対話が難しいその2:hamachan先生のご指導

9月29日のエントリについて、hamachan先生から懇切なご指導をいただきました。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-aa5b.html
耳塚先生のコラムに対する私の読み方に誤解がある、ということのようです。
まず、耳塚先生のコラムの引用をご紹介しましょう。

 人々の社会的成功と失敗の個人責任化が進む中で、高学歴高所得層は、ただでその地位を子供に世襲させようとしているのではない。将来を見据えて選択し、代価を払い、親子とも努力という代償をいとわない。合理的かつ正当な手段で学力・学歴獲得競争に勝負を挑む。
 彼らが主張するだろう主観的正当性にあらがい、その選択権を奪って、実質的な機会均等社会に転換させることは可能だろうか。この隘路から逃れ出る道はあるのか。我が身、我が子の行く末のみならず、私たちと子供たちが住むこの社会の行く末を見据えること。その想像力に期待するほかない。
(平成20年9月29日付日本経済新聞朝刊から、http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20080929

続いて、hamachan先生のご指摘をご紹介します。

これを、労務屋さんはこう理解します。

>耳塚氏は、「高学歴高所得層」が「代価を払い、親子とも努力という代償を」払って(他人より多く)「学力・学歴」を「獲得」しようとする「選択権を奪って、実質的な機会均等社会に転換させる」ことを主張します。

上の文章は、そういう単純な主張と読むべきなんでしょうか。「合理的かつ正当な手段」とはっきり書いていることからも分かるように、そして「この隘路から逃れ出る道はあるのか」と問うていることからも分かるように、そういう粗野な結果平等主義には正当性がないと認識しているが故に、しかしながらその正当性をそのまま是認してしまったら、実質的な機会均等が失われてしまうと、的確に認識しているが故に、この書き方になっているように、わたしには思われました。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-aa5b.html

前段はおっしゃるとおりで、私はこれを「平等を実現するために、上を引き下げる、あるいは上に行かせないことが必要だ」という見解(hamachan先生によれば「粗野な結果平等主義」)と受け取り、それに対する批判(現実的な具体策が見当たらない、進歩を阻害し全体のレベルを低下させる)を試みたのでした。ところが、この読み方自体が間違っていたというご指摘です。
なるほど、たしかに耳塚氏のコラムは「彼らが主張するだろう主観的正当性にあらがい、その選択権を奪って、実質的な機会均等社会に転換させることは可能だろうか。」と疑問文になっていて、(私がそう受け取ってしまったような)「転換させるべき」といった主張の形にはなっていません。

  • しかし、言い訳させていただければ、私のような平凡な日経新聞の一読者なら、これはそう主張していると受け止めるのが普通だと思うんですけどねぇ。そうでもないのでしょうか。

ただ、hamachan先生のご指導にしたがって、書かれざる行間を補ってみると、たしかにかなり異なる意味になってきます。

 彼らが主張するだろう主観的正当性にあらがい、その選択権を奪って、実質的な機会均等社会に転換させることは可能だろうか。いや、そのような、「合理的かつ正当な手段」まで否定する「粗野な結果平等主義には正当性がない」から不可能だ。この隘路から逃れ出る道はあるのか。それはあるかもしれない。我が身、我が子の行く末のみならず、私たちと子供たちが住むこの社会の行く末を見据えること。そうすれば、高学歴高所得層の負担によって、優れた才能を持ちながら家庭の経済的不足ゆえに素質に応じた教育を受けられない子どもに必要な奨学金を支給する制度を導入するといった「客観的正当性」のある施策の実現に理解が得られるかもしれない。その想像力に期待するほかない。


なるほど、なるほど、ナールホド。これなら、私もおおいに納得の行く議論です。というか、私の9月29日のエントリも、基本的にはこうした考え方で書かれているということは、虚心に読んでいただければご理解いただけるものと思います(まあ、書き方が下品なので難しいかもしれませんが)。

  • 率直なところ、私がまことにヒネた性格ゆえか、耳塚氏の「主観的正当性」という表現からは、私はどうしても氏の「代価を払い、親子とも努力という代償をいとわ」ずに「学力・学歴獲得競争に勝負を挑む」「高学歴高所得層」の親子への嫌悪の感情を感じてしまいます(邪推です)が、それは議論の理屈とは関係のない問題です。

ということで、私は自身の読解力の低さを率直に認めて自己批判し、耳塚氏には多大な無礼を深くお詫び申し上げ、hamachan先生にはご指導に感謝申し上げる次第であります。
ということで、9月29日のそれ以下の部分のうち、「さて、具体的にどうしようというのでしょうか。たとえば、私学を禁止し、ありとあらゆる教育を無料の公教育にすればいいのでしょうか。」から「その教育の成果は必ずしも100%個人に帰するわけではなく、たとえば技術の進歩とかいった形で、世間一般の人にも行き渡ることが期待できるわけですから。高額納税者のおかげで私たちは充実した公共サービスが受けられるというのが現実ですし、それが再分配というものでしょう。」までについては、耳塚氏の所論に対する批判ではなく、世間にある「高学歴高所得層が代価を払い、親子とも努力という代償を払って、他人より多く学力・学歴を獲得しようとするという選択権を奪って、実質的な機会均等社会に転換させるべきだ」という粗野な結果平等主義の主張一般(実際、こういう主張をする人もそれなりにいるのではないかと思うのですがどんなものでしょう)に対する批判ということで読めると思いますし、そのようにお読みいただければ幸いです(もちろん、耳塚氏についてコメントした部分は除いて、です)。
それに続く部分については、hamachan先生の次のご指摘のとおりと思います。ここは粗野な結果平等主義を現実に実現できると考えるためには、こうした「根拠のない信念」が必要だ、という趣旨で書いていますので、完全に耳塚氏に対する誤解に基づく議論になってしまっています。ああ恥ずかしい。

 少なくとも、耳塚氏は「思うに、耳塚氏は、いかなる子どもも、同じようにお金をかけて同じように教育すれば同じように伸びるはずだ(というか、そうあるべきである)、という根拠のない信念をお持ちなのではないでしょうか」というような粗野な発想はないのではないでしょうか。ただ、労務屋さんが言うような「経済的背景が厳しい子どもには、奨学金などの支援を充実させて、おカネもちの子どもに劣らぬ教育を受けられるようにすること」(それも近年縮小されていていますが)によって、貧しい家庭の優秀な子どもがその才能を十全に発揮できるだけの教育を受けられるようになると言えるかに対して、必ずしも然りとは言えないと考えているのではないかと思われるのです。その点については、わたしもやはり同様に感じます。
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後段については、hamachan先生もご指摘のとおり、私もわざわざ29日のエントリで奨学金に触れているわけでして、大筋で同感するところです。
あと、hamachan先生の最後のご指摘ですが、

 親の意思決定により能力があるにもかかわらず勉強できなかった子供がその故に社会的に低い地位に甘んじざるを得ないことを、自己決定に基づく自己責任と呼べるか?という問題に、日本人はもう少しまじめに向かい合った方がいいように思われます。業績主義原理は、「可哀想なはこの子でござい、親の因果が子に報い」を肯定するのか、否定するのか、という哲学的問題でもあります。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-aa5b.html

「もう少しまじめに向かい合った方がいい」とのご指導は私自身の問題として受け止めさせていただきます。現実には、「親の因果」は肯定/否定という二分法ではなく、その中間に拡がる領域のどこでバランスをとるのか、という問題になるのでしょう。これは時により人により意見の異なる難問だろうと思います(私にはおよそ手におえそうもないので、手を出さないでおきます)。