あらためて、おまえがいうかおまえが

12月22日のエントリについて、大竹文雄先生からトラックバックをいただきました。ありがとうございます。興味深い指摘を頂戴しましたので、ここでもあらためてご紹介したいと思います。

 12月22日の日経の「領空侵犯」の矢野朝水氏の発言について、濱口先生と労務屋さんが異なる趣旨で批判している。
 濱口先生は、趣旨はいいが、株主主権を提唱していた人がいうのはおかしいということだ。労務屋さんは、正社員と非正社員は違うのだ、と矢野氏の発言趣旨そのものに反対で、株主主権を言っていたのに、株価最大化と矛盾しているのでは、という趣旨だと思う。どっちにしても矢野氏の主張には、株主主権との間に大きなギャップがあるということだと思う。
 でも、つぎのように考えれば、矢野氏の主張は、整合的に理解できるかもしれない。それは、日本企業のガバナンスが、株主主権ではなく、正社員による従業員主権だ、ということを矢野氏が批判してきたと理解することだ。私はESPという雑誌の2008年9月号に「日本の成果配分をめぐって」という論説を書いた。そこでの分配問題における日本の事実認識のポイントは、日本企業の内部留保や投資が株価に反映されていないというアルバート・アンドー教授と齊藤誠教授の発見と労働者の間での二極化である。前者は、企業の内部留保が、非効率であることを反映している。非効率な投資がなされているくらいなら配当に回せというのが、株主からの要求だ。一方、株主からしてみれば、極度に正社員を減らして技能継承が問題になったり、正社員の長時間労働で不良品が増えたりすることの方が、非正社員による経費削減効果よりも株価にマイナスの影響を与えると判断するかもしれない。そうだとすれば、彼の発言は矛盾でもなんでもない。
http://ohtake.cocolog-nifty.com/ohtake/2008/12/post-a191.html、以下同じ

「日本企業のガバナンスが、株主主権ではなく、正社員による従業員主権だ、ということを矢野氏が批判してきた」というのはそうなのかもしれません。
そこで、「極度に正社員を減らして技能継承が問題になったり、正社員の長時間労働で不良品が増えたりすることの方が、非正社員による経費削減効果よりも株価にマイナスの影響を与えると判断するかもしれない。そうだとすれば、彼の発言は矛盾でもなんでもない。」という考え方については、私は株価にはそれほど関心はありませんが、企業の業績とか生産性とかに置き換えて考えれば私もまことに同感で、このブログでも繰り返し書いてきました*1。これはもちろん私のオリジナルでもなんでもなく、旧日経連が提唱した(そして一部で非常に不評な)「自社型雇用ポートフォリオ」の基本的な考え方に通じるものです。「長期蓄積能力活用型」を減らすことで技能継承や品質確保などが損なわれる可能性と、「雇用柔軟型」を持つことで得られる雇用量のフレキシビリティとを勘案して、自社にとって(そこが「自社型」のゆえん)最適な比率を見出していこうということで、これをさらに「高度専門技能蓄積型」なども加えて多様な雇用の最適な組み合わせを各企業がそれぞれに追求しようというのが「自社型雇用ポートフォリオ」の理念だからです。
ですから、大竹先生のご所論にはなるほどと思います。矢野氏がそのように主張していただいたのなら、私としても「立場の違いはあるけれど同感できるところも多いなあ」という感想を持ったことでしょう。ただ、知る限り今も昔も矢野氏はそうはおっしゃっておられないようなので。今回のインタビュー記事にしても、ポートフォリオの割合についての言及はせいぜい「非正社員を正社員にする道も開けてきます」と副次的なもので、主には「非正規労働者の待遇を上げるには、正社員の取り分を減らして分配率を変えるしかないでしょう」と正社員の待遇悪化による非正規の待遇改善を主張しています。これは、長期的な能力蓄積とその発揮を期待されている正社員の待遇を悪化させることを通じて能力蓄積を阻害し、品質確保などを損ねる危険性を一面では持っていることを忘れてはならないと思います*2

 株主からの不満が出るような行動を日本企業がとっている理由には、正社員による従業員主権のモデルで解釈するのが一つの方法だろう。従業員主権の企業は、株価最大化をするのではなく、正社員一人あたり所得の最大化を目的とする。こうしたモデルでは、通常株価最大化をする企業よりも、企業の成長率を低下させることが知られている。なぜなら、企業を成長させると従業員の数も増えてしまうので、一人当たり所得も低下する力が働くからだ。株主にとってみれば、企業価値が最大になってほしいのだが、正社員従業員にとってみれば、従業員数が少ないほど得になるからだ。でも、正社員従業員にとっても、企業がある程度成長することは当然所得の増加につながる。そこで、正社員にとっての選択は、非正規従業員の増加によって企業を成長させ、非正規労働者の賃金を抑えておくことで、正社員一人あたり所得を増加させる、というものになる。おまけに、景気変動による所得変動リスクや解雇リスクも小さくすることができる。それこそ、日本の大企業と組合が選んできたことではないのだろうか。

たしかに、わが国の労使(典型的には製造業の大企業労使)においては、「雇用確保」「労使協議」「公正分配」という原則(≒ルール)のもとに生産性運動に取り組み、企業の成長と業績の拡大、従業員(おもに生産性運動に主体的に参加するカテゴリである正社員)の労働条件・生活の改善を実現してきました(その過程で従業員の能力が伸び、意欲も高まっていたことも言うまでもありません)。正社員がこれに積極的に参加するためのインセンティブとして「正社員一人あたり所得を増加させる」「景気変動による所得変動リスクや解雇リスクも小さくする」ということが機能してきたことも間違いないでしょう。
それに対し、「従業員主権の企業は、株価最大化をするのではなく、正社員一人あたり所得の最大化を目的とする。こうしたモデルでは、通常株価最大化をする企業よりも、企業の成長率を低下させることが知られている。」ということであれば*3、矢野氏が「物言う株主」として「正社員の所得なんてどうでもいいから、株価最大化をめざせ」と発言するのはごもっともと申せましょう*4(実際、矢野氏はかつてそうした趣旨の発言もされていたように記憶しています…ウラを取ったわけではありませんので自信はありませんが)。そういう意味で大竹先生のご指摘はたいへんもっともかと思います。
ただ、このインタビュー記事では、繰り返しになりますが矢野氏は正社員の待遇悪化による非正規の待遇改善を主張しておられます。それどころか、「今は自分の会社のことばかり考え、一円でも負担が増えるのは嫌だと主張します」とまで述べ、企業にコストアップを受け入れるよう求めています。まあ、雇用も労働条件も固定的な正社員の賃金を下げ、雇用が流動的な非正規を高めることは、少なくとも短期的にはコスト効率を高める可能性はありますが、総額が変わらないまま分配を変えるだけでどれほどの効果があるかは疑問です。ましてや、総額を増やしてでも非正規への配分を増やせということになると、はたして短期的にすら効率化効果があるのかどうか怪しいことになってきそうです。

 好況期において非正社員比率が高すぎるという日本企業の体質が、直接的に企業の生産性低め、貧困層を増やしていくことによって間接的に日本全体の生産性を低めるということであれば、株主主権の立場であっても、正社員・非正社員の格差問題を批判することとは矛盾しないのではないだろうか。もちろん、株主主権であれば、なんでもうまくいくというわけではない。企業価値の最大化が目的だとすれば、そういう解釈もあるということだ。

まったくご指摘のとおりで、とりわけ年金基金のような長期のリターンを期待する株主であれば、「好況期において非正社員比率が高すぎるという日本企業の体質が、直接的に企業の生産性(を)低め」ることを危惧して非正規社員比率の高さを批判し、「貧困層を増やしていくことによって間接的に日本全体の生産性を低める」という観点から「正社員・非正社員の格差問題を批判する」ことは十分にありうるかと思います*5
ただし、今回のインタビュー記事では、矢野氏から前者に対する言及はまったくありませんし、また、後者についても、かつての矢野氏が厚生年金基金連合会専務理事としての立場から「物言う株主」として「労働者の生活保障より株主へのリターンを重視すべき」といった趣旨の主張を繰り返していた(と思うのですが)こととの整合性は取れていないと思います。

  • 為念申し上げておきますが、私はなにも非正規の現行の賃金水準がこれでいいとか、正規・非正規の格差は現状でかまわないとか、正社員の賃金は一切下げてはならないとか申し上げているわけではありません。これらの問題はさらに様々な論点から議論と検討が必要でしょう。私はここではあくまで矢野氏の所論、および矢野氏がそうした意見を述べることについて申し上げているだけです。


(追記)
hamachan先生も大竹先生のこのエントリを取り上げられ、「厚生年金基金は加入する労働者の年金資産運用を使命としているのだから、加入者の年金資産さえ確保されれば、加入者が現在職を失ったり賃金を切り下げられたりしてもかまわないというものではないだろう」という趣旨の(私の大雑把かつ下世話な翻訳で怪しいものなので、原文にぜひおあたりください)批判をしておられます。それはそれとして、hamachan先生はこんなことも書いておられます。

 で、実は、ここで改めて、矢野氏がすでに企業年金連合会を去って、日本コープ共済生活協同組合連合会理事長に就任しているという事実に気がつきます。さて、生活協同組合プリンシパルは誰なんでしょう。少なくとも、正規であれ、非正規であれ、労働者に限られる訳ではないことは確かです。しかしまた、いうまでもなく、株主主権の立場からものを言うことが許される立場ではないことも明らかなように思われます。
 もしかしたら、今回の「領空侵犯」の記事は、生協連理事長という新たな立場からの発言だったと解するべきなのかもしれません。だとすると、元のエントリーはかなりとんちんかんであった可能性がありますね。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1bc3.html

ははあ、なるほど。立場変われば言うこと変わるといいますし、矢野氏はかつての「労働者の生活保障より株主へのリターンを重視すべき」とのお考えから転向されたのかもしれません。であれば「まず隗より」で、コープ共済生活協同組合連合会傘下の各生協では多数の非正規を雇用しておられるかと思いますので、まずは各生協において「非正規労働者の待遇を上げるには、正社員の取り分を減らして分配率を変えるしかないでしょう」を「経営者が組合を説得してでも」実践してみせていただきたいものです。根幹に互助の精神を有する生協であれば、あるいは民間企業より容易であるかもしれません。

*1:直接的な経費削減というよりは、需要変動などに対するフレキシビリティを高めることを通じた経費削減効果が主だろうという考え方ではありますが。

*2:もちろん、これは非正規の賃金水準や正社員との格差が「適正」かどうか、ということとはまた別の問題です。為念。

*3:大竹先生が十分に実証されていないモデルを持ち出すとは思いませんが、それにしてもこのモデルがどれほど現実のわが国の経済社会に妥当し、どこまで個別企業経営に有用かについては、私は無知ゆえに懐疑的です。

*4:そもそも、株主が「正社員一人あたり所得の最大化を目的とする」企業より「株価最大化をする企業」を好むのは当然でしょう。というか、大半の株主は他のどんな企業より「株価最大化をする企業」を好むのではないでしょうか。

*5:もちろん、現状の格差が是正を要するものなのかどうか、要するとしたときに賃金水準の調整で行うのか公的な救貧給付によるのかその両方なのか、といった議論はまた別にあるわけですが。