小池和男先生が逝去されました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
それを機にhamachan先生がブログで「日本型雇用システム論と小池理論の評価(再掲)」と題して、かつての「小池ファンは小池理論を全く逆に取り違えている件」というエントリを再ポストされていますので、まあタイトルには批判と書きましたがそこまでのものでもなく、若干の感想を書きたいと思います。小池先生の諸著作に当たり直すほどの時間は現実的にありませんので多分に記憶に頼った議論になることはご容赦願えればと思います。
さて、小池先生の所論が一貫して(「欧米型は実は日本型と同じなんだ」とまで端的にいえるかどうかは別として)「日本型とされるものは決して日本独自のものではなく欧米でもふつうにみられるもの」というものであったことには私も同感です。それが(hamachan先生も慎重にカギ括弧をつけられているように)「常識はずれ」の理論であったかどうかは別として、当時(多分に現在も)往々にして見られた「日本的雇用慣行は日本独自であり諸外国にはみられない」という意見に対しては通説破壊的ではあったのでしょう。
一方で、少なくとも90年代の労働研究者の間ではこの小池説は比較的率直に受容されていたようにも見えるわけで、たとえば、八代尚宏先生は1997年の名著『日本的雇用慣行の経済学』でこのように明確に述べておられるわけです。
一般に、「日本的」と称される雇用慣行の特徴としては、長期的な雇用関係(いわゆる終身雇用)、年齢や勤続年数に比例して高まる賃金体系(年功賃金)、企業別に組織された労働組合、などがあげられる。これら企業とその雇用者の間の固定的な関係は、かつては雇用者の企業への忠誠心を確保するメカニズムとして理解された時期もあった。しかし、欧米の企業でも、雇用の固定性は必ずしもめずらしいわけではなく、日本と欧米諸国との雇用慣行の違いは、質的な違いよりも、それがどの程度まで企業間で普及しているかの量的な違いにすぎない。
(八代尚宏(1997)『日本的雇用慣行の経済学』p.35、強調引用者)
この時期の小池説も(おそらく米国における内部昇進制の後退が背景となって)、日本ではブルーカラーにもホワイトカラー的な人事管理が拡大されているといった量的側面に着目していたのではないかと思います。少なくとも私の理解はそういうものなので、hamachan先生の(hamachan先生が想定される)「小池ファン」なるものは無意識に小池説が「いやいや日本型の方が効率的で人間的で素晴らしい、という考え方」に立っているが、実際の小池説は「日本は全然特殊ではない」というものだ、というすぐれて質的な立論にはかなりの違和感を覚えます。
それに続く知的熟練論批判については、たしかに小池先生がhamachan先生の重視される(政治的な)集団的労使関係によるルール形成についてあまり関心を払ってこなかったことは事実なのだろうと私も一応は思います。ただ、それに対してhamachan先生が(おそらくは仮説段階の)文献をあれこれと引用して小池説は「労使関係論なききわめて純粋経済学的な議論」であり「多くの人は小池氏を実証的労使関係論者だと思っているよう」だがそうではない、と主張されていることにはやはり違和感を禁じえません。小池先生が(集団的関係とは異なる)職場におけるミクロの労使関係(人材育成をふくむ人事管理)に非常に重要な関心を持たれ、多数のていねいな聞き取り調査を重ねておられたことは私は経験的に承知していますし、大半の(笑)労働研究者の共通理解でもありましょう(たとえば、hamachan先生が完全無視しておられる2001年の『もの造りの技能-自動車産業の職場で』を参照ください)。こうした調査をもとに構築された知的熟練論の有用性は私には疑いようのないものに思えます(実証されたといえるかどうかは私には判断のつかない問題です)。
さてhamachan先生は「リストラ時の企業行動は、中高年の「知的熟練」を幻想だと考えていることを明白に示している」と知的熟練論の無用性を断罪されるわけですが、これについてもきわめて違和感が強いと申し上げざるを得ません。
まずそもそもの話として、hamachan先生も引かれているように知的熟練の中核的な指標は(a)経験のはばと(b)問題処理のノウハウとされているわけですが、そのレベルはどの程度であるかといえば、上記小池ほか(2001)によれば「トラブルの原因を推理し、解決することができる」あるいは「新しい生産設備の設計を見て、現場における問題点を予想できる」というもの(「ひとつのスイッチを押すにも、機械体系全体の仕組みについての理解が要求され」るというのもそういうことでしょう)であるわけです。さすがにここまでの水準に達した技能者が通常のリストラでそのターゲットになるということは考えにくいように思われるのですがどんなものなのでしょうか。
もちろん、そこまでハイレベルではないけれどそこそこの知的熟練を持つ中高年、という人は相当数いるわけで、hamachan先生のご所論もそのあたりを念頭に置いておられるのかもしれません。
正確に言えば、白紙の状態で「入社」してOJTでいろいろな仕事を覚えている時期には、「職務遂行能力」は確かに年々上昇しているけれども、中年期に入ってからは必ずしもそうではない(にもかかわらず、年功的な「能力」評価のために、「職務遂行能力」がなお上がり続けていることになっている)というのが、企業側の本音でしょう。
たしかに「知的熟練を形成するような賃金制度」(≒職能資格給)が、中高年の賃金が割高なものになりやすい制度でもあることは事実です。そもそも勤続奨励的な後払いになっていることに加えて、中高年になるとポスト詰まりや仕事詰まりが発生して能力≒賃金に見合った仕事を付与できないことが増えてくるという事情があるからです(平均的にみれば、中高年であっても能力は上がり続けている「ことになっている」のではなく、実際に上がってはいるものの、それを発揮できるポストやポジションにつけないために明示的になっていないだけではないかと思います)。いずれにしても、中高年の賃金はその一時点だけで見れば割高であり、かつ人材的にもオーバースペックなので、リストラの対象になりやすいことも自然といえるでしょう。
これは量的な問題であり、そこそこの知的熟練がある人が今100人いるけれど、今後は80人しか必要ありませんということになれば、今現在賃金が割高な人(多くは中高年)がリストラ対象になるというのは普通の話であり、特段それで知的熟練の価値が落ちるわけではないでしょう。これは別段知的熟練以外の能力と同じだろうと思います。
これに対して「せっかく育成した人を手放すのはもったいないと思いませんか、また育てるのは大変だと思いませんか、やりすぎると育てられなくなると思いませんか」というのが小池説であるわけですが、これはまあ一時的な不況を乗り切ればその後はまた元に戻ってさらに成長が見込めるということであればそうかもしれませんという話でしょう。これが不可逆的な空洞化のようなケースであれば、もったいなくもなければ当座育てる必要もないということで人員整理に踏み切ることになるでしょうし、今後育ってくることを考えれば足元では必要以上の人数を整理することになるかもしれません。
とはいえ、それをもって「「リストラ時の企業行動は、中高年の「知的熟練」を幻想だと考えていることを明白に示している」と言い切れるのでしょうか。hamachan先生は「小池理論は中高年の高賃金を知的熟練論で論証」したと書かれていますが、そもそも知的熟練だけが熟練ではないわけですし、熟練とはまた異なる能力というものもあるのであって、企業がすべての中高年が高賃金に見合う知的熟練を有しているなどと考えていたわけはなかろうと思います。知的熟練自体は実体のあるものですが、全員が知的熟練を有する(ようになる)と考えるのはたしかに幻想です。しかし、そんな幻想は本当にあったのでしょうか。あったとしても、せいぜい交渉事の中で労組が持ち出して、経営が一部乗りましたという程度の話ではなかったかという気がします。
なお、小池説が宇野理論に大幅に依拠・立脚しているとの分析は(偉そうな言い方で申し訳ありませんが)さすがhamachan先生!という感じで非常に興味深く読みました。なるほど、一部の論敵が小池説を執拗に論難・罵倒するのはそういう背景があるからか…などと妙に腑に落ちるものがあります。「大半の」のくだりで笑ってしまったのもその話で、まあ、私がリアルで経験したことまで「それはお前の夢の中の話だ、違うというなら写真を出せ」とか言われてしまうと困るよなあと(もちろん実際に言われているわけではない)。
eulabourlaw.cocolog-nifty.com