先祖がえり

昨日(6月12日)の日経新聞の連載コラム「中外時評」に同紙論説副委員長の水野裕司氏が登場され、「正社員改革こそ本道 「一億総活躍」めざすなら」と題して所論を展開しておられますのでご紹介したいと思います。「中外時評」は毎週日曜日に論説委員の持ち回りでそれぞれに自説を述べるという趣旨のようですが、水野氏は4月にも「正社員改革」を訴えておられます。なかなかの熱意が窺われるわけですが、どうも不思議な感じのするご所論でもあります。

…長時間の残業や休日出勤の根底には正社員の働き方がある。日本の正社員は会社に長期の雇用保障をしてもらう代わり、職務の範囲が限定されず、このため構造的に仕事が増えがちになる。
 非正規社員の処遇改善も、壁になるのは正社員という雇用のあり方だ。一億総活躍プランは仕事が同じなら正規、非正規を問わず賃金を同じにする「同一労働同一賃金」の実現をめざすとした。だが正社員は職務内容が一定しない。正社員と非正規社員が「同一労働」と認められるケースはどこまであるだろうか。
 正社員の働き方の見直しは企業の実行力にかかっている。政策でできることには限界もある。安倍晋三首相は「非正規という言葉を日本国内から一掃する」と言い切ったが、そう意気込むなら一億総活躍プランで正社員改革の重要性を強調すべきだった。
 世界のなかで日本の正社員は特異な存在だ。雇用契約は一般に欧米もアジアも具体的に職務を決めて結ぶが、日本はそうではない。時間外労働や休日労働は世界の大半の国が厳しく規制している。これに対し、日本は労使協定(三六協定)によって事実上、労働時間を際限なく延ばせる。…労使協調のもと、日本企業は労働時間や賃金を柔軟に調節することで景気変動に対応してきた。高度成長期に定着したこの仕組みがいまも根を張るのは、経営者にとって使い勝手が良いためだ。
 改革の方向ははっきりしている。会社と個々の社員とが、職務や労働時間などを明確にして雇用契約を結ぶようにすることだ。政府の規制改革会議は2013年、仕事内容や労働時間などを限った「限定正社員」の普及を打ち出している。
 幹部社員などの雇用契約については先進諸国も職務を明示しない例があり、日本も従来型の正社員がなくなるとは考えにくい。要は正社員の多様化を進めるということだ。
…1人あたりの付加価値を示す労働生産性は、日本生産性本部によると日本は14年に7万2994ドル。経済協力開発機構OECD)に加盟する34カ国中、21位と低迷している。長期の雇用保障による固定費負担の重さが生産性向上を妨げている。
 技術革新が激しく社員の身につけた技能の陳腐化が早いため、長期雇用の利点は以前より薄れている。グローバル化で増えている高度外国人材の採用では雇用期間や職務を定めた契約が当たり前だ。
…正社員改革を促す政策として解雇ルールの見直しがあるが、企業の背中を押す役割を最も期待できるのは株式市場だ。米欧企業は資本効率を示す自己資本利益率(ROE)がおおむね10%台なのに対し、日本企業は一桁にとどまる。投資家が企業に圧力をかける余地は大きい。
 市場原理がさらに働けば企業の正社員改革は本格的に動き出すだろう。社外取締役の充実など企業統治の強化が「一億総活躍」にもつながる。
平成28年6月12日付日本経済新聞「中外時評」から、以下同じ)

いやいいこともたくさん言っておられると思うのですよ。思うのですが、要するに何を言いたいのさというのがいまひとつ腑に落ちないのですね。
たとえばまず、

 長時間の残業や休日出勤の根底には正社員の働き方がある。日本の正社員は会社に長期の雇用保障をしてもらう代わり、職務の範囲が限定されず、このため構造的に仕事が増えがちになる。

まあそれはそのとおりであり、時間外労働の増減で雇用調整するために平常時でも一定時間の残業等を前提に要員計画するというのは確かにあると思います。職務の範囲が無限定だから自分の仕事が終わっても他人の仕事を手伝わなければならないというのもそうでしょう(ただしこれは手伝ってもらう人の時間外労働を減らすわけですが)。もっとも、これが長時間労働にどの程度寄与しているのかは別問題で、こうした必要を超えて仕事が多すぎる(要員が少なすぎる)というのもあるのではないでしょうか。公務員とかIT関連技術者とかの長時間労働はそちらのほうが大きいような気がします。まあいずれにしてもここを読むかぎり一億総活躍のために長時間労働を抑制したいという話のように読めます。
続く、

 非正規社員の処遇改善も、壁になるのは正社員という雇用のあり方だ。一億総活躍プランは仕事が同じなら正規、非正規を問わず賃金を同じにする「同一労働同一賃金」の実現をめざすとした。だが正社員は職務内容が一定しない。正社員と非正規社員が「同一労働」と認められるケースはどこまであるだろうか。
…一億総活躍プランで正社員改革の重要性を強調すべきだった。

もちろん非正規社員の処遇改善も大切な課題であり、しかし同一労働同一賃金という理屈だと「正社員と非正規社員が「同一労働」と認められる」余地は乏しいというのは重要な指摘です。ただ、それがなぜ正社員改革に結び付くのかはいまひとつ定かではありません。正社員の働き方が変わっても、正社員の賃金が変動することこそあれ、非正規社員の賃金がそれで直接変動することはなさそうに思えるからです。いやまあそれで正社員の賃金が下がればそれを原資に非正規の賃上げができるとか、正社員の働き方が非正規社員と同じになってなお正社員の賃金が高ければ同一労働同一賃金非正規社員の賃金が上がるとか、そういう話なのかもしれませんが、それだと要するに正社員の賃下げをやれという話になるわけですが…。

 世界のなかで日本の正社員は特異な存在だ。雇用契約は一般に欧米もアジアも具体的に職務を決めて結ぶが、日本はそうではない。

これもやや疑問を覚えるところで、ご自身も後のほうで「幹部社員などの雇用契約については先進諸国も職務を明示しない例があり」と書いておられるとおり、別に正社員が特異というわけではありません。日本の特殊性があるとすれば、その範囲が非常に広く、また徹底しているということでしょう。
ですから、

 改革の方向ははっきりしている。会社と個々の社員とが、職務や労働時間などを明確にして雇用契約を結ぶようにすることだ。政府の規制改革会議は2013年、仕事内容や労働時間などを限った「限定正社員」の普及を打ち出している。…要は正社員の多様化を進めるということだ。

これはまったくそのとおりで、そのうえで問題になるのはどれほどの人が限定正社員を選択するのか、女性に固定されることはないのかといったことであり、また、もし(本人の意思とは別に)従来型の正社員を少数に限定しようとするのなら、その選択をどのように行うのか、ということであるわけです(これはこのブログでもさんざん書いた)。
でまあ「正社員の働き方の見直しは企業の実行力にかかっている」という一方でそれは「経営者にとって使い勝手が良い」と言っているわけで、使い勝手がいいものを企業に見直させるための外圧として…

…米欧企業は資本効率を示す自己資本利益率(ROE)がおおむね10%台なのに対し、日本企業は一桁にとどまる。投資家が企業に圧力をかける余地は大きい。
 市場原理がさらに働けば企業の正社員改革は本格的に動き出すだろう。社外取締役の充実など企業統治の強化が「一億総活躍」にもつながる。

投資家の圧力に期待しているわけです。なんだ、投資家の利益のために企業(経営者)は賃下げも首切りも断行せよという昔懐かしい路線に先祖がえりしてるじゃん。そういう失業を増やす路線が「一億総活躍」につながるのかどうかはかなり疑問のような気はしますが。
そもそも、前段では「長時間の残業や休日出勤」を担ぎ出しておきながら、後段では「1人あたりの付加価値を示す労働生産性」を持ち出すというのが不自然な話で、時短論者は「一人あたり生産性ではなく時間あたり生産性で評価せよ」と主張するわけですよ。一人あたり生産性は長時間労働になるほど上昇する(もちろん限界上昇率は逓減するでしょうが)わけですから。
非正規雇用の処遇改善も同じことで、投資家に奉仕しROEを高めるために非正規雇用の処遇を上げるのだというのは、理屈のつけようはいくつかありますが、しかしまあやはりかなり疑わしい議論ではありましょう。
ということで、どうやら本音は投資家の利益のために正社員の解雇規制緩和や雇用の多様化による賃下げをやりたいということのように私には思われ、まあ長時間労働の是正も非正規雇用の処遇改善もそれを正当化するための方便みたいだよねえと激しく邪推する私。だいぶ以前からこうした論調はあまり見かけなくなっていただけにちょっと意外でした。やれやれ。