メンタルヘルスと人事管理、その対応の方向性

先週金曜日の日経新聞「経済教室」に慶応の山本勲先生と早稲田の黒田祥子先生が登場しておられます。お題は「従業員のメンタルヘルス 企業業績に影響大」となっています。

…従業員のメンタルヘルスの悪化は、その企業の業績にも悪影響を与える可能性がある…
 筆者らは、経済産業研究所の研究プロジェクトにおいて、企業とその企業に勤める従業員への追跡調査を実施している。…約400社のデータをもとに、2004年から07年にかけてメンタルヘルスの不調により連続1カ月間以上の長期休職をしている正社員の比率が上昇した企業群とそれ以外の企業群で、売上高利益率の変化がどのように異なるか…
 07年時点では、休職者比率が上昇した企業もそれ以外の企業も、利益率の変化にはほとんど差はみられない。しかし08年以降をみると、リーマン・ショックによる景気後退の影響を受けてどの企業も業績を悪化させているものの、休職者が増加した企業ほど利益率の落ち込みが大きい。つまり、メンタルヘルスを損なう従業員が増加した場合、その影響はすぐには現れないものの、時間的ラグを伴って利益率は顕著に低下する。この傾向は、企業の規模や技術力・潜在成長力など、企業固有の要因などを統計的に考慮した場合でも検出される。
平成26年6月13日付日本経済新聞朝刊「経済教室」から、以下同じ)

このあたりは当然ぬかりなくコントロールされているものとは思いますが、これだけだとそもそも企業経営に潜在的な問題があり、それがメンタルヘルスと企業業績に独立に影響しているのではないかという疑問は残ると思います。もちろんメンタル状況の悪化が生産性の低下をもたらし、結果的に業績悪化につながるという議論は説得力があると思いますが、しかし過大評価になりかねないのではないかという心配です。
また、これは致し方ないのだと思いますがやはりリーマン・ショックというのはかなり例外的な異常事態であり、そんなことでもないかぎり大して影響はないよ(逆にいえば異常事態時には大きく影響するけど)、という可能性もありそうな気はします。いずれにしても近いうちにRIETIのサイトでディスカッション・ペーパーが公開されると思いますので、楽しみに勉強させていただきたいと思います。
ということで申し上げたかったのは日経新聞がつけた(と思われる)「企業業績に影響大」というタイトルで、これを大見出しにするというのはいかがなものか(お、久々に使ってしまった)と思うわけです。
さてここからはこの分析(と著者らの先行研究)をもとにした人事管理へのインプリケーションになります。

 メンタルヘルスによる休職者が全従業員に占める比率は平均で1%未満と低い。それにもかかわらず、なぜ休職者比率の上昇が企業業績を悪化させるのだろうか。一つの解釈として、メンタルヘルスによる休職者比率の経年的な変化は、当該従業員だけでなく、その企業の従業員全体の平均的なメンタルヘルスの変化の代理指標となっている可能性が考えられる。
…休職者が増加している職場や企業では休職者本人だけでなく、就業を続けているほかの従業員のメンタルヘルスも悪くなっていて、…企業業績が悪化している可能性がある。事実、労働者の追跡調査データを用いて検証すると、メンタルヘルスによる休職者が増加傾向にある職場で働く人は、その人自身のメンタルヘルスの状態も経年的に悪化する傾向が認められた。
 つまり、労働者がメンタルヘルスを悪化させる背景として、その職場や企業に何らかの要因が存在していることが推察される。そうした要因が休職者だけでなくその他の従業員のメンタルヘルスの低下を通じて、企業の生産性を低下させていると解釈できる。
…筆者らの検証によると、労働時間、とりわけ手当の支払われないサービス残業時間が長いこと、仕事を進めるうえでの裁量の度合いが低く、担当する業務の内容が明確ではないこと、早く退社しにくい職場風土があることなどが、メンタルヘルスの悪化につながりやすいことがわかった。なお、多くのほかの病気と同様に、発症には遺伝など個人的な要因も関係していると考えられるが、個々人に固有の要因を統計的に考慮したとしても、職場・企業要因の影響は変わらなかった。
 これらの結果は、メンタルヘルスの問題は休職してしまった従業員の問題だけではなく、職場環境や働き方に関係する従業員全体の問題として捉える必要があることを示唆している。

こちらはRIETIのサイトでディスカッション・ペーパーが公開されています(http://www.rieti.go.jp/jp/publications/summary/14040004.html)。そのとおりだろうなと思うわけですが2点ほど感じるところはあり、ひとつはここから政策的インプリケーションを導き出す上では全体的な傾向から一律の施策を考えるのではなく、企業により、労働者により相当の多様性があることに配慮した柔軟性の高い施策を考えるべきではないかということです。もうひとつは、人事管理や企業風土に問題がある場合、その原因はなにかということで、たとえばふだんは良好な就労環境にある企業が、業績が悪化していて当面は要員の増強ができる状況ではありませんという場合は、景気が回復して業績が改善すれば問題も解消することが期待できるでしょう。メンタルヘルスはもちろん重要ですが、あまりに安全サイドに傾いた結果業績が一段と悪化して人員削減の余儀なしに至りましたという話になったらメンタルヘルス面でももっとよろしくないことは明らかでしょう。
次もちょっと気になるのですが、

 筆者らの研究によると、日本の企業では、労働時間の一部が非効率に長くなっている傾向がみられる。非効率な働き方を是正するために職場管理を工夫したり、職場風土を変えてサービス残業を少なくしたりすることは、効率性を高めると同時に、従業員全体のメンタルヘルスの悪化防止にもつながるため、相乗的に企業業績の改善にもつながりうる。

これはおそらく必要以上にていねいに仕事をしすぎる、といったことが念頭にあるのだと思います。たしかに、目先でみれば必要以上の過剰品質は生産性を落としますし、長時間労働をもたらしやすいともいえるでしょう。
ただ、たとえばなんらかのプレゼンの準備をしているとして、ディスカッションでの想定問答も作成しているとしましょう。このとき、どこまで準備をするか。短期的な効率を考えるのであれば、質問が出た時点で「調べて改めて回答いたします」で済む分には事前に準備をする必要はないだろうというのが正論だろうと思います。しかし、(動機はなんであれ)多くの想定問答を準備し、そのほとんどは問われることもなくその場では「ムダな」準備だったとしても、そのプロセスが本人の知識や能力を高めているだろうことも容易に想定できます。こうした能力向上は中長期的には生産性を高める方向に働くことが期待できますので、そのていねいさが本当に必要以上、「非効率」かどうかは少なくとも議論の余地はあると思います。
それが次の話につながるわけですが、

 なお、現在、自律的な労働時間制度の導入を巡って議論が活発化しているが、筆者らの研究に基づけば、日本において、現行の労働時間規制が適用除外されている労働者ほど労働時間が短くなっているという証左は見いだせない。逆に、不況期には残業代が支払われない適用除外者に業務が集中し、長時間労働が生じやすく、そうした傾向は交渉力の小さい労働者で顕著となる。このため、規制の適用除外の範囲を広げすぎると、かえって長時間労働を招き、メンタルヘルスを損なう労働者が増加するおそれもある。制度改革には、対象となる労働者の範囲設定を含め、慎重な対応が必要といえる。

基本的には同感であり、もちろん慎重な対応が必要だろうと思いますが、しかしこれも必要以上に安全サイドの対応とすることなく、企業・仕事・労働者の多様性に対応できる柔軟な対応が必要になるだろうと思います。著者はお二方とも日銀をスピンアウトして研究者になられた方ですが、日銀時代にもっと自由に、自律的に、やりたいだけやらせてくれと思われたことはなかったのかなあ。まあ、自由にやりたいから日銀をやめて研究者になったということかもしれませんが…。

…しかし、メンタルヘルスによる休職者の存在は、その企業の従業員全体の心の健康の代理指標であるという認識は重要である。従業員のメンタルヘルスが企業業績に影響を及ぼす可能性を踏まえると、メンタルヘルス問題を医療システムによって社会で対処するだけでなく、企業が経営課題として向き合うことが求められる。
…ワーク・ライフ・バランスと対立する概念であるワーク・ライフ・コンフリクト(摩擦)は、従業員のメンタルヘルスを悪化させる可能性がある。つまり、働き方の改善はワーク・ライフ・バランスの実現だけでなく、メンタルヘルスの悪化防止にもつながるという認識が重要といえる。
 経済学の視点に立ったメンタルヘルスの研究はまだ蓄積がそれほど進んでおらず、本稿で紹介した研究も発展段階にある。今後は、医学・社会学経営学など他分野の知見を活用し、そうした分野との融合を図りながら、企業や労働者のデータに基づいた研究を経済学からも積極的に進め、研究成果を発信していく必要がある。

なんか企業がメンタルヘルスに経営課題として向き合っていないと言わんばかりの書き方をされていますが、とりあえず私の手元にある中で最も古い経団連の『2006年版経営労働政策委員会報告』にはメンタルヘルスについて「経営の重要課題として」取り組むべき、との記載があります(2005年版以前にはあたっていませんのでそれ以前に記載があったかどうかは不明です)。まあどれほどの効果があったのか、実態はいかほど改善したのかと問われれば歯切れのいい回答はないかもしれませんが、この間の景気や経済の実情を考え合わせればもごもごもご。アベノミクスで経済界のメンタルヘルスが改善すればそれはたいへんにけっこうなことかもしれません。