大竹文雄編『こんなに使える経済学』

こんなに使える経済学―肥満から出世まで (ちくま新書)

こんなに使える経済学―肥満から出世まで (ちくま新書)

阪大社研の経済学者たちが持ち回りでビジネス誌に連載した記事をまとめた本です。いずれも先端を行く当代一流、あるいは気鋭の経済学者の手になるものですが、ビジネス誌の読者に十分楽しめるよう配慮して書かれており、しかも身近なテーマを取り上げてコンパクトにまとめられていますので、類書の中でも読みやすさという点では随一かもしれません。
いずれ(いつ?)書評を書きたいとは思いますが、とりあえず「序」から1箇所をご紹介します。

…誰でも安定した雇用の方が不安定な雇用より望ましい。そうすると、人々の多くは、簡単に解雇されないような制度を作ると言う政策に賛成する。…しかし、そういう政策をとったとたんに、今度は企業が簡単には人を採用しなくなる。…このとき、客観的にみて誰が不幸になるかというと、採用されなくなる若者である。
 ところが、主観的な満足感だけを考えてみると逆の結論が得られる可能性もある。現在雇用されている中高年が解雇されたときに感じる不幸の度合いと、最初から雇われていない若者が採用されなかったときの不幸の度合いとどちらが大きいかを考えると、今雇われている人が職を失ったショックの方が大きく、より不幸だと感じる可能性がある。
 しかし、冷静になって考えてみると、職を最初から得られない人の方が生涯所得は低くて、貧しいはずだ。職をもっている中高年の方が今までの所得は高かったのである。つまり、客観的な所得の大小による幸福度の判断と主観的な幸福度には矛盾が生じてしまうのである。したがって、世論が期待するとおりの政策をとると、逆に不幸な社会になってしまうということもある。そのような制度設計の問題点を明らかにしていくことも、経済学の一つの役割だと考えられる。(pp.20-21)

なぜご紹介するかというと、以前取り上げた赤木智弘氏の「「丸山眞男」をひっぱたきたい」によく似たところがあるからですが、決定的な相違は「丸山〜」が「著者にとっての正義」を論じているのに対し、この「序」では「社会全体での所得の最大化」を論じているところでしょう(別にどちらがいいとか悪いとか言う話ではありません)。
純化された例え話なので論点はいろいろある(実際、私にはこれは例え話としてはあまりわかりやすい感じがしません。このあとに続く上限金利の例え話はわかりやすいと思うのですが)のですが、とりあえず中高年と若年の雇用問題に関するこうした考え方はそれほど新しいものではなく、たとえば「中央公論」1999年10月号(http://www.chuko.co.jp/koron/back/199909.html)に掲載された玄田有史「何が若者を転職に追いやるのか」などにも類似の発想がみられます。当時からこうした考え方で政策を実行していたら、現在の状況はだいぶ違っていたかもしれません。
もっとも、それでは福井秀夫氏などがいうように解雇規制を緩和(福井氏は自由化を考えているようですが)すればよかったかといえば多分そうではなくて、その場合企業はおそらく経営上必要最小限の解雇を行い、必要最小限の新規採用を行ったでしょうが、それ以上に解雇や採用を増やすまでのことはしなかっただろうと思われます。たしかに若年は賃金は低いですが、未熟練で訓練コストを要することもあって貢献度に較べて高コストであり、しかも(七五三などと言われるように)退職のリスクも大きく、したがって採用コストも膨らみます。その点、中高年はとりあえず技能はあり、戦力として確実に計算できますし、「成果主義」でかつてに較べれば賃金も抑制されていて、しかもそれほど遠くない将来に定年退職も見込めます。そう考えると「中高年一人で若年二人分」といった賃金水準の単純比較で感じるよりは、中高年の競争力はかなり高いと思われるからです。そこで若年の競争力を高めるべく教育訓練を、という議論になるわけですが、それは言葉ほどには容易ではありません。
となると、企業に若年の正社員採用を強要するわけにもいかない以上、結局は経済を活性化して労働需要を増やす(玄田氏はこれが最重要と考えつつも、時間がかかる施策であることから、すぐにもできる施策のいくつかを強調していたように思われます)か、あるいは大竹氏が当時主張していたように、公的部門での採用を増やすか、といった施策しかなかったのではないでしょうか。あるいは、議論だけはけっこうさかんに行われたものの、あまり拡がりをみせなかったワークシェアリングをもっと追求してみてもよかったのかもしれません。