おまえがいうかおまえが

今朝の日経新聞の「領空侵犯」という連載インタビュー記事で、日本コープ共済生活協同組合連合会理事長の矢野朝水氏が非正規労働問題について論じています。現状の肩書きよりは、前厚生年金基金連合会専務理事、元厚生省年金局長という経歴のほうが通りがいいでしょう。

 ――大企業が非正規労働者を相次ぎ削減し、社会問題になっています。非正規問題について提言をお持ちだとか。
 「非正社員になるのは本人の努力不足と言う人もいますが、私は構造的な問題だと思います。グローバル競争の時代に入り、人件費の安い国の企業を相手に勝ち抜くにはコスト抑制しかありません。非正規雇用は企業が生き残るための選択です。でも、日本の場合、正社員と非正社員の格差があまりに大きいことが問題です。今回の不況もまず非正社員にしわ寄せがいきました。生活が不安定で賃金も安く結婚できない人を放置すれば次世代は生まれず、治安など社会のリスクも増します」
 「非正規労働者の待遇を上げるには、正社員の取り分を減らして分配率を変えるしかないでしょう。正社員と非正社員の格差が縮まれば、非正社員を正社員にする道も開けてきます。この問題には社会全体で取り組むべきです。経営者はもちろん、労働組合にも責任があります。賃金格差をどう解決するか。高度成長期のようにパイが増えれば増加分を非正社員に回せますが、パイが限られている現在、そうはいきません」
 ――組合が賛成するでしょうか。
 「難しいでしょうね。組合の大半は正社員で構成しています。既得権は手放したくない。非正社員の待遇改善も要求してはいますが、本気で取り組んでいるとは思えません。しかし、正社員もいつ非正規になるかわからない。『貧しきを憂えず、等しからざるを憂う』という言葉がありますが、よく考えてほしい」
 ――企業もすすんで手を打つとは考えられません。
 「以前の経営者は社会全体を考える視野がありました。社会保険料の企業負担にしても労働力の再生産という形でいずれは資本の側にもプラスになるととらえていました。変わったのは十年くらい前です。今は自分の会社のことばかり考え、一円でも負担が増えるのは嫌だと主張します」
 「厳しい競争にさらされているのはわかりますが、企業も社会の一員です。雇用形態により結婚できない若者が増えては困るでしょう。時には経営者が組合を説得してでも平等化を進めるべきです」
 ――政府の取り組みは不十分ですか。
 「政府は、派遣社員を正社員にした派遣先企業に最大百万円を支給するなどと言っていますが、効果があるとは思えません。最低賃金の引き上げや教育訓練も意味がないわけではありませんが、焼け石に水でしょう。政府にやれることは限られています」
 連合はこの数年、春季交渉で非正社員の処遇改善を要求してきているが、単組の取り組みはいまひとつだ。ミスターガバナンスと言われた矢野氏は、経営者にも組合にも厳しい注文をつけた。ただ、賃金の平等が実現しても有期契約による雇用の不安定さは残る。これをどうするかも大きな問題だろう。
【もうひと言】安定雇用を増やすには、規制でなく新しい産業を興すことが必要。

まあ、「領空侵犯」なので妙なことを言っているのも面白さのうちなのでしょうが、ちょっとどうなのかな、という感があります。
矢野氏というとやはり厚生年金基金連合会専務理事時代の「物言う株主」としての活動が印象に残っているわけですが、それは「年金財政を長期的に安定させていくためには、企業の持続的な発展と株主価値の向上が不可欠であり、それには株主の発言が必要」という理屈の上に立っていたものでしょう。これはもちろん投資家としての年金基金という立場が念頭におかれているのでしょうが、それ以前の問題として、現役世代がより多く稼得し、より多くの保険料(掛金)を負担することも重要でしょうから、矢野氏が厚生年金に加入していないことも多く、また加入していても保険料納付が不安定な非正規社員の待遇改善、雇用安定を主張するのはまずはもっともな話です。
ただ、「グローバル競争の時代に入り、人件費の安い国の企業を相手に勝ち抜くにはコスト抑制しかありません。非正規雇用は企業が生き残るための選択です。」と言うのはちょっと…。このブログでも繰り返し書いていますが、非正規雇用は単なるコスト抑制ではなく、景気や需要の変動が避けられない中で、長期的に育成し能力発揮を期待する正社員の雇用を極力確保しつつ、適正人員を維持することが最大の目的ではないかと思います(もちろん、それは結果的にはコストダウンにつながっていくわけですが)。つまり、継続的に企業の競争力向上、ひいては株主価値の増大に結びつく人材を常時育成・確保していくためには、一定割合の非正規社員を有することが必要不可欠なわけです。まあ、いずれにしても矢野氏は非正規社員の必要性は認めているようなので、これはこれだけの話です。
「日本の場合、正社員と非正社員の格差があまりに大きいことが問題」ということですが、矢野氏にしても仕事も役割も働き方も異なる正規と非正規の格差をなくせと言っているわけではないでしょう。とはいえ、一口に「あまりに大きい」とは言っても、なにをもって適正な格差とするかはそれほど簡単な問題ではありません。長期的に育成し、その能力発揮を競争力向上や株主価値増大に結び付けていくことが期待される正社員は、当然ながらそれに見合って労働条件も高く、また長期勤続奨励的なものとなっているでしょう。いっぽう、状況に応じて雇い止めがありうる非正規については、やはり正社員に較べると期待される役割は小さく、労働条件も相応のものとなり、また労働市場の需給の影響を受けるでしょう(もちろん、高度な技術やノウハウを売り物に高い報酬を得るフリーランスのプロフェッショナルや派遣社員も一定数いますが)。このとき、正社員は労使協議により賃金制度を定め、その水準は毎年団体交渉で決定し、非正規については基本的に労働市場の需給と世間相場で決まってくる、その結果が現状であるわけで(もちろん例外は多々ありましょうが)、一応の根拠は持っているわけです。それを「あまりに大きい」と言い切るにはそれなりの根拠は必要なはずです。世間では単なる水準比較や生計費との関係で「あまりに大きい」と言う短絡的な議論が間々見られますが、矢野氏はなにか根拠をお持ちなのでしょうか?
矢野氏は労組に対して「非正社員の待遇改善も要求してはいますが、本気で取り組んでいるとは思えません。」と批判的ですが、たしかに労組が「正社員もいつ非正規になるかわからない」という考え方のもとに互助的な発想で非正規の待遇改善に取り組むということは十分ありうるでしょう。それを「やれ」というのは労組にとっては余計なお世話でしょうが。それはそれとして、ここで「『貧しきを憂えず、等しからざるを憂う』という言葉がありますが、よく考えてほしい」というのはなにをよく考えるのでしょうか?これは「論語」にある有名なフレーズですが、前後をみると「有国有家者、不患寡而患不均、不患貧而患不安」となっています。為政者の心得として、貧しくてもかまわない、平等で安定していれば国は治まる、と説いたものです。これに対して、池田勇人元首相が「等しからざるを憂えず、貧しきを憂う」を標榜して経済拡大・所得倍増路線を推進したのも有名な話です。【もうひと言】にある「安定雇用を増やすには、規制でなく新しい産業を興すことが必要。」には私も賛成なのですが、それはやはり新産業の振興、経済の拡大発展、雇用の増加、とりわけ良質な雇用機会の増加というプロセスを追求するものでしょう。そうしてこそ非正社員が正社員になるチャンスも増えるというもので、賃金水準が近づいたところでフレキシビリティの違いがある以上非正社員が正社員になりやすくなるかといえば、全くなくはないかもしれませんがおよそ大したことはないものと思われます。そこで、「規制でなく新しい産業を興すことが必要」路線と「不患寡而患不均」とがどう整合するのか、これはたしかに「よく考えて」みなければわかりそうもありません、というか考えてもわからないのですが。
「以前の経営者は社会全体を考える視野がありました。社会保険料の企業負担にしても労働力の再生産という形でいずれは資本の側にもプラスになるととらえていました。変わったのは十年くらい前です。今は自分の会社のことばかり考え、一円でも負担が増えるのは嫌だと主張します」「厳しい競争にさらされているのはわかりますが、企業も社会の一員です。雇用形態により結婚できない若者が増えては困るでしょう。時には経営者が組合を説得してでも平等化を進めるべきです」というのは、似たようなことを言う人も多いようですが、それにしてもあなたがそれをいいますかあなたが。かつては「物言う株主」として「経営者は自社の株主価値向上に専念せよ」といったようなことをしきりに言っておられたと思うのですが…まあ、立場と環境が変わって悔い改めたのでしょうか。それはそれで歓迎すべきことでしょうが、どうせなら厚生年金基金連合会専務理事時代に「物言う株主」として「経営者が組合を説得してでも平等化を進めるべきです」と言ってほしかったものです。
それから、厚生年金基金連合会専務理事ですから社会保険料は喜んで払ってもらわないといけないという立場はよくわかりますが、健康保険が労働力の再生産に役立つというのはまあわかるような気がしますが、老齢年金を中心とする厚生年金の保険料が「労働力の再生産という形でいずれは資本の側にもプラスになる」ってのはどういう理屈なんでしょうか。遠い将来に年金を受け取れるということが、マルクス経済学の一般的な用語・意味での「労働力の再生産」を促進するとは思えないのですが…。まあ、「いずれは」と言っておられるので、一般的な意味ではなく、老後の安定が確保されるとより多くの子どもを持ち育てるだろう、というくらいの意味なのかもしれませんが、今も昔もそういう理屈で経営者が社会保険料をプラスにとらえていたとはあまり思えません(最近なら少子化対策との関係でひょっとしたらそういうことを考える経営者も出てきているかもしれませんが)。老後の安定が確保されれば労働者は安心して働くことができ、生産性が向上する、という理屈はよくありますし、わかりやすいものなのですが。
記者のコメントの「ミスターガバナンスと言われた矢野氏は、経営者にも組合にも厳しい注文をつけた。」というのもなかなかの傑作です。そうか、矢野氏というのは要するに厳しい注文をつければなんでもいいわけなのか。まあ、そういう人にもマスコミからは一定のニーズはあるようですが。

(追記)驚いたことに、というか驚くほどのことではないのかもしれませんが、hamachan先生も先生の著名なブログの本日のエントリでこのインタビュー記事を取り上げておられます。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-83d0.html
 なんとタイトルもほとんど同じ「おまえが言うか!おまえが!」。ただ、内容のほうはかなり違っていますので、読み比べてみると面白いかも?そうでもないか。