大学の有用性

ブログが遅れ気味ということもあり、他人の土俵で申し訳ありません。hamachan先生がまた大学教育と就職・選考についてブログで書かれていますので、一応お約束?で感想などを。
まずはhamachan先生のブログを引用します。

 1970年代以降は急速に大学進学率が上昇していき、かつて高卒者が就いていた下級ホワイトカラー層だけでなく、ブルーカラー的職業にも大卒者が進出していきます。大卒者については、教授による紹介や先輩−後輩関係といったインフォーマルな採用システムはあるものの、基本的には自由市場におけるマッチングが行われます。しかし、それは欧米のようなジョブに基づく求人求職の結合ではなく、全く逆に企業へのメンバーシップを付与するかどうかの選抜という形で構築されたのです。それ故、その選抜は労働者の一生を規定するほどの重大事と社会的に見なされるようになります。

 かつての中卒者のように職安が介在しているわけでもなく、高卒者のように高校が介在しているわけでもないのに、企業は学生の採用基準を具体的なジョブに対応する職業能力ではなく、大卒者としての一般的能力に求めました。新規高卒採用制度とともに確立した単一職能資格制度のもとにおいては、もはや大学で具体的に何を学んだかは大して意味を持たず、大学の銘柄に示される大学入学時の学業成績こそが、入社後の教育訓練に耐えうる「能力」を指し示すものとして主たる関心対象となったのです。このことが、逆にまた大学進学競争を激化させるとともに、入学後の学生が勉強しないという風潮をはびこらせることにもなりました。いわゆる「学歴社会」現象とは、このように教育界の実業嫌いがそれに適応した企業行動を誘発することによって自らに跳ね返ってきた社会的ブーメラン現象と言えましょう。

 戦後、新規大卒就職市場をめぐって議論の焦点になってきたのは就職協定なる半自主的な「規制」でした。それは、戦前の少年職業指導から始まり、戦後の新規中卒採用制度によって確立し、高度成長期に新規高卒採用制度によって完成された、一定のジョブに向けた職業教育を前提とせず、入社後の教育訓練に耐えられる人材を会社メンバーとして1年に一度同時に一括採用するという「学校から仕事へ」の枠組みが、国や学校という規制主体の監督の下ではなく、自由市場におけるマッチングによって行われることによって不可避的に発生する矛盾に対し、その原因に遡ることなく当事者の紳士協定によって対症療法的に対処しようとすることから生ずるいたちごっこの繰り返しであったといえるでしょう。

 職業的レリバンスのない教育を行っている大学(とりわけ文科系学部)の学生をその潜在能力(「官能」)に基づいてその卒業とともに永続的メンバーとして採用しようとする企業の立場からすれば、(かつての新規中卒者や新規高卒者と同様)大学なりゼミの教授が学生の潜在能力を保障する形で紹介してくれるのであれば、(レリバンスのない)大学教育を妨害するような採用活動を行うインセンティブは乏しいでしょうが、自由市場のマッチングに委ねられているのであれば、他社に抜け駆けされる危険を冒してまで大学教育を尊重しようというインセンティブは働きにくいでしょう。

 さらに、戦前であれば大学卒から小学卒までに相当する広範なレベルに分布する新規大卒者を、一律に本来エリート層であった大卒者として取り扱わなければならないことから、新規大卒市場は偽善的な建前と潜在する本音の絡み合う領域となってしまいました。

 そもそも労働政策の観点からすれば、高等教育を受けるような成人エリート層の労働市場におけるマッチングが当事者同士の自由な交渉によって行われる以上、それが一方当事者の学習課程にどのような影響を与えようが与えまいが、そのプラスマイナスを両者が考慮して行動すべき問題であって、国が介入すべき問題ではありません。もし採用活動によって当該教育課程を十分に受けられないことが当該労働者の職業能力に顕著な悪影響を与えるのであれば、高い職業能力を求める企業側はそのような愚かな行動はしないでしょうし、あえて行うような愚かな企業は優秀な学生から相手にされないでしょう。

 ところが就職協定は、大学や文部省サイドの大学教育の保持という目的から作り出されたものであるため、企業と学生の側には常にそれを抜け駆けすることによって協定をまじめに守っているものを出し抜くインセンティブが発生してしまいます。1981年に、それまで就職協定に関与してきた労働省が撤退を宣言したのも、「ルールは遵守すべきであるとして、まじめに採用活動や就職活動を続ける企業や学生は不利益を被」るという実態に耐えられなくなったためでしょう。

 今日直ちに大学教育(とりわけ文科系学部)の内容を抜本的に改め、企業や学生が教育課程を尊重せざるを得ないような職業的レリバンスのあるものにしていくといっても、現実には極めて困難である以上、どうしても大学教育を妨害するような採用活動を抑止したいのであれば、かつての新規中卒者の採用活動と同様に、新規大卒者の採用と就職を厳重な国家統制のもとに置くしかありませんが、それは新規大卒者をかつての新規中卒者並みに扱うことを意味します。かなりの程度それは実態に即しているように思われますが、「学術の中心」という建前との矛盾は極大化せざるを得ません。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ba51.html

たいへん納得のいく解説ではあるのですが、大卒文系採用の企業実務の観点からみて、これだけでは説明できないというか、こぼれ落ちていると思われる点を2点ほどご紹介しておきたいと思います。
ひとつは、内定した学生が卒業できなかった場合、多くの企業では内定が取り消され、大学中退で採用される例はあまり多くないということです。もし、本当に「大学で具体的に何を学んだかは大して意味を持たず、大学の銘柄に示される大学入学時の学業成績こそが、入社後の教育訓練に耐えうる「能力」を指し示すものとして主たる関心対象となった」「職業的レリバンスのない教育を行っている大学(とりわけ文科系学部)の学生をその潜在能力(「官能」)に基づいてその卒業とともに永続的メンバーとして採用しようとする」のであれば、優秀な人材とみて内定を出した学生が最終的に卒業証書を持っているかどうかは無関係でしょう。単なる人事制度上の建前の問題であるならば、それはいかようにも解決はつくわけで、それにもかかわらず中退での採用を行わないということは、企業が所定の課程を修了して学士号を保有していることに対して一定の意義を見出しているということでありましょう。
もうひとつは、企業は法学部や経済学部を好んで採用し、教育学部や文学部はそれほどでもない、という傾向が明らかに見られることです。まあ、法学部は経済学部より、経済学部は文学部より偏差値が高い傾向があることも事実でしょうが、それにしても「大学で具体的に何を学んだかは大して意味を持たず、大学の銘柄に示される大学入学時の学業成績こそが、入社後の教育訓練に耐えうる「能力」を指し示すものとして主たる関心対象となった」「職業的レリバンスのない教育を行っている大学(とりわけ文科系学部)の学生をその潜在能力(「官能」)に基づいてその卒業とともに永続的メンバーとして採用しようとする」のであれば、高偏差値銘柄大学の文学部生などはもっと好んで採用されてもいいわけですが、実際はそうなっていません。
これは結局、企業は法学士、経済学士たることに一定の価値を認めているということではないでしょうか。それではどこに価値があるかといえば、大学で学んだ法律や経済の知識が企業でおおいに活用されているかというと、これは業種や企業によってかなり違うでしょうが、一般的にそうだという形跡は現実にはあまりありません。まあ、20年、30年かけて育成しようというのですから、知識という点では学部の4年間で得られるものにはある程度限界があるのは致し方ないのでしょう。おそらくは、企業が重視しているのは大学での勉強を通じて得られる、法学でいえばたとえば「リーガルマインド」のようなものであり、経済学であればたとえば実証研究の考え方のようなものなのではないかと思います。こうしたものが、学士課程を修了するだけの勉強をすれば、一定程度身につくことを企業は期待しているのではないでしょうか(それがすべての理由ではないにせよ)。
ほかにも、良識ある社会人たるべくコモン・センスやリベラル・アーツを修得することや、課題を発見し現実を調査し事実をもとに議論するといったマインドを形成するなど、企業として現行の大学教育に期待することはいろいろあります。もちろん、現実をみれば、これらを一切合財あわせたとしても「抜け駆けされる危険を冒してまで大学教育を尊重しようというインセンティブは働きにくい」程度のものであることは事実なので、hamachan先生のご指摘はまことにそのとおりではありますが、大学教育がまったく役に立っていないかといえばそうでもないだろうと思います。
結局のところ、メンバーシップ型の採用というのは、その人が大学でなにをどう学んでどのような学位を取得したかという事実だけで判断されるのではなく、その人が大学4年間(をふくむこれまでの人生)をどう過ごしてどのような人になったのか、これからどのように成長することが期待できるのか、という全般的な事項をもって判断されます。hamachan先生の指摘される「潜在能力」という表現はそれに近いでしょう。なお、hamachan先生が「潜在能力(「官能」)」と書かれているのは実務的にはやや違和感があり、企業がいう「官能」は採用する側の判断能力、もっと具体的にいえば面接担当者の「目利き」のことを指しています。面接試験においては、企業は一定の判断基準、評価項目を文書化することはしますが、当然ながらそれはごく大雑把なものであり、かつそれ以外の要素を排除するものでもありません。現実の判定は、おおまかなガイドラインのもとに、相当部分は面接担当者の判断に委ねられます。それは多分に「官能的」な判断=「官能評価」であり、またその判断を(適切に)行う能力を「官能」といっているわけです。
もちろん、これはすべて「なんとなく」とか「フィーリングで」というわけではなく、「××という質問に対して○○と回答した、この内容から評価項目のこれについてこのように判断した」「これら項目のうち、これこれの項目は応募者の中でも特に優れており、他の項目は目立たなかったが採用すべきと判断した」といった説明は当然できるわけです。ただ、その判断の根拠はテストで何点だからとかこの資格を持っているからとかいったものではないわけですが。
ちなみに「官能評価」とはなにか、については、日本官能評価学会のホームページにこんな説明があります。

 文明社会に住む我々は生活に必要な様々な尺度、例えば長さ、重さ、時間、温度を考案し、それらを正確、精密に計ることで社会を発展させてきました。
 一方、我々が日常経験する事象、朝の空気が爽やかだとか、自動車の乗り心地が良いとか、夜景がロマンチックというような感覚や情緒的経験は前述の尺度で計測することはできません。例えば、赤ワインをきき酒する手順を考えると、先ずそのワインの色、香り、味の特徴を把握し、出来れば数値化する。次に知識のライブラリーの中からそれに近い産地、銘柄、更に生産年の変動幅以内にあるかどうかを検討し、それらの特徴を誰にでも理解できる言葉で表現する。これが官能評価です。
 考えてみると、我々はこのような行為を無意識のうちに常に行っており、官能評価は極めて身近な行為であり、食品から服飾、自動車、建築まで品質、工程管理に必要不可欠な手法です。
 この手法は人は食物や薬、毒物を認識して生き延びてきましたし、美しい物に感動し、それを言葉や絵画彫刻などに表現して優れた文化を我々に残してくれたのです。服装や建築のデザイン、機能など、現在我々が享受している高度な文明も官能評価無しでは考えられません。
 例えば、食品については最近の食品成分の微量分析技術の進歩や官能評価の結果の数理統計学的処理法の発展などにより、感覚的刺激と成分組成の関係が部分的にせよ明らかになりつつありますが、同時に感覚の基礎をなす神経生理学やその時々の心理的要因がより強く認識され、食文化も含めてこれらの分野でより高度な研究が進み、それらの成果がまとめられて、実用化されることが強く求められております。
http://www.jsse.net/sensesevaluation.html

ということで、採用選考においても面接試験だけではなく、SPIとか、適性検査やペーパーテスト類も援用されるわけですね。英会話能力ならTOEICの成績でかなり正しく判定できますし。
で、「官能」というのは辞書的には感覚器官の機能ということですが、技能訓練などにおいてはこれが「勘能」と同意で(互いに混同して)使われているようです。「勘能」というのは一般的には技能が優れているという意味(あの人は○○に堪能だ、という「堪能」と同義)ですが、技能においては、たとえば計測器を使わなくても所定のトルクでナットを締めることができる、といった技能の意味でよく使われます。これは余談ですが。
脱線しましたが、それでは現状のままでいいのかといえば、「今日直ちに大学教育(とりわけ文科系学部)の内容を抜本的に改め、企業や学生が教育課程を尊重せざるを得ないような職業的レリバンスのあるものにしていくといっても、現実には極めて困難である」というhamachan先生の指摘はそのとおりでしょう。さらにhamachan先生は「大学教育を妨害するような採用活動を抑止したいのであれば、かつての新規中卒者の採用活動と同様に、新規大卒者の採用と就職を厳重な国家統制のもとに置くしかありませんが、それは新規大卒者をかつての新規中卒者並みに扱うことを意味します。かなりの程度それは実態に即しているように思われますが、「学術の中心」という建前との矛盾は極大化せざるを得ません。」と続けます。要するに、大学の「学術の中心」という建前を捨てて、「新規大卒者の採用と就職を厳重な国家統制のもとに置く」のが「かなりの程度それは実態に即している」ということでしょう。具体的には、企業は大学(の学部、さらには特定の研究室=ゼミナール)に求人を出し、これに対して担当教授が特定の学生を推薦する、という、現行高卒採用の一人一社制(かなり崩れてはきましたが)のような管理でしょうか。まあ、本当にやろうとすれば、移行当初は相当混乱するでしょうが、それなりに経験が蓄積されてくれば、「この企業ではこんな学生がうまくやっているな」という経験知が蓄積されて、マッチングの効率・制度は高まるかもしれません(実際、高卒だけでなく、大卒理系でもまだこのような採用はかなり行われているわけですし)。学生のほうも、この企業に入社しようと思えば、このゼミに入ると可能性がある、といった形でゼミを選ぶ、などといった適応をするのでしょう。これだと企業の採用実務はかなり楽になりますが、はたして企業がそれでいいと考えるかどうか。大卒文系採用といえば、かなりの程度は企業内で育成して幹部候補にしていくことを念頭に置いているわけですので、やはり個別にみて、ある程度以上の人数を採る場合には多様性も考慮しつつ採用したいのではないでしょうか。
早期化・長期化が問題だというのは、それ自体は企業としてもコストがかかりますからよくわかるのですが、hamachan先生の論法でいけば、それでは際限なく早期化しているかというとそうでもないわけで、早期化すればするほど大学教育への影響は大きく、かつ企業にも学生にも早期化のリスクが高まることを考慮すれば、それなりにメリットとデメリットがバランスする時点で採用・就職活動が始まっているのだ、という考え方もできるのかもしれません。だとすると、なにかうまく(ディス)インセンティブを付与してやれることでもう少し時期を遅らせることができないものか。採用・就職活動に長期を要するということは、明らかに効率は低いわけですし…。厚生労働省も撤退するばかりでなく、なにか政策対応を考えてみてもいいのではないでしょうか。デマケ上難しいのかもしれませんが…。