転職阻む控除

 本日の日経新聞朝刊5面に「連合「賃上げ5%程度」春季労使交渉、物価高ふまえ方針」という記事が掲載されていてほほおと思ったのですが、その下に小さくこんな記事がありました。見出しは「転職阻む控除見直し 政府税調、所得税を議論」となっていて、退職金税制の話です。

 政府の税制調査会(首相の諮問機関)は18日の総会で、多様な働き方を選びやすくする所得税のあり方を議論した。退職金所得への課税制度は終身雇用制度が前提となっており、勤続20年を超えると1年あたりの控除額が増える。転職をためらう要因にもなりかねず、委員からは「控除は勤続年数で差を設けず一律にすべきだ」といった意見が出た。総会では「生産性が高い分野に資本や人が移動しやすくなる税制にすべきだ」と指摘する委員もいた。
(令和4年10月18日付日本経済新聞朝刊から)

 現状の退職金税制をざっくり書くと、退職金額から控除額を差し引いた額の半額が課税退職所得となり、5%から45%の累進税率で課税されるしくみになっています。この控除額がけっこう大きく、勤続20年までは勤続1年あたり40万円、21年を超えると超える分については1年あたり70万円が控除されます。つまり、高卒で勤続42年だと40×20+70×22=2,340万円が控除されることになるわけです。厚生労働省の平成30年就労条件総合調査(退職金調査は5年に1回なのでこれが最新のはず)によれば勤続20年以上かつ退職時45歳以上の退職者1人平均退職給付額は高卒の定年退職で1,618万円となっており、まあこれは転職などで勤続年数が21年とか22年とかいう人も含まれてはいるわけですが、それでも退職金額の全額が控除される例も相当あるものと推測されます。
 これは実は意図的なもので、昭和41年の政府税調の中間答申に「退職所得は老後の生活保障的な最後の所得であることにかんがみ、その担税力は他の所得に比べてかなり低いと考えられるので、できるだけ早い機会にその控除額を定年退職者の平均的退職所得の水準まで思い切って引き上げることが望ましい」、「永年勤続者をより優遇する意味から、勤続年数に応じて順次控除額を増やし、通常定年に達すると思われる勤続年数の退職者で最高の控除額を保障するような仕組みとすることが必要」との記述があり、実際、翌昭和42年の税制改正ではこれに従って制度が整備されました。その後も労使双方が物価上昇などをふまえて優遇税制の拡大を求め、数次にわたって引き上げられた結果が現状ということになります。
 こうした税制が、転職や非正規雇用の増加、早期退職の拡大などといった労働市場の変化、就労形態の多様化に適合しなくなっているという指摘もかなり以前からあり、すでに1998年には松下電器(現パナソニック)が退職金前払い制度(全額給与支払い型社員制度)を導入して話題になりました。これは退職金がない分基本給が高いというものですが、退職金優遇税制相当額も会社が持ち出して上乗せする制度となっており、現状でも選択可能になっているようです(どの程度選択されているのかはわかりませんが)。
 実際、過度に足止め的な後払い賃金は職業選択の自由といった観点から基本的に好ましくないと私も思います。一方で退職金は上記のように老後の生活資金という性格も強くあり、ある意味賃金の一部を企業が強制的に留保して退職時に支給する制度と考えることもできます(これをやらないのがパナソニックの退職金前払い制度)。現行の年金制度が、企業の退職金制度の現状を前提にしている以上は、退職金の優遇税制自体は依然として正当化できると思いますが、勤続20年超でさらに有利になることがどうかはたしかに議論のあるところでしょう。「控除は勤続年数で差を設けず一律にすべきだ」という意見については、そのほうが公平でいいという考え方もありますし、勤続が長くなるほど老後資金としての性格が強くなるから長期勤続を優遇すべきだという意見もあるでしょう。税制ではありますが、ここは労使で十分な議論が望まれるのではないでしょうか。
 むしろ重要なのは、変更する際のやり方ではないかと思います。経団連は毎年の税制改正要望の中で退職金優遇税制の見直しにも言及しているのですが、それを読むとこうなっています。

…多様で複線的なキャリア形成や、人材の流動化等の状況を踏まえつつ、個人の職業の選択に対して中立的な所得税制が検討されるべきである。こうした観点から、同一企業に長期間留まるか、転職により新たな挑戦を行うかといった選択に対して、現行の退職所得控除が与えている影響について、現時点での権利に不利益が生じない範囲で検討を加えることは必要である。
経団連「令和4年度税制改正に関する提言」から)
…多様で複線的なキャリア形成や、人材の流動化等の状況を踏まえつつ、個人の職業の選択に対して中立的な所得税制が検討されるべきである。こうした観点から、退職所得控除について、業種・業界の雇用慣行や、労働者の権利関係(労働条件)、労働者の勤続年数の選択に対する影響等を検証しつつ、見直しを進めるべきである。
(同「令和5年度税制改正に関する提言」から)

 一読して慎重な書きぶりで、もちろん企業の退職金制度にも大きく影響するという背景はあるのでしょうが、特に重要なポイントは「現時点での権利に不利益が生じない範囲で検討を加える」というところでしょう。企業も労働者も老後の生活設計については相当の関心を持ち、それなりに早い段階から調べたり学んだりして計画を考えているわけですから、その前提を大きく変更することはすべきではないということだと思います。たとえばすでに勤続20年を超えている人については現行制度を維持するとか、新制度の導入にあたっては(年金支給開始年齢の引き上げなどと同様に)長期間をかけて段階的に実施していくとかいうことは十分に考慮する必要がありそうです。
 なお冒頭の連合の賃上げ要求については、定昇相当分が約2%、物価上昇が2%あるのだとしたらやはり4%を確保して実質賃金低下を回避するのは不可欠だろうと思います。世間でさんざん言われていますが、賃上げが物価上昇をカバーしなければマクロ経済がおかしくなるでしょう。5%というのはさらに1%上乗せしたということで、まあ昨年もたしか定昇2%、物昇1%プラス1%の上乗せだったという記憶があるのでその路線を継承したのかもしれませんが、経営サイドも賃上げの必要性を認めている中では少々控えめではないかと思わなくもない(笑)。まあ余計なお世話ではありますが。