連合の見解と反論(3)

経労委報告に対する連合見解を続けて見ていきたいと思います。ここからは「2.具体的な見解」という部分に入るのですが、どうも露骨な表現や揚げ足取りが多くなってきて辟易します。連合が経団連に対して憤慨するのはわかりますし、抗議のメッセージを強く伝えたいというのもよくわかるのですが、それにしてもここまで悪しざまに罵倒するばかりでは、身内では気持ちよく読めるにしても、外部に対する説得力がないと思うのですが。書き手によるのかもしれませんが、連合の文書というのはそれなりに冷静なものからこうした口汚くののしるだけのものまでバラツキが多いように感じます。感情的な罵倒からは建設的な議論は生まれないと思うのですが。余計なお世話でしょうかね。

(1)労働分配率の低下について
 「報告」では、相変わらずの賃金抑制論が展開され、横並びの賃上げを否定し全体として賃金抑制をはかろうとする意図が透けて見える。また、「労働分配率が景気拡大局面で低下するのは当然である。」としており、歪んだ分配構造の是正をする気が感じられない。
 しかし、景気回復の期間が5年も6年も経っても分配率が上がらないといった現状について、景気循環論だけでは説明がつくものではない。また、昨年と同様、「労働分配率は歴史的にみても国際的にみても高い水準にある」などと事実を歪曲し、都合のいい主張をしている(賃金は、名目、実質ともに低下しているし、日本経団連の賃金の国際比較は、データの取り方が不適当だ)。「生産性三原則」はどこへ行ってしまったのだろうか。企業は賃金抑制の経営姿勢をいつまでつづけるのか。労働者のがんばりにきちんと応えることからはじめるべきだ。

景気拡大が長期化すると人手不足のために労働条件が上がり、それが企業業績を悪化させて減速過程に入る、というのは景気循環のひとつのメカニズムとして認知されているので、「景気回復の期間が5年も6年も経っても分配率が上がらない」のはおかしい、というのは一理あるかもしれません。ただ、それだけをもって「景気循環論だけでは説明がつくものではない」というのはおかしいでしょう。連合としては、景気循環以外に使用者サイドの邪悪な意思がある、とでもいいたいのでしょうが…。
また、「「労働分配率は歴史的にみても国際的にみても高い水準にある」などと事実を歪曲し、都合のいい主張をしている(賃金は、名目、実質ともに低下しているし、日本経団連の賃金の国際比較は、データの取り方が不適当だ)。」というのも、データの取り方が不適当かどうかは別として、一般的な労働分配率の定義でみてみると、わが国の現在の「労働分配率は歴史的にみても国際的にみても高い水準にある」というのは事実そのものであり、「事実を歪曲」してはいません。「賃金は、名目、実質ともに低下している」というのも事実でしょうが、それは労働分配率を低下させる一因にはなるとしても、だから「労働分配率は歴史的にみても国際的にみても高い水準にある」が「事実を歪曲」しているという根拠にはまったくなりません。
前にも書きましたが、労働分配率が低下しているから賃金を上げるべきだ、という理屈はそろそろギブアップしたほうがいいのではないでしょうか。「賃金は、名目、実質ともに低下している」、だから「労働者のがんばりにきちんと応える」という意味でも、そろそろ上がってもいいのではないか、というほうがよほどわかりやすいと思うのですが。

(2)内需拡大について
 「報告」には、内需型産業であるサービス業や中小企業が低迷・下落している現状に対し、サービス業、中小企業に対しては生産性向上のための「自主的・自立的な経営努力」が必要としている。しかし、取引先からの単価切り下げや取引停止などに直面している中小企業も多いというのは、連合の調査結果からも明らかであり、企業間の取引関係などにおける公正さを求めていくことが重要である。公正取引の実現なくして、中小企業の収益改善は困難である。とくに方針もださず、今までと同じスタンスで臨むというのではサービス業、中小企業の回復など到底できない。また、「我が国の安定した成長を確保していくには、企業と家計を両輪として」としながらも「報告」は、積極的な賃金改善によって消費を拡大させることが重要だとする意識が欠如している。これでは、個人消費の伸びによる景気拡大も、内需主導も到底望めない。

中小企業の収益が改善されるのが「公正取引」だ、と言われてもちょっと…。中小企業が単価切り下げや取引停止に直面して苦慮していることは事実でしょうが、つまるところそれはより安価で良質な商品やサービスを求める消費者の要請にこたえるためではないかと思うのですが。

(3)同一価値労働・同一賃金について
 「報告」は「日本経団連は同一価値労働・同一賃金の考え方に異を唱える立場ではないことを明確にしておきたい」としている。この言明が本気ならば大いに歓迎できる。しかし、「報告」はこれに続けて「同一価値労働とは、将来にわたる期待の要素も考慮して、企業に同一の付加価値をもたらす労働である」としている。期待の要素が付加価値になるとは、世界のどこにも通用しない議論である。「報告」自体、「開かれた賃金制度の整備」の項で、「仕事・役割・貢献度を基軸とした賃金制度」を持ち上げ、そういう制度を構築することで「誰に対しても公平にチャレンジできる機会が開かれる」としている。企業の一方的な期待をも価値とみなすことは、「報告」が自ら言う「公平なチャレンジ機会」を奪うものである。なお、「報告」では、処遇に差があっても「熟練度・職能レベル」「責任や見込まれる役割」「就業時間帯や配置転換の有無」に違いがあれば「合理的」であるとしている。であれば、それらに違いがなければ同一時間の労働に対して同一の処遇をただちに実現してもらいたい。
 また、職種別同一賃金論についても、「報告」は「立地や時期が違えば、労働需給も異なる。したがって、事業所や企業の枠を越えて同一職種の労働に対し同一の処遇を求めることは合理的な根拠を欠く」としている。もっともである。しかし、それならば「立地や時期が同じであれば、事業所や企業の枠を越えて同一職種の労働に対し同一の処遇」を実現すべきである。なお、「報告」は企業の生産性の差にも言及している。しかし、生産性に差があれば原材料の購入価格が異なるのか。労働力の購入価格である賃金・処遇についてだけ、企業の生産性による差を持ち出すことは認められない。
 さらに、パートタイム労働者を全てフルタイムの長期雇用にするのは無理とし、「賃金制度を仕事・役割・貢献度を基軸としたものに変えていく」としているなど、「報告」は『「正規」と「非正規」との間の壁』を非正規労働者の方へと合わせるよう、自分たちに都合のよい主張しているに過ぎない。
 実際には、賃金水準の低位平準化を実現するための主張と考えられる。

「期待の要素が付加価値になるとは、世界のどこにも通用しない議論である。」とか「企業の一方的な期待をも価値とみなすことは、「報告」が自ら言う「公平なチャレンジ機会」を奪うものである。」とかいう主張については、1月9日のエントリでも書きましたが、長期的な付加価値と処遇との均衡という観点からはこうなる、ということで、たしかに国際的にみて珍しいかもしれませんが、だから悪いということでもないでしょう。というか、日本企業の労使が長年にわたって練り上げてきたしくみを連合が簡単に否定してしまっていいものなのかどうか。否定するという意思決定をしたのかもしれませんが。
また、「「報告」では、処遇に差があっても「熟練度・職能レベル」「責任や見込まれる役割」「就業時間帯や配置転換の有無」に違いがあれば「合理的」であるとしている。であれば、それらに違いがなければ同一時間の労働に対して同一の処遇をただちに実現してもらいたい。」というのは、これはひどい揚げ足取りですが、経団連とすれば、さきほどの期待の要素もふくめて、同一時間の労働に対して同一の処遇をすでに実現している(しようと努力している)という回答にしかならないでしょう。
それから、「職種別同一賃金論についても、「報告」は「立地や時期が違えば、労働需給も異なる。したがって、事業所や企業の枠を越えて同一職種の労働に対し同一の処遇を求めることは合理的な根拠を欠く」としている。もっともである。しかし、それならば「立地や時期が同じであれば、事業所や企業の枠を越えて同一職種の労働に対し同一の処遇」を実現すべきである。」というのもひどい揚げ足取りで、事業所や企業が独自に出す求人について内容を同一にすることなどできるはずがありません。それができるとしたらまさに団体交渉によるのであって、この理屈はむしろ労組の怠慢を認めてしまっていると言われかねません。で、それをやらないのなら、外部労働市場市場メカニズムで徐々に同一の処遇に収斂していくということになるのでしょう。
あと、「「報告」は企業の生産性の差にも言及している。しかし、生産性に差があれば原材料の購入価格が異なるのか。労働力の購入価格である賃金・処遇についてだけ、企業の生産性による差を持ち出すことは認められない。」というのは、前にも書きましたが、労働者の企業業績への企業をどう評価し、反映するかという哲学の問題でしょう。私は労働者の業績への貢献を積極的に認め、労働力の持つ、組織的にチームワークなどで生産性を高めうるという側面を賃金に反映すべきと考えますが、連合は労働者は原材料と同じで業績には貢献しないと考えるなら、こういう揚げ足取りを続けるのもいいでしょう。そうした考え方は、「労働者のがんばりにきちんと応える」べきだ、という主張とはかなりへだたりがあるように私には思えますが。
残りは明日にします。