どうもはなはだしく世間の動きに遅れているようですが、まずは大型連休中の5月3日に掲載された大竹文雄先生の論考です。「所得が高いと幸せ? 客観・主観両面から測定を」という見出しもついています。
…政府が昨年12月に発表した「新成長戦略(基本方針)」では…数値としての経済成長率や量的拡大のみを追い求める従来型の成長戦略とは一線を画すという。…国民の「幸福度」を表す新たな指標を開発し、その向上を目指すというのだ。…主観的な幸福度を経済政策の目標とすることに戸惑う人も多いのではないか。実際、「高成長率を実現できない場合の言い訳に使うのでは」との批判が政府内部にもあったそうだ。
4月27日に内閣府が発表した調査結果では、日本人の幸福度は10段階評価の6.5点と、英国やデンマークより低い*1。幸福への法則を見つけ政策にいかすのは可能なのか。
…フランスのサルコジ政権は、2008年にスティグリッツ米コロンビア大学教授ら著名なノーベル経済学賞受賞者を集めた「幸福度測定に関する委員会」を発足させ、09年9月に報告書(スティグリッツ報告)を発表した。…幸福度については、健康、教育、個人活動、環境などの指標やそれらの指標の不平等度といった客観的な条件にも依存すると指摘。そして、幸福度の計測には、客観的指標と同様に満足度や幸福度に関する主観的指標も有効だとの見方を示した。…幸福度というあいまいな指標が、経済政策の成果を測る指標として有効であるという点で、有力経済学者の間でも意見が一致しているのである。
…人々の幸福は、物質的な豊かさと完全には対応していないとしても、ある程度相関があると多くの経済学者は考えていた。実際、飢餓状態にある人々より所得が高い人の方が幸福だと考えるのは自然だ。
では、飢餓状態を超えた場合、客観的な所得と主観的な幸福度との相関はあるだろうか。所得、失業、年齢、性といった人々の客観的な属性と幸福度との間…の関係が大規模な統計データを使って研究されるようになった。その結果現在では、幸福度と様々な客観的な指標との間に相関があることが分かってきた。…日本でも幸福感は所得に加えて様々な客観的な指標である程度説明できることが示されている。
…日本の幸福度の長期統計を見ると、所得水準が長期的に上昇しているにもかかわらず、日本人の平均的な幸福度が上昇していないことが知られている*2。…時系列データで、主観的な幸福度と所得の間に正の相関が見いだせないのは、欧米でも同じである。また、幸福度と所得の間の国際比較をしても、両者の間にあまり相関がない。
所得と幸福度の指標に差があるのでは、所得が経済厚生の指標として使えないか、幸福度が信頼できない指標なのか、ということになってしまう。そこでこの逆説を解くため様々な仮説が提唱された。
最も有力なのは、相対所得仮説だ。人々の幸福は、自らの所得に加え比較対象とする人の所得との相対的な大きさにも依存するとの考え方だ。…自分の所得だけが上がれば、幸福度は上昇する。だが比較対象グループの所得も自分の所得と同じだけ上昇すれば、自分の幸福度は変化しないことになる。つまり経済成長で平均的な所得水準が上昇すると、人々の幸福度は上昇しない…それと整合的な実証結果も得られているという。
最近の研究…の結果、確かに、人々の幸福度は相対所得の影響を受けるが、自分の絶対的な所得水準の影響も受けるため、すべての人の所得が増加した場合にも幸福度が上昇する…つまり相対的所得仮説は、…逆説の一部は説明するが、それだけでは説明できないということだ。
もう一つの仮説は順応仮説と呼ばれるものだ。人々が環境変化に慣れてしまい、幸福や不幸をもたらす環境の変化があったとしても、その影響はしばらくすると消えてしまうというのである。実際、幸福度を毎日計測した…研究では、幸福に影響する事象による幸福度の変化は4日程度しか持続しないことが明らかになった。
逆説そのものに疑問を提示する研究もある。…幸福度の国際比較の対象となる国を増やすと幸福度と所得の間に正の相関が見られること、日本や欧州の幸福度調査の質問文の変更や質問の順番の変更の影響を考慮すれば、幸福度と所得の間の時系列的な正の相関が見られる…。
…経済政策で目標とする指標として所得のみを使うことは正しくない。しかしながら、主観的な幸福度のような指標ですべて代替できるかといえば、そうでもない…私たちは客観的指標と主観的幸福度指標の双方をうまく活用していくことが重要である。
(平成22年5月3日付日本経済新聞朝刊「経済教室」から、以下同じ)
http://www.nikkei.com/paper/article/g=96959996889DE2E4E4EAE7EAE4E2E2E3E2E7E0E2E3E29997EAE2E2E2;b=20100503
「幸福の経済学」のきわめてわかりやすく要領のよい紹介で、この分野でも大竹先生ご自身や大阪大学が大きな貢献をしておられます(抜粋で消えてしまっているのが申し訳ないのですが)。「客観的指標と主観的幸福度指標の双方をうまく活用していくことが重要」との結論もまことに同感です。
ここからは私の感想ですが、所得というのはハーズバーグのいう「衛生要因*3」に似ているのではないかと感じました。賃金は代表的な衛星要因で、上がっても意欲は高まらない一方で、下がると意欲が下がる(しかもかなり大幅に)ということはよく実証されていますし、実務実感ともよく一致するものです。それとの類推で、「所得水準が長期的に上昇しているにもかかわらず、日本人の平均的な幸福度が上昇していない」一方で、仮に所得水準が長期的に下降したとしたら、おそらく幸福度も下降するのではないか…と思うからです*4。もし、所得水準がわずかでも上がることが当然視されているとしたら、所得が下がらなくても、上がらないだけで幸福度が下がる…ということもありうるかもしれません。まあ推測ですが。
だとしたら、所得の上昇はそれが幸福度の上昇には直接つながらないとしても、低下を招かないという面では幸福度を上昇させる上でやはり重要であるということになると思います。
また、日本でも海外でも、所得階級別に幸福度を測定するとある水準までは所得が多いほど幸福度が高いという傾向がみられるわけで、マクロでみてもある程度より所得水準の低い国では、時系列で所得が上昇すれば国民の幸福度も上昇するという関係はみられるのではないでしょうか。「国際比較の対象となる国を増やすと幸福度と所得の間に正の相関が見られる」というのも、増える国は比較的所得水準の低い国が多いのではないか…とこれはまったくの想像ですが。調査の可能性を考えると案外所得水準の高いヨーロッパの小国とかが増えているのかもしれませんし。
さて、ここからは本文とは無関係になりますが、日本人の幸福度は10段階評価の6.5点と、英国やデンマークより低くなっていることは確かですが、しかし10段階評価で「8」と答えた人が最も多い(20.1%)という点では、実は英国やデンマークと共通しています。日本が特徴的なのは「5」と答えた人が19.4%と同じくらい多く、これが平均点を引き下げています(ちなみに「7」も19.2%と多く、残りは一桁%にとどまっています*5)。これまたまったくの想像の域を出ないのですが、英国やデンマークでは「人並み程度かそれ以上」であれば大多数の人が幸福度「8」と回答するのに対し、日本では「人並み程度」を幸福度「5」つまり「人並み=普通=5」と考えて回答する人が相当数いるということではないでしょうか。平成21年度国民生活選好度調査結果で示されている欧州の他の2か国も実は日本と似た傾向にあり、ハンガリーは日本と同様に「幸福」と「普通」の2極、ウクライナは「幸福」「普通」「不幸」の3極になっています*6。つまり、こうした調査はその社会で一般的な思考パターンの影響をかなり受けているのではないかと思われ、だとすると思考パターンを変えずに日本の幸福度(幸福感)を英国やデンマーク以上にするには相当の努力が必要ということになるでしょう。
ただ、思考パターンは変えられないかというと、ある程度時間をかければ変えられるわけで、たとえば人並みってのは幸福なんだ、10段階で評価したら8なんだ、という教育を幼児期から徹底すれば可能かもしれません(幼児期から徹底するにはすでに社会全体がそうでないと難しいという問題はありますが)。まあ、そういうダイレクトな教育は無理としても、その方向に誘導するような教育を行うことは可能でしょう。極端な話、自爆テロに突っ込む若者は不幸かといえば、本人はたぶん幸福だと思っているわけで、そういうことも不可能ではないわけです。そういうマインドコントロールはまことにおぞましい限りですが、たとえば幸福度発祥の地であり、かつ幸福度の高い国として知られるブータン王国はどうなのか。もちろん所得は格別高くない(日本と比較すればかなり低い)わけですが、たとえば(私の勝手な例示であってブータンがそうだといいたいわけではありません)「この国で豊かな自然に囲まれて心静かに質素・敬虔な人生を送ることは幸福だ」という社会的なコンセンサスがあれば、それで幸福度は高くなります。こうしたものをどう評価するかは諸説ありそうで簡単ではないでしょう。英国やデンマークの他にも欧州で幸福度が高いとされている国、北欧やベネルクス三国をみると、いずれも君主制であって王室への関心・敬意が高いという共通点があり、これも偶然なのかどうか。それに象徴されるような社会の雰囲気、そのもとで行われる教育が幸福感の高さに影響していないといえるのかどうか。私にはたいへん興味深く思えます。ひょっとしたら、わが国でも天皇陛下万歳の時代のほうが現在より幸福度が高かったりするかもしれません…と、これは悪い冗談でした。
もうひとつ、ついでに昨年度(平成20年度)の国民生活選好度調査の結果概要*7を読んだところなかなか面白い結果が出てましたので書いておきます。
まず「1人当たり実質GDPは上昇しているものの、生活満足度は横ばい」という、経済教室での紹介と同傾向の結果が紹介されます。それに続けて「世の中は次第に暮らしよい方向に向かっているかについてたずねたところ、『暮らしよい方向に向かっていると思う』(「全くそうである」+「どちらかといえばそうである」)と回答した人の割合は、2005 年の20.6%から、2008 年には10.2%と10.4%ポイント低下し、割合が半減している」という結果が紹介されます。ただ、1978年から3年毎の長期時系列データが示されていますのでそれを見ると、直近のピークは1990年の45.7%で、2002年の14.7%まで一貫して低下し、2005年に20.6%に持ち直したものの、2008年にはまた10.2%と低下しています。したがって、2005年から半減、という表現はややミスリーディングでしょう。もっとも、1990年以降でみれば大幅に低下しているわけではありますが。
で、調査結果概要はそれに続けて「老後の見通し」に関する調査結果を「自分の老後に明るい見通しを持っているかについてたずねたところ、『自分の老後に明るい見通しを持っている』…と回答した人の割合は11.8%となっており、2005 年の14.4%から2.6%ポイントの低下と依然減少傾向にある」と紹介しています。これまた長期時系列があり、こちらは直近のピークは1984年の35.8%で、一貫して低下しています。
ということで、直接そうは書いていないものの、「1人当たり実質GDPは上昇しているものの、生活満足度は横ばい」で上昇しないのは、先行きに明るい見通しが持てない、特に老後に明るい見通しが持てないからだ、という印象を強く与える書きぶりになっています。これだけで断定的なことは言えないでしょうが、今現在の状態に加えて、将来の見込みも幸福度に影響する可能性はかなりありそうです。考えてもみれば、現在の所得がある程度高くなると、将来もっと増えるだろうという期待より、もう増えないのではないか、あるいは下がるのではないか、という心配のほうが強くなるというのもうなずける話です。となると、今は所得は低いけれど上昇していて、これからもっと上昇するだろうと期待できる状況というのがいちばん幸福度が高いのかもしれません。日本の高度成長期はまさにそうだったでしょうし、安定成長期にもかなりそうした状況はあったのでしょうから、現在のわが国の幸福度があまり高くなくなっているというのも当然なのかもしれません。まあ、よくわかりませんが。
- これはまったくの余談になりますが、平成21年度国民生活選好度調査の結果概要では、「幸福感に影響する要素は、(1)健康、(2)家族関係、(3)家計状況が3大要素、企業への期待は「給料や雇用の安定」、「仕事と生活のバランス確保」、政府への期待は「年金・医療介護・子育て」、「雇用や住居の安定」が重要課題」だと書かれています。ところが、具体的な設問をみると、「幸福感に影響する要素」については「幸福感を判断する際に、重視した事項は何ですか。」、「政府への期待」は「国民全体、社会全体の幸福感を高める観点から、政府が目指すべき主な目標は何だと思いますか。」と、それぞれ回答者自身の考えを訊ねているのに対し、「企業への期待」のほうは「企業や事業者による次のような行動のうち、その職場で働く人々や社会全体の幸福感を高めると思うものは何ですか。」と、他人がどう考えていると思うか、を訊ねています。まあ、会社勤めをしていない人も回答できるようにとの配慮でしょうが、この聞き方だと世間で喧伝されている、すなわち行政がやりたいと思っている「ワーク・ライフ・バランス」が上位にくるだろうことは容易に想像できるわけで、いささか姑息な感がなくもありません。
*1:この調査は内閣府の「平成21年度国民生活選好度調査」で、内閣府のサイトhttp://www5.cao.go.jp/seikatsu/senkoudo/senkoudo.htmlで結果をみることができます。
*2:これに関しては、「経済教室」で紹介されているものとは違うようですが、内閣府「平成20年度国民生活選好度調査」結果概要の中に類似のグラフが掲載されています。
*3:ハーズバーグの動機づけ・衛生理論については、たとえばhttp://jinjibu.jp/GuestDctnr/dtl/203/に紹介があります。
*4:マクロで長期的に所得水準が低下するということは現実にはなかなか起こらないでしょうから、実証は難しそうですが…。
*5:数値はhttp://www5.cao.go.jp/seikatsu/senkoudo/h21/21senkou_03.pdfにあります。
*6:http://www5.cao.go.jp/seikatsu/senkoudo/h21/21senkou_02.pdfにグラフがあります。
*7:http://www5.cao.go.jp/seikatsu/senkoudo/h20/20senkou_summary.pdf。