ユニオンショップの功罪

もう一つ読者の方から燃料投下、というかご質問をいただきました。大内伸哉先生がブログでユニオン・ショップ制について疑義を呈したのに対し、hamachan先生こと濱口桂一郎先生がやはりブログで反論しておられ、これについての私の見解をご質問いただきました。いやこの方からはたいへん丁重な文面でお訊ねいただきまして、他の方々にもできればこのようにお願いできないものかと(笑)。
さて議論をおさらいしておきますと、まず大内先生が中村圭介先生の『壁を壊す』を読まれての感想として、こう書かれました。

…本書で面白かったのは,労働組合じたいが,労働組合の価値がよくわかっておらず,そのため非正社員オルグのための説得もなかなか成功しないという例があったことです。私がユニオン・ショップ反対論を唱えているのは,まさにこういうことが起こってしまうからなのです。労働組合というのは,藤田若雄先生の言葉でいう誓約集団としての労働組合でなければやっていけないのです。日本型の労働組合の代表性の危機が顕在化してきた今日,労働組合の存在意義を組合員自身がもう一度考えてみる必要があります。
ところが,このユニオン・ショップが,どうも本書では,肯定的なものと位置づけられています。私はユニオン・ショップの組織強制を批判して無効論を唱えているのですが・・・。ユニオン・ショップは,組合員と従業員としての地位が一致するということです。会社が非正社員に対しても,ユニオン・ショップを受け入れたということの意味は,非正社員でも組合員扱いにするということです。たしかに組合運動の成果として,非正社員の一定の組織化が成功し,その結果として会社がユニオン・ショップ協定を結ぶということであれば問題ないのかもしれません。とはいえ,今後のことを考えると,新たに入ってくる非正社員(一定の勤続要件などがあることもあります)は自動的に組合員となるということで,結局,何だかわからないけれど組合員になっていたという例が増えることにならないでしょうか。これでは組織化した意味がなくなってしまいます。
http://souchi.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-8f14.html

それに対してhamachan先生はこう異論を唱えられました。

 大内先生によっては、労働組合は何よりも自立した個人による誓約集団なのですね。
 荒野に呼ばわる預言者のごとく、「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることは辞さないが、力尽くさずして退くことは拒否する」その姿は、我ら世俗の民にはあまりにも神々しく、とても真似はできないな、と思ってしまいます。
 「孤立を恐れて連帯に踏み出せず、誰かが旗を掲げてくれればその下に馳せ参じることは辞さないが、自分が先頭に立って立ち向かうことは怖いからやだな」という、向こう三軒両隣にちらちらするフツーの労働者にとって、労働組合は誓約集団でなければならない、というキリスト者藤田若雄の精神は敷居が高すぎるのではないでしょうか。
 わたしは、そういう自分と同じようにどうしようもなく心の弱い人々こそが、労働組合によって守られなければならない、と思うがゆえに、大内先生はじめ心の強い人々が批判するユニオンショップが数少ない救いの糸になるのだと思うのです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-10e2.html

どちらかといえば自由主義の大内先生が藤田若雄先生を参照され、社民主義のhamachan先生がそれを批判するという図式が面白いといえば面白いですね。
さて、大内先生は具体的に「労働組合じたいが,労働組合の価値がよくわかっていない」「何だかわからないけれど組合員になっていたという例がふえ、これでは組織化した意味がなくなる」と述べられていますが、私はこれはおそらく労働組合とは組合員の参画こそがパワーの源泉であって、参画しない組合員が増えるのは無意味との考え方ではないかと思います。これには私もほぼ全面的に同感しますし、hamachan先生も全面反対はされないはずです。
にもかかわらず、現実にはユニオンショップが定着する中で、まさに自動的に組合員になって参画意識が乏しく「組合(執行部)は組合員が支払う組合費に見合ったサービスを提供すべきだ」といった議論が横行しているのが実態です。これをサルトルのいう組織集団、あるいは制度集団ととらえるならば、たしかに労働組合は誓約集団であるべきとの考え方になるのかもしれません*1
そう考えると、大内先生としては労働組合が活動性を持つためにはユニオンショップで無自覚に組合員になるのは好ましくなく、労組によるオルグと組合員本人の意志による加入を通じて、組合員が規約に賛同し活動に参加するという主体性を持つ必要があるとの結論になるのでしょう。したがってhamachan先生が言われるような「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることは辞さないが、力尽くさずして退くことは拒否する」といった、テニスコートの誓いのような高度の自立と主体性までは求めてはいないのではないかと思われます*2
その論法からすれば、hamachan先生のいわれる「誰かが旗を掲げてくれればその下に馳せ参じることは辞さないが、自分が先頭に立って立ち向かうことは怖いからやだな」という限定的な主体性を持つ人に対しても、ショップ制によるのではなく、労組のオルグによっても組織化は可能であるとも言えるでしょう*3。ショップ制が救済すべきなのはさらに主体性の低い、「労組に入ってもいいとは思うけれど、会社はいやがるかなあ」といったような人たちになるのかもしれません。そういう人たちをすくい上げていくことも大切なことのように思われますので、その点ユニオンショップは有意義ですが、たしかに大内先生ご懸念のように「労組なんか入りたくない、組合活動に参加する気もないけれど、ショップ制だから仕方ない」という人まで入り込んでくることの弊害は覚悟する必要があります。
逆に、ユニオンショップが誓約集団とまったく相容れないかというとそうでもないような気もするわけで、誓約集団は誓約を守らない、誓約に応じない人を排除するという純化と粛清と不可分ですから、誓約を守らない組合員を労働組合からの除名という形で粛清すれば、ユニオンショップによって自動的にその組合員は退職することとなり、企業内の純化も同時に達成されるという機能を持つことになるわけです。大内先生も藤田先生も産別労組を主張されていますが、クローズドショップはさらに強力な純化の装置になりそうに思えます。
そこで私の意見ですが、いずれにしてもユニオンショップは労組自らが要求し、交渉し、協約として実現してきたものだということは案外重要なのではないかと思います。特に同一企業内に複数労組が並立し、組織力が分散して交渉力が低下することを回避するには非常に有効な方法だったといえるでしょう。ショップ制には単に組合費を払う人を増やす以上の意味があるわけです。
hamachan先生が指摘されるように、労働組合が全組合員対等な誓約集団であることは現実には難しく、純化による規模の縮小は組織力の低下に直結するでしょう。いっぽうで集団が大規模化するほどに組織集団化、制度集団化も不可避なわけで、組合員の参画意識の維持が重要という誓約集団的な理念は極力維持しつつ、幅広い人たちを包含していくことが現実的には望ましいのではないでしょうか。労働組合自身、とりわけ執行部は大内先生が指摘されるようなユニオンショップの弊害を十分に自覚し、「何だかわからないけれど組合員になっていた」という人たちの参加・参画意識を高めていくことに取り組むことが望まれるということではないかと思います。なんだか凡庸で歯切れの悪い結論ではありますが、実務の現場ではこう考えるのが現実的なように思います。まあ労組の人からしてみれば余計なお世話というか、また異なる意見もあるのかもしれませんが。

*1:もっとも、大内先生は「藤田若雄先生の言葉でいう誓約集団としての労働組合」と書かれていますので、これはサルトルのいうそれとはまた異なるのかもしれません。ただ、周知のとおり藤田先生は住友鉱業労組の執行委員長から東大社研に転じられ、明確に企業別労組に否定的な産別労組論者でしたから、まず大きくは外れていないだろうとは思うのですが。

*2:もっとも、博覧強記のhamachan先生の記述ですし、上石神井には藤田若雄著作集も収蔵されているでしょうから、おそらく藤田先生がこうしたことを述べられたことはあったのでしょうが。

*3:もちろんここではリーダー・フォロワーの関係が明確なのですでに誓約集団ではないということになるのでしょうが。