昨年12月5日の開催なので既に3か月以上経過してしまっているのですが、感想を書きますと約束したので書きたいと思います。この間に「DIO」2月号に要旨が掲載されたので作業はだいぶん楽になった(笑)。ただまあ正直なところ十分正確に理解できているのかどうかわからないところはあり、かなり雑駁な感想にとどまりますのでそのようにお読みいただければと思います。
シンポジウムは2部構成で、前半が慶応の井手英策先生を中心としたパネル、後半が神野直彦先生の記念講演となっていました。「DIO」2月号には前半のパネルが掲載されております。テーマは『「分断」と「奪い合い」を越えて−分かち合い社会の構想』となっており、以前ご紹介した神野直彦・井手英策・連合総研編『「分かち合い」社会の構想−連帯と共助のために』をふまえたシンポジウムのようですが(当日資料で書籍も配布されておりました)、なんかテーマはさらに過激になっていますね。第1部のパネリストも禿あや美跡見学園女子大学准教授、竹端寛山梨学院大学教授、吉田徹北海道大学教授の3人で、共同執筆者でない方(竹端先生・吉田先生)が含まれているので、さらに射程をのばしてのシンポジウムというところでしょうか。
ということで第1部ですが、まず井手先生のプレゼンテーションでは、
社会保障給付について高齢者向けと現役世代向けの給付の割合について国別に比較しますと、現役世代の「取り分」が非常に小さいのが、日本社会の特徴です。これを私は「自己責任社会」あるいは「勤労国家モデル」と呼んでいます。勤労し、倹約し、貯蓄する。自己責任で将来不安に備える社会です。
一方、世帯収入別の割合を1997年と2014年を比較しますと、世帯収入400万円以上はすべての収入区分で減少し、逆に400万円未満が明確に増えています。…9.3%の成長と収入増を前提として出来上がっていた「自己責任社会」が、現実には機能しなくなっているのです。…
巨大化した生産の場とそこでの所得で自己責任によりニーズを満たす社会が機能しなくなりつつある状況で、今後は生活の場、保障の場、生産の場が渾然一体となりながら、ありとあらゆる手を使い、生活のニーズを満たしていくようになるのではないでしょうか。つまり、公・共・私がベストミックスを模索していく時代の訪れです。
ということで、これをいつものようにきわめて熱く雄弁に語られたわけですが、具体的な政策論は最後のほうで少しだけ累進負担増と再分配増の話が出てきただけで若干拍子抜けではありました。全員が負担増・給付増となるという一種のフレーミングの提案のようですが、低所得者も負担増というのは具体的な制度設計が難しいだろうなあとはなんとなく思いました。ということで政策のプレゼンというよりはむしろ活動家の演説という感じでしたが(失礼)、まあ連合総研のシンポジウムですし、イントロダクション的な位置づけのようでしたのでそれもいいのかも知らん。
次は禿先生のプレゼンだったのですが、
いま、格差について語ると、「非正規の方は大変で組織化された組合員は恵まれている」という見方をされがちです。でも、それでは働く人々がさらに分断に向かいます。そうではなく、正規・非正規を問わず、等しくみんなが困難を背負わされる間違った社会になっていることを問題にしなければなりません。そしてその共通する困難を、私は「自己決定の欠如」と表現します。
正社員の働き方について、しばしば「無限定」であると表現されます。総合職の男性が典型ですが、自分の仕事の内容、勤務地、労働時間などについて、労働者個人の意思がほとんど反映されない状況です。
「限定正社員」制度は、例えば勤務地が限定されただけで2割程度賃金が下がる設計です。パートタイム労働法は、パートタイム労働者と正社員の間に賃金格差があった場合、職務の内容と責任、人材活用の仕組みという2つの観点から見て違いがあれば、賃金格差があっても合理的だと判断するものです。そのため低賃金が嫌ならば、結果的に、正社員は「無限定」に働かなければならない社会になっていますし、それを政策が後押しすることになっています。
こうした社会のあり方が、「生活の場」を空洞化させているのではないでしょうか。コミュニティに根ざした生活や、仕事と家庭生活の調和、政治への参加などを困難にし、無関心になります。キャリアの構築に向けた計画や意欲も持ちづらくなります。自己決定できないにもかかわらず自己責任での対処が基本になっていて、それが私たちの生活を苦しいものにしています。
これは正直、参加者の皆様に趣旨がスムーズに伝わるだろうかと心配しながら聞いておりました。私は本のほうを先に読んでいたので言わんとされることは概ねわかった(と思う)のですが、参加者の皆様にはそうでない方もいらっしゃるのではないかと思ったわけです。
具体的には特段のご説明もないままに「自己決定」を連発されたところで、大意「無限定≒自己決定できない」「自己決定できる≒ワークライフバランス」という論旨だったわけですが、まあ禿先生は経済学者なので致し方ないところなのかもしれませんがしかし労働法の分野における世間の大勢としてはおそらく労働法は労働者の自己決定を制約するものだという理解になっているはずで、自己決定が大事だという主張はうっかりすると労働者保護の後退につながりかねないわけです。このあたり、hamachan先生も図書が出版された際に懸念を表明されていますね。
…各論については、第1章の禿さんの論文が、「自己決定」という両義的で、とりわけ労働分野において下手に扱うと危険な用語を、やや西谷理論を素直に受け入れすぎているという感想を持ちました。ここは人によっていろいろな意見のあるところでしょうが、自己決定って、だから余計な規制なんかなくして自由にやらせろという議論を極めて安易に引っ張り込む議論であることを、も少し意識した方が良いと思います。「規制が支える自己決定」なんていうアクロバティックな台詞が言えるのは西谷さんくらいだと思った方が良い。
禿さんのいいたいむやみに配転されない権利、むやみに残業させられないノンエリート労働者の権利は、高度でプロフェッショナルな人の「自己決定」権とは違う言葉で語った方が、少なくとも足を掬われないはずです。ほんの十年前には、規制改革会議が、仕事と育児の両立のためにホワイトカラーエグゼンプションをと言っていたのですから。
世間の人々は、こっちの頭の中にある特定の文脈に従ってものごとを考えてくれ、喋ってくれ、行動してくれるわけではない、のです。
hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)「神野・井手・連合総研編『「分かち合い」社会の構想』」
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-a6cd.html
たとえば仕事が大好きだからとかカネが欲しいからとかで長時間働きたい人がいたとして、それで健康を害されたらいかに本人がよくても職場や勤務先や社会のご迷惑ですし、そういう人が上司に来て同様に働くことを求められたら部下は困るわけで、労働時間は1日8時間とか、上回る場合は上限を労使協定とかいうことで自己決定を制限しているという話です。
ここで西谷先生のご所論というのは、ちょっと探した限りでは手頃な解説が見当たらなかったので私の理解が合っているのかどうか自信はないのですが、労働者の自己決定といっても、本心からの自己決定と、使用者との力関係とか情報の非対称性とかいったものに影響されて、必ずしも本意ではない自己決定とがある(誰か「すりかえ合意」とか言ってた人がいたな)。後者に対して法が介入して規制強化することは、むしろ前者の本心からの自己決定を促進することにつながる、というのがhamachan先生が引かれた『規制が支える自己決定』(という西谷先生のご著書がある)になるわけです。
でまあこの西谷説にはhamachan先生が言われる意味での危なっかしさがあるだけではなく、実務的にも労働者の自己決定にとどまらず労使の合意を狭めるものであって迷惑であり、さらにたしか情報の非対称性により労働者が不利な自己決定をした場合には撤回可能とすべきという主張まであってそんなん実務が成り立たないよという話もあったと記憶しています。
さらに当日強く思ったのは連合総研のシンポジウムでそれを言うかねえということで、労働者の本心からの合意と「すりかえ合意」の間隔を縮めるのは労働組合本来の役割のはずであり、西谷説はそこに(労組が弱いから)法がバリバリと介入すべきだということになっているという批判もかねてからあったはずです。実際、上で書いたような「上司が帰らないと帰りにくい、上司が休まないから休みにくい」というのは、労働組合ががんばってずいぶんなくしてきたわけですよ(この話も以前書いたと思う)。
禿先生のご発言は他にも「正規・非正規を問わず、等しくみんなが困難を背負わされる」とか(「等しく」なのか?)、(hamachan先生がそういう意味で「こっちの頭の中にある」と書かれたのかどうかはわかりませんが)特定のお仲間内での共通理解をそのまま表出されているような印象があり(すみませんまったくの言いがかりです)、まあでも連合総研との親和性はそれなりにあるのかなとも思いました。
それ以上にわからなかったのが竹端先生のご所論で、
…障害者は「生産離脱者」だと言われていました(厚生省1951)。また、たとえば誰でもなる可能性があるうつ病患者も「生産離脱」のレッテルを貼られるのを恐れ、なかなかカミングアウトできない状況です。障害学では、これを障害の医学モデルと社会モデルの違いとして取り上げます。医学モデルでは障害者も自己責任が問われ、治療の対象とみなされます。障害が治らなければこの社会のフルメンバーとは認めない、変わるべきは障害者であるという発想です。一方社会モデルでは、変わるのは社会の側であると考えます。
…今は「貨幣的な生産至上主義」で、それが可能な人のみが「一級市民」であり、できない人は「二級」「三級」のレッテルを貼られてしまう。だから、知り合いのうつ病患者などの中にも「“一級市民”に戻りたい」という人が多くいます。「フルタイムで必死に働きたい」と。この社会の異常な同調圧力によって、病気を生むことになったその働き方に戻ることを希望せざるを得ないのです。
こういう「しんどい」社会を乗り越えるためには、お互いの主体性を認め合う社会、「ありのままのあなたでいい」と認め合える社会の構築が必要です。「生産者中心」の社会から「生活者中心」の社会への変革です。どのような状態の人でも大切にされ、相互に承認される社会、「必要」「生産」から「生きることの歓び」へ、生活者中心の社会に枠組みを書き換えていくことが大切だと思います。
ということで、まあ立派なことを言われているんだろうとは思いますが、そのために具体的になにをどうするのかという話がないのです。パネルの中でも繰り返し発言されているのですが、最後までこんな調子です。
井手 生産の場や生活の場、保障の場が、歴史的な転換点に当たって新しい形に変わっていくだろうという見通しを持つことは、さほど間違っていないと思います。それぞれの場で、どういう改革が重要になっていくのか、最後にコメントをいただきたいと思います。
…
竹端 「生産至上主義」は、それが出来ない・苦手な人を排除する価値観を形成します。生産の重要性は認めながら、生産の有無に関わらず「あなたがいること」そのものに価値があるのだと伝えることから「相互承認」が生まれ、それが今後生活の場における大事な要素になってくると思います。「相互承認」を中心にするためには、生産の場で主体である労働者の皆さんが、生産の場だけではなく生活の場でも互いに承認し合えるような関係性をどう作っていけるのかが、安心な社会になるか不安定な社会になるかを分けるポイントになると思います。
いやだからなにをするのさ。まあ要約なので仕方ないという話はあるのかなあ。しかし、当日のご発言を思い返しても、障害者が厳しい現状にあるということや、公的支援の乏しい中で支援者が献身的に努力しているということについては具体的な紹介があったのものの、政策について具体的な提案はなかったと思います。
もちろん価値観が重要でないというつもりもないのですが、ここまで価値観だけの議論だとやはり危ないなという感はあります。たとえばホリエモン氏が障害者雇用について発言して物議を醸したことがあったわけですが、ホリエモン氏の立場というのは障害者(に限らず「生産が出来ない・苦手な人」)に対して「生産の有無に関わらず「あなたがいること」そのものに価値があることについては本心から同意します。だからBIを受け取って引っ込んでてください。その財源は、生産が得意な私が稼いで納税して負担します」というものであるわけですね。これに対しては竹端先生が価値観を述べるだけでは対抗できないでしょう(少なくとも説得は不可能)。ホリエモン氏はそれなりに具体策も示しているわけで、これに対抗するには「「あなたがいること」そのものに価値がある」をどのように表現するか、そのための組織や投資や費用はどうやって確保するのかとかいった具体論が不可欠でしょう。
最後に吉田先生のお話ですが、ヨーロッパの政治情勢を中心に私には興味深い内容でした。
ヨーロッパのポピュリスト政党…が掲げるのは「自国中心主義」や「反既成政党」などの主張です。
こうしたポピュリスト政党の伸張は、実は社民政党の変容のコインの表裏の関係にあります。ヨーロッパ各国の社民政党の得票率…低下しているのは労働者層が左派政党から離反しているためです。
…ポスト冷戦期になって…社民政党が経済政策でリベラルになり、他方では保守政党も同性婚を認めるなど、文化的にリベラルになっていきます。…かつての社民が実現しようとしていた大きな政府かつ再分配重視の経済軸、かつての保守が実現しようとしていた権威主義的で共同体主義的な文化軸が、有権者のニッチ市場として残存しました。そこに付け入って得票を伸ばしていっているのが右派ポピュリズム政党です。
20世紀前半に生まれた社民政党と労働者との間の連携という歴史的なブロックはポスト工業化の時代を迎えて崩壊しつつあります。…既成政党がグローバル化に対して労働者を十分に保護しなかったことで政治的代表性を失った労働者層は、こうしたポピュリスト政党の支持に流れ込んでいっています。
日本も、グローバル化の衝撃に備え、…グローバル経済と地域経済の衝突を緩衝できる…こと、拡大する移民を社会的に包摂できる制度を整備しておくことなどです。
グローバル化の中では国民国家、民主主義、社会保障のトリレンマを鼎立させていくのかが、大きな課題です。分断と奪い合いを越えていくことを可能にしてきたのは福祉国家であり、そのあり方をどう再定義していくのかが大きな条件の一つとなるのではないでしょうか。
政治学者なのでやはり具体的な政策の提案はそれほど多くはなかったのですが、最初の井手先生の主張(累進負担増と再分配拡大)をサポートするものだったとは思います。国際政治の現状と課題といったことについては情報が豊富で、とりあえず「相互承認」とかの話よりは実用的なもののように思いました。
ただまあグローバル化の中で保守・社民ともにリベラルになったのもある意味必然だったのでしょうから、「かつての社民が実現しようとしていた大きな政府かつ再分配重視の経済軸」に先祖返りするというのも大変だろうとは正直思います。「福祉国家のあり方の再定義」というのも容易ではなかろうと。とりわけ技術革新が労働のあり方にも大きな影響を与えるのではないかと言われる中では、その構想もさらに難しいように思われます。
さて第2部の神野直彦先生の講演ですが、こちらはまだウェブに上がっておらずコピペができないので(笑)簡単な感想のみ。「DIO」3月号には掲載されるものと思いますのでご関心の向きはそちらも。
神野先生は連合総研20周年記念シンポジウムでもご講演されたとのことで、この際にはhamachan先生も登壇されていますね。神野先生以外はメンバーが入れ替わっており、後進が育っているようでご同慶です。今回のご講演では、20周年の際に連合総研理事長だった元連合事務局長の故草野忠義氏の自伝(?)『擔雪填井』を紹介されながらご持論を語られました。神野先生もご高齢であり、周知のとおり困難を有する方でもあるので、直接ご講演を聞くのも今後機会が限られてくるのではないかというのが実は今回参加した最大の動機だったのですが、相変わらずお元気なご様子でしたのでよかったよかった。内容に同意するかどうかは別として(笑)、時折さしはさまれる思い出話も楽しく、いい講演だったと思います。