小池和男編『国際化と人材開発』

 日本キャリアデザイン学会の研究誌「キャリアデザイン研究」第4号に寄稿した書評を転載します。
 文中にもありますが、このシリーズは社会人大学院生の修士論文を中心に構成されています。それなりに仕事に打ち込んだ人であれば、その経験と人脈・信用と業界の土地鑑とで一生に一本は面白い修士論文が書ける、ということでしょうか。ある意味究極の?フィールドワークといえばいえるのかもしれません(本職のフィールドワーカーに怒られるかな)。10年ごとくらいで転職すれば4本くらい書けるかも?いずれにしてもなかなか入手できない貴重な知見の集積ではあります。

国際化と人材開発 (キャリア研究選書―シリーズ日本の人材形成)

国際化と人材開発 (キャリア研究選書―シリーズ日本の人材形成)

 本書はナカニシヤ出版から刊行されている「キャリア研究選書 シリーズ日本の人材形成」の第5巻である。本稿執筆時点では第1〜3巻と本書が刊行されている。
 このシリーズはたいへんユニークな特徴を有している。それぞれの巻末に掲載された執筆者の経歴をみてみると、第一に、大半の執筆者は法政大学の経営学修士号を保有している。第二に、その大半は学部卒業年と修士号取得年との間に大きな開きがある(40年を超える例もある)。第三に、やはり大半は民間企業での職歴を有している。すなわち、このシリーズは法政大学大学院に学んだ社会人大学院生たちの修士論文を中心に編集されているのだ。したがって、このシリーズはほぼ一貫して事例研究で尽くされている。しかもその多くは執筆者が自ら勤務する企業が対象であり、そうでない場合も執筆者が就労経験を持つ職種・業界が対象とされている。本書においても、それは同様である。
 まず、各章の概要をみていこう。第1章はある民間企業の海外子会社社長を取り上げており、執筆者自らもまたこの企業の海外子会社社長の経験者である。この企業の主要海外子会社の社長経験者に対する入念なアンケートと、それぞれの子会社の経営状況に関する社内資料を組み合わせ、この企業の海外子会社社長として成功する人、さらにはその後のキャリアでも成功する人の要件を明らかにしている。それに加えて、特に成功した2人に対するヒヤリング調査を行って、アンケート調査のさらなる裏づけとするとともに、さらに踏み込んだ内実を示した。
 第2章は本シリーズには珍しく専門の研究者による論文である。ある自動車部品メーカーにおける海外派遣者の選抜とその候補者の育成について明らかにしている。この企業では海外派遣人材の需要要件を明らかにしたうえで、その育成をはかるための一環として、事務系ホワイトカラーにつき、1977年入社組から全員の異動経歴を掌握しているという。ここでは現に多数の海外派遣者が輩出されている1977年入社から1981年入社の74人の異動経歴という貴重なデータを需要要件を参照しつつ分析し、人材育成の観点からいくつかの異動パターンが存在することを示している。
 第3章も民間企業の海外子会社社長を務めた経験を有する執筆者の手になるもので、ある民間企業について、企業が海外進出を開始し、展開していくロングレンジの過程を紹介する。そして、これに携わる人の国際化の進化の段階に応じて求められる要件と、その人材が供給されるキャリアの類型を明らかにしている。用いられたデータは、この企業が海外担当課を設置した1947年初頭から1993年半ばまでの46年にわたる海外派遣者の人事記録で、最終的に202件という、まことに貴重なものである。
 第4章は、ODAなどの海外開発プロジェクトを遂行するエンジニア・コンサルタント会社の技術者のキャリアという、おそらくたいへん珍しい事例調査である。明記されてはいないが、執筆者の勤務先と推測される。特定の事業部を選び、まず人事部と事業部に対する聞き取り調査で人事制度の概要とその運用、業務の特徴などを調べたうえで、当該事業部の技術者の個別データによるキャリア分析が行われている。個人の昇格スピードをふくむ、これまた貴重なデータである。それを各人がマネジメントしたプロジェクトの件数や予算規模、人数などと照合し、なにが昇格に影響しているのかを明らかにしている。
 第5章は、外資系化粧品企業の販売員のキャリア形成という、きわめてニッチな、おそらくはやはり珍しいであろう事例調査である。これまた明記されてこそいないが、執筆者の勤務先企業が主たる調査対象となっていることは容易に推察できる。調査手法はもっぱらこの企業の従業員に対するヒヤリングであるが、さまざまな文書資料も参照されており、さらに競合7社の管理職にも比較のための聞き取りを行うという入念なものである。これを通じ、まず多くの人にはなじみの薄い化粧品販売の業務や必要技能、さらにその形成のしくみを示した。さらに転職経験者の多さに着目し、企業による技能の異同と照らして、エントリーレベルの技能は外部で育成されたものが活用できるのに対し、店長業務などより高度な技能は内部で育成されていることを明らかにした。
 第6章は、もっぱらアンケート調査の分析を行っている点で今シリーズの中では異色といえる。その結果を日本国内の類似の調査と対照し、タイの日系自動車工場で働くタイ人生産労働者の働く意欲を調べている。タイ人労働者から直接回答を得ることで、日系自動車工場においては「タイ人は勤労意欲が低い」との日本での通説とは異なり、多くのタイ人労働者が高い意欲と帰属意識をもって勤務していること、したがって日本国内における動機づけ施策がタイにおいても有効である可能性があることを示した。
 第7章はアメリカの労働組合の調査であり、米国食品商業労働組合の産別組織の本部および2つのローカル組織、さらにそのローカルが組織している企業からヒヤリングを行っている。執筆者は日本の同業産別労組の活動家である。本部とローカルそれぞれの組織や機関、財政、団体交渉における本部・ローカルそれぞれの役割と関係、争議の統制、苦情処理、組合役員の経歴や教育などが示され、そのうえで2つのローカルの交渉過程と労働協約の比較を通じて妥結内容の標準化が検証される。協約内容には共通の部分が多いが、異なる部分も少なくなく、賃金に関しては企業間でも相当の差異が認められることが示されている。
 このように、社会人大学院生中心という本書の特徴ある執筆者構成は、そのまま本書の内容の特徴として反映されている。
 第一に、執筆者が研究対象について豊富な体験的知識を有しており、それをふまえて調査対象をピンポイントで絞り込んでいることから、的確な課題設定・仮説設定と事実解釈のもとに、聞き取りなどの調査対象との直接のコミュニケーションを中心として、深く掘り下げて研究することができていることがあげられよう。そこで見出された結果は、ときに従来の通念を覆すものとなる。たとえば、第2章では、海外派遣社員には英会話力や異文化理解が最重要だという通念に対し、国内の仕事経験のほうがはるかに重要だということが個別事例に深く踏み込むことを通じて指摘される。第6章は、タイ人労働者は一般的に勤労意欲が低いという通念をタイ人からの直接の回答を得ることで覆す。第7章でも、現地でのていねいな聞き取りを通じて、アメリカの労組は産別組織で、労働条件はローカルが統括しているという通念とは異なり、実際には同一ローカル内でも企業別に労働条件に相当の相違があることが示されている。たしかに、狭く限られた範囲の事例研究を一般化することは難しいが、広く浅い理解にもとづく通念を覆すことはできる。
 第二に、組織の外部からはとうていうかがい知ることのできないような内部情報、個別かつ詳細の資料が活用されていることである。これは、内部者ゆえにアプローチが容易だという単純な話ではあるまい。調査者が内部の信頼できる人物であり、その資料が適切に利用され、開示などが良心的に行われることが確実に担保されるからこそ、その活用が可能となるのだ。たとえば第1章では、調査対象企業の「子会社別業績を本社常務会に報告するための資料」や「常務会による設備投資案件稟議の承認状況」といった資料が活用されているが、これが部外者に開示されることは通常考えにくい。その例外が第2章であろう。執筆者自身も本章の冒頭で「ある1事例についてめったに披見できない貴重な資料を分析して問題に迫った」と述べており、執筆者と調査対象企業との信頼関係がうかがえる。第3章や第4章で用いられている個人データは、社内でも限られた対象者にしか開示されない性格のものだし、第5章で活用されている社内資料も「OJTシート、トレーニングマニュアル、社内報、販売部月報」といった、部外者にはアプローチが難しいものが多い。聞き取り調査をみても、たとえば第1章、第5章の聞き取りは「同僚」「信頼できる身内」ならばこその充実したものとなっているのではないか。
 第三に、しかしこれは単なる事例集ではない、ということを指摘しなければならない。実際には、各章の調査時点はかなりばらついており、全体にやや古い感もあるため、やはり資料集としての価値が高い本であるのかもしれない。しかし、各巻ともに第1章の前に「プロローグ」として編者による改題が付され、編者の意図と各章に通底するものが明らかにされていることで、一貫したメッセージを持つ研究書として完結している。
 本書のメッセージは「海外での企業活動が日本の雇用、くらしを支える」というものであろうか。ここでもまた、編者はいくつかの通説を破壊してみせる。たとえば「日本は輸出に過度に依存しており、内需依存への転換が必要」といったものである。実際には、日本のGDPに占める輸出の比率は主要各国中最も低いグループに含まれる。あるいは「日本の特殊な仕事方式により海外日本企業の効率は低い」という通説である。しかし、現に統計が整備されてみると、実は日本企業の収益率は高い。
 したがって、やはり今後は一段と「海外での企業活動が日本の雇用、くらしを支える」のだ。そのとき、現地において企業活動を支える人材、あるいは国内でそれを支援する人材とはどのような人で、どのように育成されるのか、これはまことに重要な課題であるに違いない。「国際化と人材開発」がテーマとされたゆえんであろう。