが、おそらくは「怠け者が24時間クリエイティブであろうと努力するって、なかなか難しい。」というのがその趣旨で、実際には「ポーンとそんなこと考えずに休息している」怠け者のほうが「何か生み出すかもしれません」。ということで、怠け者もクリエイティブになる可能性はあるよねと。だとすると、この創造的安息が十分な理解を得ないままに一人歩きして「どこかの会社の社長が、朝礼の社長訓示で」安息も「クリエイティブであれ」と言ってしまったりすると、かえって創造的安息に必要な休息ができなくなってしまうのではないかと。で、それは「危機に克つ」も同様ですと指摘されているわけです。自ら明言しておられるとおり難癖だなとは思いましたが、しかし重要な観点であろうとも思います。
さて第2部は豪華メンバーによるパネルですが、本日はここまでということで。さて次回があるやら、っていつもこればかりだな私。