玄田有史先生の「創造的安息(Creative Rest)」(2)

案の定間が空いてしまいましたが1月に開催された社研のシンポジウムのもようをはなはだ今更ながらご紹介してまいりたいと思います。第2部はパネルディスカッションで、玄田先生がモデレータを務められ、パネリストは社研の佐藤博樹先生、中村圭介先生、水町勇一郎先生に加え、元社研で現早大准教授の黒田祥子先生、東大教授の白波瀬佐和子先生とhamachan先生ことJILPTの濱口桂一郎先生というまことに贅沢なメンバーです。通例どおり最初に一応一通り全員のキーノートスピーチがあり、そのあとにディスカッションという流れとなりました。
最初に黒田先生が立たれ、まず日本人は労働時間が長く生産性が低いというお話があり、その理由として第一に「ていねいの呪縛」というのを挙げられました。具体的には、たとえばスターバックスでコーヒーを頼むとペーパーカップが熱過ぎて持てないということがないようにボール紙製のスリーブをつけてくれて、こういうていねいな顧客サービスが日本企業の品質/競争力になっているのはいいのだけれど、そうしたていねいさにとらわれるあまりたとえば社内向けの資料なども必要以上にていねいすぎるものになっているのではないかというご指摘です。続けて第二に「能力の低さ」、ここは記録を読んでもいまひとつよくわからないのですがとにかく新卒一括採用・社内育成が悪者にされていて、これが普及した結果、学校での教育投資が行われない/回収されないようになって能力の低下を招き、長時間労働に依存するしかなくなっているとかいう話のようです。その上で、私は正直経済学者の見解としてはやや意外で、ご自身でも法学者との対比で類似のことをおっしゃられていますが、「法制度の助けを借りた大きな方向転換」、具体的には勤務間インタバル規制や年次有給休暇取得完全取得義務化などを提案されました。能力の低さに関しては企業は大学の成績を見て採用せよ、採用選考活動を遅らせよ、という話でした。
でまあ先に「一応一通り」と書いたのはさっそく玄田先生の司会で議論がはじまったからで、佐藤博樹先生がコメントを求められていてこれがきわめて興味深い。

玄田 ありがとうございました(拍手)。黒田さんのご意見に、どなたかコメントを。佐藤さん、どうですか。いま「学校の勉強は必要ない」という企業はだめじゃないの?
佐藤 「大学で勉強しなくていい」といった企業の判断が、まず間違っています。そういう企業には、行かないほうがいいです。
玄田 だよね(笑)。
佐藤 企業としては、何を勉強して来てもいいんですよ。哲学を勉強して来てもいいし、歴史を勉強して来てもいい。そういう点では、経営学を勉強した人しか採らないという採り方でないのは事実ですけれども、自分の頭で考えることをやっているかどうかを見てないような企業は、間違っていると思います。
玄田 勤務時間のほうはどうですか。勤務間インターバル制度とか、有給完全取得は?
佐藤 その前に「能力がない」といったとき、どういう能力がないかというと、多分時間の使い方、段取り能力なんですよ。日本って、会社に入るでしょう。若いうちは、「まだ仕事ができない覚える時間だから、残業してでも貢献しろ」と言われます。つまり、本来は所定労働時間にあたるわけだから、与えられた仕事を所定労働時間でやるためには事前に準備しなければいけないんだけど、そういう訓練を受けていない。だから、仕事の段取りなり、時間の使い方なり、仕事のマネージメントの訓練を入社から受けてないということが、すごく大きいと思います。だから能力がないというより、仕事をマネージメントする能力がないと言ったほうがよくて。
玄田 マネージメント能力。
佐藤 「能力が低い」と言ってしまうと、じゃ、全部教えなきゃいけないのかということになってしまうので、能力はあるんだけど、それを効率的に使う使い方を勉強してないところに最大の問題があると思います。
(玄田編前掲書、pp.68-69)

まあある意味日本企業の現状を紹介しているだけかもしれませんが、さすがに核心に迫っていて、まず大学での勉強/教育は重要なんだけれどそれは職業能力とかいったものではなく、哲学でも歴史でも自分の頭で考える、どちらかというとリベラルアーツ重視です。さらにマネージメント能力の重要性が指摘されていて、たしかにこれは企業内教育でもまず叩き込まれるもので、新入社員が宴会の幹事や主張のロジなんかをやらされるのもなによりこういう意味でのマネージメント教育の部分があるでしょう。で、これは大学の勉強でなくても、たとえば体育会で、限られた時間と施設をいかに効率的に使ってトレーニングするかとか、対戦相手のどのデータをどう分析してどう戦術に生かすかとかいった経験でも身につくでしょうし、さまざまな学外活動、それこそアルバイトなんかでも身につくかもしれない。まあすべてをカバーするわけではなく、それなりの大企業・銘柄大にとどまる議論かもしれませんが、よしあしはともかく現状では企業がなにを重視していてそれがなぜかということをコンパクトに指摘しておられ、こうした認識をふまえて議論されなければ有意義にならないだろうと思われますので、玄田先生の司会はなかなか巧妙なものだと感心しました(ちょっとえらそう)。
さて続いて白波瀬先生が「感想めいた」と前置きされてお話されました。いろいろとお話されましたが、私の印象に残ったのはまず「安心して休む」という話で、これは記録を読むとhamachan先生がおっしゃったことにたいして「とてもいい」という文脈だったようです。将来の見通しが重要であり、見通しがつくには将来について考えるだけの余裕がある、それが「安息」ということばになったのではないか、ということでした。それにクリエイティブという言葉を使うかどうかについては、次の発想、イマジネーション、想像力を生むくらいの余裕、といった提案をしておられました。また、最後に「ボイス」、多様な人の声が重要であり、声を上げることができ、声の大小や質にかかわらず聞かなければならないシステムをつくることが重要だ、という話をされたのをとらえて、また玄田先生が他のパネリストの意見を求められました。

玄田 水町さん、白波瀬さんの最後の「多様なボイスを活かす仕組み」というのは、何かコメントがありますか。
水町 社会学と法学というのは比較的仲がよくて、法の新しいシステム論というのは社会学の蓄積から取り入れることもよくあります。法学のなかでもボイスとか、多様な意見、多様な価値を重視するというのがいま新しい主流で、ボイスというのも多様な価値を取り入れられるような手続きとか、システムのなかで取り入れて法制度化しなきゃいけないという意味では、まったく共感します。
玄田 制度とか法律という意味で、具体的な論点はあるんですか。
水町 例えば労働組合がいっぱいあるところで、どの組合の判断に従うかとか、多数組合があって少数者がどう尊重されるべきかということがあります。そのときにも、数で「多数組合が決めているから、それはもう絶対合理的なんだ」というのではなくて、もう少し慎重にいろんな意見を取り込んでいきながら判断することが、じつは中長期的に見たら企業の発展とか、個人の豊かさにつながるという話が、法システム論のなかにもあります。
玄田 中村さんは、ボイスという面では何かコメントがありますか。
中村 あったほうがいいと思いますね(笑)。これをもっと広げるためには、労働組合法を改正したほうがいいと常々思っているので、憲法改正よりもはるかに重要だと僕は思っています。
玄田 具体的に、どの部分ですか。
中村 たとえば日本の労働組合法では、経費援助されるのはダメなんですよ。
玄田 何の援助?
中村 労働組合の役員の給与などを、会社側が負担するのはダメなんです。労働組合への経費援助は労働組合法7条「不当労働行為」にあたるのでできない。これは日本だけです。
玄田 経費援助ですか。
中村 うん、日本だけなんですよ。それを変えたほうがいいと僕は思っていますけどね。ボイスをもっと拾い上げるためにも。
玄田 それが、ボイスにつながる。
中村 そうだと思う。
玄田 ボイスを汲み取る活動にもっと力が入るとか?
中村 要するに、中小企業では労働組合をつくって専従者を置くことはできないんです。かなり高い組合費を取らなきゃいけないので。日本の労働組合の多くは、結局は、経営者にプラスになるようなことをやるので、経営者は経費面で労働組合を援助し、そのことによって従業員の声を汲み上げるような仕組みを作ったらよいと僕は思う。
玄田 ありがとうございます。ボイス一つでもいろいろ話題になりました。
(玄田編前掲書、pp.72-72)

水町先生のご意見は理屈としてはもっともだとは思うのですが、しかしいっぽうでわが国で問題になっているのは少数労組の権利が強すぎる点だということも現実で、「もう少し慎重にいろんな意見を取り込んでいきながら判断する」の程度問題が重要なのではないかと思いました。ということであまり軽はずみに「システムのなかで取り入れて法制度化」されるのも困るなと。
中村先生のご指摘については、連合などは労働者代表制を以前からプッシュしていて、必置規制にしろとかいう意見もあるようです。まあ労働者の発言の場を確保し発言力を高めたいとの意図はわかるのですが、本当に法制化されて経費援助もできる(経費援助も義務化しろとの意見もあるようですし)となると、経営者からみると労働者代表があれば労働組合は要らないということになってしまうでしょう。まあ労組たるもの経営と対峙敵対すべしという意見の人はそれでいいと思っているのかもしれませんが、現実には組織論としては労組の自殺行為だよなと思います。そこで私としては任意設置の労使委員会に規制面での権限を付与することを通じてその設置の促進をはかり、ひいては労組への組織化の橋頭堡にしていくことが望ましいという立場なのですが、たしかに中村先生ご指摘のとおり「日本の労働組合の多くは、結局は、経営者にプラスになるようなことをやる」という組織戦略をとるのであれば専従者1人くらいの経費援助は認めてしまえばいいという考え方は十分にありうるのかもしれません。もっともここでも少数労組の問題はあり、たとえば組合員が2人しかいないとか、あるいは大きい組合なんだけれどその企業には組合員は1人しかいませんとかいった場合に、専従者1人くらいの経費援助をするというのも現実的ではなく、まあこのあたりは禁止はしないが実施はあくまで経営の任意だということにしておく必要がありそうです。
続いて佐藤博樹先生が、まず「想定外」とはいっても「何が起こるかわからない」想定外と「いつかは起きるがいつ起きるかはわからない」想定外は区別する必要があると指摘されました(後者は想定内のような気もしますが)。
その上で、雇用システムについてはいつかは転職が不可避になるだろうし、転職しないまでも異なる仕事をしなければならなくなろうだろうということはやはり時期がわからない想定外であり、そのために必要な準備はわかる。そこで重要な能力は個別特定の職業能力といったものよりは、変化に柔軟に対応できる能力とか、学習能力とかいったものだと指摘されました。このあたりは、小池和男先生の知的熟練論を即座に想起させますね。
そこで変化に適応する能力については、OJTで獲得した能力は変化に対する有効性が低く、能力を理論化し汎用化することが必要だと指摘され、そのために企業外で学ぶことの重要性を強調されました。その上で、そのような自発的学習を可能とするような時間を確保することは企業の人材戦略上も必要なことであり、「創造的安息」についても言葉としては嫌いだけれどそういう中身であれば大切だと述べられました。
その中で、これは佐藤先生のご持論だろうと思うのですが「職場も、日頃から勉強すると言うことが評価されるような職場にしておく」というお話があり、たしかにそうなんでしょうが難しい問題だなあと思いました。つまり、勉強することが職場で評価されないかといえば決してそんなことはなく、むしろエンジニアなどは勉強しなくなったらおしまいなわけで、したがって常に勉強することは評価されていると考えるべきでしょう。問題は佐藤先生が想定されるような大学院で理論を学ぶといったような勉強がどう評価されているかであって、なるほどそれで修士号をとっても給料が上がるかというとそうでない企業のほうが多かろうと思います。要するに大学院で理論を学ぶことは本当に変化適応力や学習能力を高めるのかという問題と、仮にそうだとして(そうではないかという気はしますし)、そのような勉強の場がアクセス可能な形で十分に提供されているのかという問題がありそうです。いや高学歴になるほど柔軟性が低下するという話もあるわけで、私はこれは文部科学省の大失政だと思っているのですが、博士を多数輩出した結果就職できませんという状況が現にあるわけで、これは結局柔軟性の問題ではないかという意見もあります。もちろん相当程度の就労経験のある社会人と同一視はできないと思いますが。
ということで、現在の仕事に関係する勉強というのは職場でも評価されてしかるべきであり、現にされているとも思いますが、大学院で理論を学ぶといった勉強は、現に新しい仕事に柔軟に適応できた、というように具体的な成果が実現した時点で評価されるべきもののように思われます。で、これもすでに相当程度実施されていることではないかとも思います。さらにいえば、佐藤先生は「平日に美術館に行けるような労働時間が重要」といったことも言われましたが、私も一部同意見で、つまり芸術や文学に親しむとか異分野の知識や理論を学ぶとかいったことはなんらかの形で仕事にもいい影響があると根拠もなく信じているわけですが、しかしこれまで職場で高く評価すべしとはさすがにいえないでしょう。これこそ、現にその結果として(かどうかも検証できないわけですが)それこそクリエイティブな成果が出れば結果的に評価されるということではないかと思います。
続いて中村圭介先生が発言され、まず日本のホワイトカラーの特色として「自主的に働きすぎる」ことと「人事がキャリアに世話を焼きすぎる」ことを指摘されました。前者については、働くことはいいとしても働きすぎるのはよくないが、しかし自主的に働きすぎているので法律などで制御することが難しいという指摘です。後者は、強い雇用保障、内部育成で柔軟性の高い働き方といった人事管理の結果、労働者は自分のキャリアを自分で決めなくなっているという趣旨だと思います。中村先生によれば、この2つの特徴のために、日本の労働者は危機に弱いのだということで、なるほどそうなのかなという気もしなくはありません。これに対する処方箋としては、前者についてはとにかく労使で努力して、自主的にルールを作って、自発的に働こうとする人に枠をはめようとする動きが現実に出てきている。後者については、企業の人事管理を方向転換することを求められていて、ここは報告書から引用します。

…自分で自分の仕事をというときに、65歳までの雇用継続をどうやって進めていくかも大事です。いま僕は60歳ですけれども、僕は自分で自分のことは決めていますが、「最後になってこれかよ」という人が増えてくると、「じゃ、40歳からちゃんと選ばせてよ」という気持ちになってくるかもしれない。僕は、実はそれを期待しているんです。そうなると、人事がやることは、仕事のメニューやコースを用意して、それに手を挙げさせることになる。そのコースはいいところもあれば、厳しいのもあれば、ラクなのもある。ラクだと賃金も下がると思うんだけど、そういうコースを用意して選ばせる。当然いいところに殺到するとしても、それは厳しく選択、選別する。そういう多様なコースが出来上がれば、人事にサポートされながら、「自分で自分の人生を決めなきゃいけないんだな」となる。
(玄田編前掲書、p.79)

まあ事実上かなりの程度やっているんじゃないかと思います。ただ、確かに選ばせているかというとそうでもなく、ある程度だれもが当然中村先生のいわゆる「厳しいの」を選ぶだろうという前提で、その上で「厳しく選択、選別」して「あなたはこちらの『ラクだと賃金も下がる(相対的に低い)』コースで」ということに結果的になっているという形ではないかと思います。もちろん家庭の事情や健康面の問題や個人の価値観で『ラクだと賃金も下がる(相対的に低い)』コースでいいや、という人も少数いることはいて、そういう人は当初は「いやいやあなたもここまで育成したんだからもっと厳しく働いてもらわないと困ります」という話になるかもしれませんが、しかしいずれ徐々にラクだとコースにシフトしていくのでしょう。
ですから、これをもっと明示的に、まあ40歳は少し遅い感はあるのでまだ転職価値のある30代半ばくらいの時点で将来のコースを提示して、どれを希望するか選んでもらって、選択、選別して決めてしまうというやり方は十分にあるのだろうと思います。その結果、希望したコースを選べなかった人は、転職にチャンスを求めることもできるわけで、それが可能なのはまあ30代のうちではないかと思うわけです(これについては過去何度か書いていると思います)。
これはもちろん30代でやらなければいけないという理由もないわけで、入社のときに決めてもらってもいいじゃないかという考え方も当然あって、そこからもいま議論されている多様な雇用契約、職種限定や勤務地限定で雇用保障が相対的に強くない正社員、という発想につながっていくわけです。業務・勤務地・労働時間等々無限定で厳しいかわりに雇用保障も賃金も高い幹部候補生正社員だけではなく、仕事や勤務地が限定されていてその分ラクだけど賃金や雇用保障もそれなりですよという准正社員というコースも作って選んでもらい、それなりに労使双方にメリットのあるものにしていけるのではないかと思います。もちろん、一定の要件と手続きのもとにコースチェンジを可能とすることで入社後に発生した家庭事情などにも対応可能とすることも十分に考えられるものと思います。
さて続いては水町先生の登場で、まずは労働法理論の国際的潮流として、第一に労働者の潜在能力を高め発揮させるインフラ作りが労働法の役割であり、それを機能させるために政府と労働者の中間に位置する専門家が重要であると考えられていること、第二に労働法のあり方として労使の取り組みにインセンティブを与えることが重視されていることが紹介され、いずれも玄田先生のプランに整合的であると指摘されました。
「余裕のなさ」については、かつては日本ないし東アジア固有とされていたこの問題が実は欧州でも広がっており、問題が先行して顕在化したゆえに日本の取り組みが先進事例となっていることが紹介され、「法を変えただけでは現実は変わらない」との認識のもと、人事管理や労使関係、さらには促進的税制といったシステム全体での対応が必要と述べられました。「創造的安息」については、休みをとって主体的に選択できることが個人と社会の幸福につながるという意味でのキャッチフレーズであれば賛同するとのことでした。
最後にいよいよhamachan先生ご登場となりましたが、まあ基本的には第1部でご発言されたことの繰り返しで、従来のボトムアップ型の仕事・働き方を求められる一方でトップダウンな要請が強まっていることがストレスの原因だという説明です。佐藤先生の言われたマネジメント能力をとらえて、マネジメント能力はマネージャーに求められる能力であるところ日本は一般従業員もマネジメント能力を求められてボトムアップでやってきたが、トップダウンでやりたいなら一般従業員はマネジメント能力なんか求められないジョブ型にするのが整合的だというような趣旨の発言をされていたと思います。
このあとパネリスト同士の議論が少しあり、佐藤先生がhamachan先生のコメントに対して自分をマネジメントする能力が欠如しているのが問題であり、具体的にはいくら働いてもいい条件下では長時間労働してやりきってしまうけれど、それでは生産性が上がらないので、中村先生が言われたように休日とか時間とかで縛りをかけることでその中でなんとかできるだけのことをやろうというマネジメント能力が向上するはずだという趣旨の発言をされました。中村先生はこれに対して、時間の制約を生産性向上やマネジメント高度化の契機にすることは賛成だが、制約のない一般的社員が自発的に働きすぎている現実を変えることも重要だと指摘されました。これを受けて水町先生は、正社員が無制限に働いて潜在能力を発揮することが非正規の潜在能力の発揮を阻害している可能性を指摘され、全体として潜在能力を発揮できるシステムの重要性を主張されました。白波瀬先生は労働者の生涯を見通した雇用政策について問題提起され、玄田先生がかつては日本型雇用システムを共有したうえで議論していたが今日は共有できない部分が大きくなり、そのため問題が細分化されていると指摘されました。最後に黒田先生が制度的補完性の観点の重要性を指摘されて全体をひきとられました。
ここで違和感を覚えたのは、佐藤先生のご指摘も中村先生のご意見も一面では非常にごもっともだと思うのですが、しかし時間の制約なしにやりきることが大切な仕事というのもかなりあるのではないかと思います。というか時間の制約がある中でできることだけやってたらイノベーションなんて生まれないのではないか(例外の存在は否定しない)と思うのですがどうなのでしょう。第1部ではhamachan先生が「ポーンと…休息しているほうが、もしかしたら何か生み出すかもしれませんよね」と発言しておられますが、これだって休息中はクリエイティブとか考えてないにせよ、休息の前にはおそらく相当程度没頭して考えていたからこそ、「ポーンと休息して」いるときに何か生まれるわけでしょうし。あと、妥協なくやりきることの人材育成上の効果についても、これは優れた研究者を多々輩出されている佐藤先生や中村先生にも同意いただけるものと思います。程度と範囲の議論は必要ですが、やりきることの大切さは見失いたくないものだと思います。
さて第3部では全体討論となり私もご指名により格調の低いコメントをいたしましたが明日以降に続きます。