『賃金事情』誌に寄稿したエッセイを転載します。
経済の低迷、雇用失業情勢の悪化を背景に、解雇や労働条件の切り下げ、時間外手当の不払いなどをめぐる個別労使紛争が増えているといわれます。主な紛争処理機関における実績をみても、都道府県労働局が実施している個別労働紛争解決制度の施行状況をみると、民事上の個別労働紛争相談件数は2002年度の103,194件が2009年度には247,302件に増加しています。都道府県労働委員会が行っている個別労使紛争の斡旋の新受件数も2002年度の233件から2009年度は503件、平成18年に始まった地方裁判所による労働審判も平成19年の1,494件が平成21年には3,468件と同様の経過をたどりました。これは、厳しい経済情勢により労使紛争が増加しているという面と、これら紛争処理制度が周知されることで利用が促進されたという面がありそうです。
これらは表面化した事例ですが、その背後には「法違反だとは思うが、どこに相談すればいいのか知らない」という事例もあるのではないか、ということは容易に想像されるところです。実際、今日の若年雇用問題に関する最初期のまとまった文献である玄田有史(2001)『仕事の中の曖昧な不安−揺れる若年の現在』(中央公論新社、2005中公文庫)は、その最終章で高校生に向かって「就職先でトラブルにあったら労働基準監督署に行こう」と呼びかけていますし、同じ著者が2005年に出した『14歳からの仕事道』 (理論者よりみちパン!セ、2011増補改訂イーストプレス)の巻末には、全国各地の労働相談窓口のリストが添付されています。
さらには「そもそも法律の知識がなく、法違反であるとわかっていない」というケースも相当数あるのではないかという問題意識も古くから持たれており、北海道大学の道幸哲也先生や神戸大学の大内伸哉先生といった労働法学者が教材テキストの作成・普及などの活動に取り組んでおられました。こうした状況をふまえ、2008年には厚生労働省が「今後の労働関係法制度をめぐる教育の在り方に関する研究会」を開催しました。「非正規労働者の趨勢的な増加や労働契約の個別化、就業形態の多様化等が進む中、労働関係法制度をめぐる知識、特に労働者の権利に関する知識が、十分に行き渡っていない状況が問題として指摘されている」という問題意識のもと「労働関係法制度をめぐる実効的な教育の在り方を提示していくことを目的として開催」されたものです。
そこに提出された資料をみると、連合総合生活開発研究所「第13回勤労者の仕事と暮らしについてのアンケート調査」(2007年実施)によれば「失業しても、ハローワークに行って自分で手続をしなければ、失業手当はもらえない」ことを知っている人は88.1%、「雇われて働いている人は、年間一定日数の有給休暇を請求できる」ことを知っている人は74.7%と、比較的高い認知度となっていますが、「人を雇う時には、必ず一定以上の時間給を支払う必要がある」は66.0%とやや怪しくなり、「雇われて働いている人は、法定労働時間を超えて残業した場合は、割増賃金を請求できる」は53.9%と約半数は認知しておらず、「雇われて働いている人は申し出ることによって、原則として子が1歳に達するまでの間、育児休業をすることができる」は45.8%と半数を割り、
「雇われて働いている人は、誰でも労働組合を作ることができる」に至っては
29.4%と、3割に満たない認知度にとどまっています。それでも、2003年にやはり連合総研が実施した類似調査においては、年次有給休暇が33.4%、最低賃金が54.6%、割増賃金が39.9%、育児休業は41.4%でしたので、この間に認知度は上昇していると考えてよさそうで、やはりそれが表面化した個別労使紛争の増加につながった部分もあるでしょう。とはいえ、改善したとはいっても満足できる現状とはいえないように思われますし、集団的労使関係の根幹である団結権については、2003年調査では43.8%でしたので逆にスコアを大きく下げています。
さらに研究会では独自の調査も実施しており、その結果をみると、学歴の高い人、勤務先の規模の大きい人、勤務先に労働組合がある・組合加入経験のある人、年収の高い人、正規雇用で働く人のほうが、そうでない人に較べて労働者の権利に対する理解度が相対的に高い傾向があることが見て取れます。また、社会人の約7割が勤務先で労働者の権利侵害が疑われる経験をしていること、こうした問題への対処として、5割弱の人が上司や同僚への相談など社内での相談・交渉を行っているのに対し、何もしなかったという人も4割強おり、労組や監督署・労働局など外部機関に相談した人は数%にとどまっていることもわかります。もっとも、アクションをとった人の半数近くは問題はほとんど解決しなかったと回答しており、解決したことの方が少ないという人まで含めると約4分の3に達しています。問題への対処として「転職した・辞めた」という人が2割以上いるのは、対処をとってもなかなか問題が解決しにくいことの反映であるかもしれません。さらに、「労働基準監督署」という用語の意味を理解している人も6割強にとどまっており、紛争処理機関に対する理解も十分ではなさそうです。
こうした現状をふまえ、研究会は労働法教育の重要性を強調した上で、高校・大学のキャリアガイダンスなどの場において、まずは労働法の基本的な考え方、たとえば労働関係は使用者と労働者の合意による契約であること、労使間に非対称性があり、対等な合意のために労働三権が保障されていることなどを教えるとともに、労働契約の具体的内容である就業規則を確認することの大切さや、多様な雇用形態、さらには仕事の探し方や支援機関の利用などについても教えるべきとしています。その上で、就業直前には労働基準法などに定められた労働者の権利や、労働相談窓口について教えることが必要としています。
もちろん社会人になってからの教育も重要であり、研究会は労働組合による教育の重要性とともに、使用者も紛争防止や労働意欲向上のために労働法教育に取り組む必要があることを指摘し、さらに使用者サイドの理解不足が紛争の発生やその解決の不調につながっているとの問題意識のもと、使用者教育の重要性も強調しています。また、家庭や地域社会における教育にも言及しています。
こうした研究会の見解は概ね妥当なものと思われますが、これに加えて実務的な観点から重要なのは、労働者の権利が行使しにくいことを労使間の課題として捉え、労使の努力を通じてこれを解決し、権利の円滑な行使を促進していくプロセスを学ぶことでしょう。たとえば年次有給休暇の取得促進は政策的にも重要な課題ですが、個別の職場で取得しにくい状況がある中で労働者が「年次有給休暇は法律で保障された権利だから行使する」と宣言して実際に取得するというのは、もちろんなんら非難されるべきものではありませんが、しかし職場の課題を解決する方法としてはあまり建設的ではないという場面も考えられるでしょう。そうした場合に、労使で年次有給休暇の取得が進みにくい理由は何なのか、それがたとえば業務繁忙や人員不足であるとしたら、使用者は人員の確保や業務の見直しに努力する一方で、労働者も生産性の向上や人員確保にともなうコストの吸収に協力するなど、双方が努力して課題を解決するというのが、成熟した労使関係における課題の解決であり、わが国の労使関係が積み上げてきたスタイルではないでしょうか。
もちろん、こうした良好な労使関係が形成されていない職場も多いとは思いますが、それも含めて、さまざまな労使関係のあり方と、その長短について知ることが大切なのではないかと思います。