春闘はじまる

そうこうしているうちに金属労協の要求が出そろっていよいよ始まったようです。今年は企業業績も概ね好調で、デフレ脱却に向けた政府からの賃上げ要請もあり、労組も意気上がっていることと思われます。この17日に掲載された日経新聞の特集記事「エコノ探偵団」をもとにポイントを探ってみたいと思います。

 「給料が少し上がったのに、生活は苦しいです」。探偵事務所を訪れた近所の会社員が頭を抱えた。「昨年は給料が増えても買い物する気になれませんでしたね。今年はどうかしら」と、興味を持った探偵、深津明日香は調査に出かけた。
 折しも2015年の春季労使交渉のまっただ中。明日香は、まず製造業などの労働組合で構成する金属労協を訪ねた。事務局次長の井上昌弘さん(46)は「年齢ごとの賃金カーブを保った上で、毎月の賃金を6千円以上増やすことを要求します」。そこへ流通・外食産業などの労組でつくるUAゼンセン書記長の松浦昭彦さん(53)が現れ「賃金テーブルを20年ぶりに3%、最低でも2%以上引き上げるよう求めます」。
 明日香は続いて日本経済団体連合会を訪ねた。上席主幹の新田秀司さん(44)は「デフレ脱却にむけ労使交渉では収益が拡大した企業中心に賃上げへの期待を感じます」。
 「それじゃ賃金テーブルが上がりますか」と明日香が目を輝かせると、新田さんは「それは賃上げの選択肢の一つにすぎません」と手を振った。
 「ほかにも方法が?」と明日香が聞くと、新田さんは「賃金テーブルを書き換えて賃金を上げるのはベースアップ(ベア)。ベアが無くても、勤続年数が伸びれば定期昇給によって給料が増えます」と説明。「収益好転分をボーナスで還元するのも、立派な賃上げですよ」と、強調した。
 明日香は再び金属労協に向かった。井上さんは「収益をボーナスに反映すればいいという考えこそデフレ時代のものだ」と言う。外に出るとUAゼンセンの松浦さんが立っていて「物価が上がれば月給を増やし、従業員の生活を守るのが経営者の責任だ。消費者物価は14年度、前年度比3%近く上がりそうです」。
 明日香が新田さんに電話すると「昨年は消費増税の影響が大きく、その影響を除いた物価を基に考えるべきです」と反論された。「所定内給与を100円上げるとボーナスなどに波及して総額人件費は166円も増え、収益が悪化しても下げるのが難しくなります」(新田さん)
 そこへ、早稲田大教授の黒田祥子さんが現れた。「景気変動に合わせてボーナスで賃金を調整する方法は昔からとられていました。ただ1990年代後半からのデフレ下、毎月の所定内給与にも調整の波が及びました」
 明日香は統計を調べた。毎月の所定内給与の上昇率は、90年代まで物価上昇率よりおおむね高かったが、2000年代は物価下落時を除けば物価に負ける時期が目立った。
平成27年2月17日付日本経済新聞朝刊から、以下同じ)

さて今年の賃上げ要請に向けては政府としても内閣府に「経済の好循環実現検討専門チーム」を設置して理論武装に励んでおり(ちなみにこの専門チームは内閣府の「経済社会構造に関する有識者会議」の下に置かれた「日本経済の実態と政策の在り方に関するワーキング・グループ」の下に置かれていてなんか一度や二度では覚えきれない感じです)、その中間報告(http://www5.cao.go.jp/keizai2/keizai-syakai/k-s-kouzou/shiryou/houkoku/houkoku.pdf)では今年はいかに賃上げが可能かつ必要かが論じられています(中間報告となっていますが、ありがちなパターンとしておそらく最終報告は出ないでしょう)。
ただこの中間報告は、まあ結論ありきなので致し方ないのだろうとは思いますが賃金デフレの側面が強調されすぎているところに不満があり、もちろん賃金の影響もあったとは思うのですが為替レートの影響がまったくと言っていいほど顧みられていないのは問題ではないかと思います。
つまり1985年のプラザ合意を境に、消費者物価(生鮮品除く)は1984年2.1%・1985年2.0%から1986年0.8%・1987年0.3%・1988年0.4% とゼロ%台に落ち込んでおり、これがバブル景気で1989年には2.4%になったわけです。まあ1980年代後半の状況をデフレと言うかというとそうではないでしょうが、しかし円高が国内物価を押し下げていたことは明らかではないかと思います。
これは企業の雇用に対するスタンスにも影響しており、1985年に16.4%だった非正規雇用比率は1990年には20.2%まで上昇しました。この背景には円高が進む中で国内空洞化は不可避との企業の判断があったことは明らかでしょう(なお当時はまだ非正規雇用がそれほど問題という意識がなかったことも増加の一因かもしれません)。そしてバブル崩壊後には、円高による主に輸出産業の操業度低下と業績悪化が雇用と賃金(特に賞与)を痛めつけたことも申し上げるまでもないでしょう。
さてその後は1997年の山一・拓銀の破綻などがあって日本経済は深刻な低迷に突入し、この頃から主に非正規雇用比率の上昇により(労働生産性は上昇したにもかかわらず)賃金は物価下落以上に低下したことは中間報告も指摘するとおりです(上記日経記事にもあります)。ただこれはバブル崩壊前後の1990年代前半に労働生産性の上昇をかなり上回る賃金上昇があったことの調整という面もあり、また日本企業の場合は所定外賃金と賞与に相当の弾力性があってここが縮小したことや、所定内については2000年代後半に比較的賃金の高かった団塊世代が多数定年に達し、退職または大幅な賃金低下をともなう再雇用へと移行したことの影響もあるはずです(どの程度あるのかは不明ですが)。
結局のところこの時期は労働生産性の向上の相当部分は雇用の安定に投入されたというのが私の感覚です。たしかに中間報告が指摘するとおり企業はこの間かなり大幅に財務を改善しており、これはとにかく業績不振でも資金ショートしないようにという防衛的な動きだったわけですが、労働者サイドから見れば倒産=失業のリスクを減らすためのものであることも間違いなかったわけです(なおこうした発想が既存正社員の保護を優先するために非正規雇用の増加を要請したという議論は別途あります)。たしかにこうした行動が「合成の誤謬」(これは連合も例年主張していますが)となったという評価もありうると思いますが、しかしこうした個別企業労使の懸念はその後リーマンショックという形で現実化したわけであり、この時期に財務体質を改善せず・賃金を上げていたとしたら、現実に起きた程度のダメージではとうてい乗り切れなかっただろうという想定は自然ではないかと思います。
なお株主への配当ガーという声もありますが、しかしこの間の株価の推移をみても株主がおおいに潤っているとはなかなか申し上げられず、この時期株主によるガバナンスが強まっていて「株主利益のためには経営者は解雇も辞すべきではない」という主張も声高になされていたことを思い出すとまあ(正社員の、ですが)雇用を守るという面では日本企業は総じてよく頑張ったんじゃないかなあ。
さて経緯の振り返りは以上として、現状をみれば円高は相当に修正されていますし、これは中間報告が分析していますがこれまで高位にあった労働分配率が現状では長期トレンドレベルにまで下がってきているとのことで、まあ調整分を織り込む必要はあるだろうとは思いますが一応賃上げも現実的な状況にはなっているといえるのでしょう。そこでポイントになるのが日経の記事にもある二点、つまりベアかボーナスかという点と、消費増税による物価上昇をどう考えるかという点になります。ということで記事の続きを見てみましょう。

 今年はどうなるか知りたくなり、明日香は第一生命経済研究所主席エコノミストの新家義貴さん(39)を訪ねた。「春季交渉賃上げ率は昨年の2・19%より高く2・4%程度。ベアも昨年の0・4%を上回る0・6%にはなるとみています」(新家さん)
 「でも、物価が給料より上がるのなら生活は楽にならないわ」と明日香がつぶやくと、新家さんはほほ笑んだ。「今年は消費増税がない上、原油価格が下落し、物価は昨年ほど上がりません。給料の伸びの方が高まりそうです」
 新家さんは「今年の給料が物価より上がるか、つまり実質賃金が増えるかは、経済が良い循環に乗るかどうかの重要なカギです」。昨年は給料の額は増えたものの、消費増税や物価上昇で実質では目減りしたため、消費が大きく落ち込んだ。実質賃金が上がり、給料が増えることを人々が実感できれば買い物の量を増やすことができる。すると消費が企業収益を押し上げ、さらなる賃上げにつながる。
 明日香は大和総研に向かった。執行役員でチーフエコノミストの熊谷亮丸さん(49)は「同じ2%の賃上げでも、ボーナス増額では消費押し上げ効果は7千億円にとどまりますが、残業代を含む毎月の定期給与が増えれば5兆3千億円の効果です」と試算する。ボーナス増額は一時的かもしれない。毎月の給料が上がってこそ家電購入など生活水準の引き上げにつながり、経済全体が押し上げられる。
 熊谷さんは「2000年代に実質賃金が減ったのは、企業が収益分配を怠ったからではありません」。規制緩和が進まず企業の国際競争力が落ち、収益を稼ぐ効率もあまり向上しなかったためだとみる。安定した賃上げには収益が今後も成長するという自信が必要。「カギは安倍政権が大胆な規制改革を進められるか。今年が正念場です」
 「そう。企業が効率よく稼げるか、社員1人が1時間働いた際に生み出される収益で実質賃金が決まります」と、声をかけてきたのは慶応大教授の山本勲さん(44)だ。「効率が同じなら実質賃金を保つため、物価上昇分が賃上げの目安になります」
 明日香のスマホにUAゼンセンの松浦さんからメールが来た。「人手不足は賃上げを求める追い風です」。明日香は理由を大阪大教授の佐々木勝さん(45)に電話で聞いた。「賃金を決める基本は需要と供給です」。人材獲得競争が雇用市場全体の実質賃金引き上げにつながるという。
 事務所では、所長が「人手が足りない」と嘆き節。明日香が「給料が上がりますか」と聞くと、所長は「収益が伸びないことには賃上げの原資がないよ」と、ため息。

新家氏のベア予想は失礼ながら当たるも八卦という感はありますが、どうでしょうか少々弱気でしょうか。ただ弱気には理由があり、それはここでも過去何度も書いてきましたが賞与であれば変動費にできるのに対してベアは固定費になってしまうという大きな違いがあるからです。ちなみに配当も(まあ安定配当などという言葉も最近とんと耳にしませんし)基本的に変動費なので企業としても増やしやすいという面はあるでしょう。
したがって業績がよくても一過性のものであると思えば経営者としてはなかなかベアには踏み切れないということになります。記事にもありますが、企業内においては技術革新や生産性向上が今後も継続的に収益に貢献するものであること、そして企業外においては良好な経営環境が継続することにある程度の確信が持てることが必要でしょう。つまり、たとえば記事にもある原油価格については現状前提ではなくある程度のレンジの中で変動しても利益が確保できるかどうかが重要になりますし、政策的にも、たとえばまた急激な円高にならないような金融・財政政策が取られるだろうという信頼が政府や中央銀行になければベアには踏み切れないということになります。ありていに申し上げれば民主党政権みたいなアンチビジネス政策が繰り出されている間は金輪際ベアなんて無理だということですね。
ということなので、企業内については経営者が判断することですが、後者については主として政府の問題であり、したがって政府としても法人税を国際水準に近づけるとかいった施策を検討しているということでしょう。
物価についても過去書いていますが悩ましいところで、まあ経団連事務局としてはそう言うだろうなとは思いますが、とはいえデフレ脱却とか個人消費増とかいったマクロ経済との関係を考えれば消費増税の影響分も無視できないというか、考慮に入れる必要はあるでしょう。加えて(ことによると物価以上に)重要なのは、記事にはありませんが(そして上記中間報告でもほとんど触れられていませんが)社会保険料負担が上昇しているという問題で、企業負担分の上昇も結局は労働条件に一定程度影響してくると思われますので、これも考慮に入れる必要があるはずです。少なくともこれは労使で一致して社会保障改革を求めるくらいのことは取り組むべきでしょう。
さて「人手不足は賃上げを求める追い風です」「賃金を決める基本は需要と供給です」というのはもちろんそのとおりで、かつては有効求人倍率春季労使交渉の賃上げ率には明らかに相関がみられました。ただこれは非正規雇用比率が高くなかった時期の話で、現在のように非正規比率が上がった中ではまずは人手不足は非正規雇用の賃金の上昇に効いてくると思われますし、実際にそうなっているという話も多々聞きます。さらに非正規の時給を上げても人手が確保できないということで、非正規から正規への転換や、正社員の新規募集も出てきているというのも随所で見られます。既存正社員の賃上げにまで効いてくるのはそのあとということになりそうで、さて今年はどこまで効いてくるか。案外今後の動向によってけっこう左右されるかもしれません。
ということで、今次春季労使交渉ではおそらくは昨年を上回るベアが実現しそうですし、賞与については(まあ業種や企業にもよるでしょうが)一段の上積みが期待されるところです。とはいえ、デフレ脱却、経済好循環実現には賃金が上がるだけではなく、それが消費増に結び付くことが必要であることは言うまでもありません。
これは結局のところ労使ともに同様の図式なのであり、記事中にもありますが一過性のボーナスでは消費はあまり増えず、永続的なベアのほうが消費増に結び付く効果が大きいというのは、まあ以前から言われていることではあります(とはいえ記事にあるほど効果の差が大きいというのはやや実感に合わないところはありますが)。
そして、その背景にある動機も労使とも同様であると思われ、つまるところ家計としても将来に向けて雇用や収入・労働条件が安定的に推移し、なろうことなら少しずつでも改善していくという見通しが持てれば、個人消費も増えていくでしょうし、今はよくても将来は不安だ、ということになると、どうしたって倹約→貯蓄に走るのも致し方のないところでしょう。そういう意味でも、国民の将来の安心につながる社会保障改革が急務といえそうです。
心配なのは、個別の家計にとっては「他のみなさんにおカネをどんどん使ってもらって、自分だけは倹約します」というのが最善の選択になってしまう危険性があることで、多数の家計がこれを選択してしまうとまさに「合成の誤謬」的な状況に陥り、デフレ脱却も好循環実現も画餅に終わりかねません。
どの程度のものかともかく(もちろんできるだけ大きなものが期待されるわけですが)、おそらくは春季労使交渉では昨年以上の賃上げが実現するでしょう。となると、次はそれが消費にどれだけ結び付くのかという新しいステージに入ることになりそうです。そこで、家計が安心しておカネを使えるような状況をいかにつくっていくのか、これまた政労使、特に政、そして労の役割が期待されるところです。政労使会議も、使に賃上げさせたらそれでよしではなく、労にいかにそれを消費してもらうところまでやって初めてその意義があったと言えるのではないでしょうか。
なお最後の所長さんのご見解ですが、人手が足りなくて収益が伸びないなら新規雇用の一手でしょう。うんしかしエコノ探偵というのもなかなかの専門職かもしれないから職種ミスマッチがあるのかな?