そんな幻想たぶんなかった

hamachan先生から、5月16日付のエントリ(「hamachan先生への異論」http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20140516#p1)にトラックバックを頂戴しておりました。先生のエントリのタイトルは「労務屋さんの「異論」について」http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-635f.htmlとカギ括弧付の「異論」になっていて、それは異論になっていないというご趣旨です。

…それは全然異論になっていないと思いますが。中高年労働者がみんな(等しくとまでは言わなくても)かなりの程度(企業が大事に思ってくれるだけの))「知的熟練」を身につけているという「幻想」が、そうじゃない人がリストラされるという事実によって裏切られてしまうという話なので、そんな幻想はじめからないと言われればそれまでです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-635f.html

ということで、私としてはまさにそんな幻想はじめからないと申し上げたかったので、それまでということになります。
それでは面白くないので少し敷衍しますと、1969年の日経連能力主義理研究会『能力主義管理−その理論と実践』は、周知のとおり、年功賃金に対する反省と強い問題意識のもと、学歴、勤続・経験年数(≒年齢)などから推測される「潜在能力」中心の人事管理から、「業績として顕現化された」いわば「顕在能力」中心の「能力主義管理」への転換とその具体策を提言していますが、この報告を読むと、相当部分で「能力に応じた職務に配置することができる」という前提が置かれていると感じます。つまり、職能給ではあっても、能力に応じた職務への配置を通じて、その水準は職務給としての水準と概ね一致することになるわけです。今となっては能天気としか言えない前提ですが、石油危機前の、人手不足基調が長く続いていたわが国においてはそれが実情だったのでしょう。この前提が成り立つのであれば、職能給はたいへんうまくいくしくみだっただろうと思われます。
そういう状況だったので、石油危機前までは、あるいは「若い人はともかく、熟練工が解雇されるようなことはないだろう」という幻想というか、思い込みのようなものはあったかもしれません。だとすれば、石油危機下の雇用調整では、いかに熟練工であっても、熟練工が不可逆的に過剰になる中では雇用調整の対象となるのだということがはっきりしたということは言えるように思います。
さてhamachan先生は実は年功的に運用された職能給がこうした「幻想」の物質的根拠になったことを指摘され、「企業がその中高年労働者の知的熟練を判定した結果であるはずの賃金水準が、実は過剰評価でした、だからリストラします、というのは、やはり裏切りになるわけです」と述べられています。
これについては、もちろんそのような部分はあると思いますが、以下2点から職能給制度をかなり過大評価されているようにも思います。
第一に、たしかに能力に対して支払われるはずの職能給は、労使のやりとりの中で、能力はともかく頑張っているのだからとか、そうは言っても生計費というものもありましてねとかいう話で年功的な運用になっていった(これはさきのエントリでも書きました)わけですが、いっぽうで昇進昇格はもっと明確に差がついていたことも現実ではないかと思います(もちろん当時は現在より年功的な部分もかなりあったかと思いますが、知的熟練の主たるフィールドである製造業の現業部門では当時もかなり明確ではなかったかと思います)。もちろん昇進昇格は賃金水準と密接不可分ですが、しかし労働者は賃金水準以上に昇進昇格を通じて自身の技能水準を把握できていたのではないかと考えるわけです。
第二に、職能給が上記のような運用になっていった過程には労使の話し合いがあり、その内容は労働者にも周知されていましたので、多くの労働者は自分の賃金が必ずしも知的熟練なりなんなりの技能水準を反映したものとはなっていないことを自覚していたはずだと思われます。
つまり、労働者は賃金水準とはかなり独立に自身の能力水準を把握できていたわけで、逆にいえば経営サイドが発信していたのは「能力が上がれば賃金もあがります(だから能力を向上させましょう)」という相対的なメッセージに過ぎず、賃金水準が能力の質保障になっているという発想は労使ともにそれほど強くはなかったと考えるわけです。
ということで、職能給の水準が「企業がその中高年労働者の知的熟練を判定した結果であるはず」という幻想は、おそらく存在しなかっただろうというのが私の想定です。労働者としてみれば、賃金水準はともかく自分の技能水準はこのくらいであり、同じくらいのレベルの人はたくさんいて、しかしこのレベルの人は将来にわたってこんなに必要ないということもわかったでしょうから、そうなると賃金の高い人は人員整理されやすいだろうというのも受け入れられない議論ではなかったのではないでしょうか。
ですから、労組としてもそれは自分たちの活動の帰結であり、したがって希望退職は受け入れつつも高水準の割増退職金の獲得に尽力し、経営もそれにこたえて巨額の特損を計上してきたというのがこれまでの経緯ではないかと思うわけです。
なお知的熟練との関係では、知的熟練論はどちらかといえば長期雇用、内部育成・内部昇進の中での熟練形成にウェイトが置かれていて、職能給はそれを促進する補完的な位置づけではないかという気はしますが、いずれにしてもこれが人材育成においてきわめて効率的なしくみであるという点でその有効性は疑いないものと思います。むしろ、あまりに効率的すぎて高度な知的熟練を持つ人を必要以上に育てすぎてしまうことに問題を見出すべきなのかもしれません。石油危機前までは、おそらくは必要以上などということはありえなかったのでしょうが、石油危機を経て日本経済の成長や企業組織の拡大が減速したことで徐々にその問題が拡大し、それが1995年の日経連『新時代の「日本的経営」』へとつながっていったのでしょう。
そう考えれば、知的熟練的な無限定正社員は依然として一定割合必要ですが、そうでないスローキャリア的な労働力もそれなりに必要であり、それがジョブ型で職務給の限定正社員ではないかというこんにちの議論に戻ってくるわけです。この限りにおいては実はhamachan先生と私の意見にさほどの違いがあるわけではなく、残された論点は働き方の選択は個人の自由でよいと考えるか、政策的に適切な比率に誘導すべきと考えるかということになるのだと思います(という結論になったので政策タグにしました、という落ちで終わります)。