神林龍先生の解雇ルール論

続けて昨日掲載された神林先生の論考をみていきましょう。こちらのお題は「見直し、人事管理と両輪で」となっていますが、必ずしも大きな見直しを主張しているわけではありません。

 解雇ルールは、日本においては人事管理の問題だった。明文化された解雇一般を制御する解雇権乱用法理も、判例にとどまっている整理解雇法理も、人事管理全体のバランスの中で、個別の解雇事例の合理性を判断してきた。そしてこの理解は、最近の解雇ルールを巡る議論にいくつかの示唆を与えてくれる。
…例えば日本の労働法規制は諸外国と比較すると人事権の裁量を大幅に認めている。思想的背景を理由に採用を拒否できるし、育児・介護などの理由で残業・配転を拒否すると解雇される。賃金や退職金など契約上明文化された約定でさえ、使用者が被用者の同意を得ずに一方的に変更しても、合理的である限り、契約内容の変更は認められる。裁量の範囲で対応が可能ならば解雇すべきではないという解雇ルールは、こうした人事権の大きな裁量と整合する。
 人事権として大きな裁量を使用者に認めることには、経済合理的な側面もある。生産に際して、被用者に定着を促し職場内の協力を引き出すには、熟練・技能形成に積極的に関わり情報を共有させなければならない。それには、残業など労働時間での調整、退職金や賃金体系、頻繁な配転、入社後10年間は差をつけない遅い昇進、客観的な指標よりも主観的な能力評価の重視といった人事管理が必要となる。そして長期雇用を尊重した解雇ルールはこのパズルの欠かせないピースでもある。
…日本的雇用慣行を前提として、その範囲での解雇ルールの変更はどのような帰結をもたらすだろうか。日本的雇用慣行が諸ルールの補完的な関係から成立していることを念頭に置くと、解雇ルールだけを変更するのはそれほど意味がない。…
 解雇ルールの見直しは人事権の見直しと両輪で進めなければならない。例えば差別的な採用を禁止し、退職金への課税優遇措置を廃止する、あるいは裁量的な残業命令を限定し、就業規則の一方的な変更を許さないなど、同時に考えなければならない要素が多数ある。現在議論されつつある「勤務地限定、職務限定」の労働契約は、人事管理と解雇ルールの変更を同時に促すという意味で合理的だろう。
(平成25年4月10日付日本経済新聞朝刊「経済教室」から、以下同じ)

中略部分では日本的雇用慣行がまだ日本企業で現在でもある程度保持されていることが示されていますが省略しました。ここまではhamachan先生(実は省略部分でお名前も出てきます)なども繰り返し指摘されているポイントであり、昨日の大内先生もきちんと押さえて論じておられました。
さて、

 ただし勤務地や職務のみならず、他の人事管理についても設計し直す必要があることを強調したい。「たとえ勤務地限定、職務限定で採用したとしても、工場の閉鎖などで本当に解雇できるのか」という疑問は、他の人事管理との整合性がとれているか不確かなことにも起因する。
 解雇ルールが人事管理と一体になっているという考え方に基づけば、そもそも解雇ルールは企業により千差万別であってしかるべきである。解雇のタイミング、補償の金額や退職勧奨の方法などは、昇進メカニズムや人事考課、職場内訓練(OJT)の程度などその企業の人事管理と対応し、個々の事情に応じて労使で調整する方が市場原理の利点を享受できる。実際、現行の解雇ルールのうち、特に整理解雇法理は、労使交渉を通じて個々の事情に応じた解決を促す性質を持っている。
 この観点からは、基本的に国が労働契約の内容に画一的ルールを設ける必要はない。現実に流通各社では、立法によらずとも勤務地や職務を限定した「准正社員」なる被用者を活用している。一方で、いったんつくった准正社員を廃止し、旧来の正社員と非正社員に戻した企業もあることには注意すべきだろう。同一業種といえども適切な人事管理や解雇ルールは個々に異なり、国や外部の第三者が効率的な解雇ルールを超越的に設定できる範囲は限定的だ。

ということで、大内先生が主張されている「具体的な解雇のルール(どのような場合に、どのような段階を踏んで解雇をするか)は、現在の解雇事由記載義務の延長線上で企業に策定させたほうがよい」という説まであと一歩のところまできています。ということで、ここまでは実は両先生の説にあまり違いはないといえそうです。
続いて中小企業の話に移るのですが、これも違うようで実はそれほど違わないようです。

 ただし労使交渉に頼れる範囲への悪影響を考慮しても、中小企業などの領域では、国が超越的に典型的な契約内容を示す必要もあるかもしれない。労働組合の組織率に象徴されるように労使対話の弱体化が進行しているからだ。そもそも労使自治を核とした日本的雇用慣行と縁のない領域も増えている。ルール設定を労使自治に任せすぎた場合、こうした領域ではいわば「無法」地帯が実現してしまう可能性すらある。実際、浜口桂一郎氏が「日本の雇用終了」で明らかにした零細企業での解雇事例は、教科書的労働規制や日本的雇用慣行がこの領域でいかに無力かを示す。労使自治に頼ることをやめ、国家が法律という形で典型契約を設定するのは、この問題を回避する方向の一つだろう。

結局のところ大内先生の適用除外にしても100%の自由化を志向するわけではないでしょうし、神林先生の典型的な雇用契約にしても現状の実態を大きく離れるものを想定しているわけではないでしょう。となると、程度問題の着地点にどれほどの開きがあるかはわからないとしても、視点が逆なだけで同じことを言っているともいえると思います。
最後に、

 80年代以降の規制緩和と呼ばれた労働市場政策は、実のところ労使自治の役割を増大させてきた。また日本法は世界的にも労働組合に対する保護が強い。にもかかわらず労使自治が機能しない領域が拡大する一途ならば、従業員代表制度などを新たに創設し、強制的に労使コミュニケーションを回復する選択肢もあるが、その先には労使自治による規範形成そのものを諦めることも現実味を帯びてくる。
 日本的雇用慣行の下で融通むげだった労働契約の「白地性」を捨てる覚悟も必要だろう。人事管理の問題だった解雇ルールを、社会的ルールとして整備すべきかどうか検討する時期なのかもしれない。

これについては、さすがに組織率が高く代表性にも疑問のない大企業の企業別労組まで含めて「労使自治による規範形成そのものを諦める」ことまでお考えではないと信じたいと思います。私としては労使関係をしっかりと成熟させてきた労使には大幅に規範形成の権利を与え、さらにはそれが労使双方にとって組織化のインセンティブとなることでさらに労使関係の発展がはかられる方向の政策が望ましいと考えています。