斎藤環「「負けた」教の信者たち」

社会的ひきこもりに精力的に取り組む精神分析医として著名な著者の本。「ニート・ひきこもり社会論」という副題がついてみますが、「中央公論」に連載されたエッセイをまとめたものということで、内容的には書名や副題よりかなりの拡がりを持っています。精神分析医の本だけに、ラカンガタリなどの「ポストモダン」の文脈がたびたび顔を出して、私のようなかつての(稲葉先生風にいうなれば)ヘタレニューアカフリークを喜ばせてくれます(笑)。

なにかと興味深い所論が満載の本ですが、ひとつ紹介します。

…まず確実に指摘できることは、私たちはどうしようもなく「弱者」が好きであるという事実だ。…「弱者」を前にしたとき、私たちはとたんに冷静さを失い、言わずもがなのお節介まで口走る。
…最近最も「人気」を集めた「弱者」が、イラク人人質事件の三人であったと言えば、意外に思われるだろうか。しかし、精神分析的に言うならば、「バッシング」の欲望もまた「愛」なのである。彼らを一度でも叩いた人々は、彼らの存在を前に冷静でいられなくなるほど、あの三人が好きだったのだ。…
…とりわけ「自己責任」論の濫用ぶりに、こうした傾向が如実にあらわれた。…このように愛の対象との遠近法を誤ることを、精神分析は「倒錯」と呼ぶ。そう、一連のバッシングこそは、私たち倒錯者の姿を映し出す鏡にほかならなかった。
 これと同じような風景を、私は「いじめ」の現場でしばしば見てきた。いじめの加害者は、自らのいじめ行為の正当性を確信しているときに、最も残虐性を発揮する。このとき「正当性」を強化してくれるのは、ときには教師ですらうっかり口にする「いじめられる側の責任」という言葉だ。そう、この言葉こそは、今回濫用された「自己責任」と同様に、私たちの倒錯した愛を正当なものに偽装してくれる。

なるほど、なるほど、なーるほど。思わず声に出してうならされてしまいましたな。


この斎藤氏の所論を私なりに拡張すれば、このバッシングの「正当性」を与えたのは、「自己責任」論以上に、「『強者』である家族のあまりにも極端な自己中心ぶり」だったのではないかと思いました(考えてみれば、「自己責任」論はバッシングの手段であったように思われます)。
「どうしようもなく『弱者』が好き」というのは、「『強者』がきらい」ということと対になるように思われます。人質の家族は、自ら捕われているわけではなく、しかし周囲にはほぼどうにもできない「家族が捕われている」という「強み」を持っているわけですから、これはこのうえない「強者」であるとも考えられます(もちろん、家族が捕われたことはお気の毒だとは思いますが、これはそういう議論ではありません)。すくなくとも、公共の施設を提供され、「首相に会いたい」と主張すれば公共の電波で全国に伝えてもらえるほどの強者ではあったわけです。このような「強者」が傍若無人な自己中心ぶりを発揮したことが、「どうしようもなく好きな弱者」をバッシングすることに格好の「正当性」を付与したのではないでしょうか。ということは、これは「人質に対する倒錯した愛」であったと同時に、「きらいな強者」に対する間接的な(倒錯していない)バッシングでもあったのかもしれません。
まあ、精神分析の専門家からみればトンチンカンな素人の的外れなタワゴトでしょうが、私はそんな感想を持ちました。