三位一体の労働市場改革

 さる5月16日に開催された第18回新しい資本主義実現会議で、「三位一体の労働市場改革の指針」が決定されました。以下になります。
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/pdf/roudousijou.pdf
 昨年10月に公表された「「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」の実施についての総合経済対策の重点事項」の中で「リスキリング、すなわち成長分野に移動するための学び直しへの支援策の整備や年功制の職能給から日本に合った職務給への移行など、企業間・産業間での労働移動円滑化に向けた指針を来年6月までに取りまとめる」としていたものですね。これに関しては当時連合の芳野会長から「リスキリングとは本来、社会環境や働き方の変化等により、新たな業務をこなす上で必要となる知識やスキルを習得するために行うものであり、成長分野に労働移動するためだけの手段では決してない。リスキリングと労働移動を直接的に結びつける記載を修正したうえで、労働者による自主的なリスキリングを推進すべきである」とのきわめてまっとうな指摘があり、今回の指針ではリスキリングと労働移動は一応切り離されて「リ・スキリングによる能力向上支援」「個々の企業の実態に応じた職務給の導入」「成長分野への労働移動の円滑化」を「三位一体で進める」とされました。これは三位「一体」だから切り離されていないという見方もできるわけで、リスキリングと労働移動を結び付けたい向きにも配慮した表現というところでしょうか。さて。
 注目すべき点をいくつか見ていきますと、まずはリスキリングについては「内部労働市場が活性化されてこそ、外部労働市場、すなわち労働市場全体も活性化する」との記載もあるように、「重点事項」と較べるとかなり内部労働市場にウェイトが置かれていることが挙げられます。これは実態にも即していて、このあと職務給のお手本として紹介される日立さんにしても富士通さんにしても社内研修などを通じたリスキリングを熱心に進められているわけですよ。NTTデータに至っては「リスキリング採用」と称して中途採用者に対して入社後にITなどの必要なスキルの研修を実施するといったことにも取り組んでいるくらいです。事業構造の転換に迫られる中、外部労働市場で確保できない人材は内部育成するというのはこれまでも日本企業が営々として取り組んできたことであり、むしろ得意技と言えるわけで、その人材育成力を活用しないという手はないということですね。これには働く人にとっても雇用と労働条件の安定が確保されるというメリットがあり、また経営理念の共有や社内の共通言語といったノウハウは引き続き活用できるという点では労使双方にメリットがあります。
 もちろんリスキリングを通じて労働移動するというのもそれはそれで結構な話であり(まあこの指針もそちらを増やしたいわけでしょうし)、労働者がそれを自発的に選択できることは選択肢の多様化という意味でも望ましいことだろうと思います。そもそも配置転換や労働移動につながらなくてもリスキリングはそれ自体好ましいものでしょうから、それを促すべく企業経由ではなく個人経由の学び直し支援を拡大しようとか、雇用調整助成金制度で教育訓練の助成率を上げようとかいう具体的施策はそれなりに考えられると思います。
 一方で「雇用保険教育訓練給付に関しては、高い賃金が獲得できる分野、高いエンプロイアビリティの向上が期待される分野(IT、データアナリティクス、プロジェクトマネジメント、技術研究、営業/マーケティング、経営・企画、観光・物流など)について、リ・スキリングのプログラムを受講する場合の補助率や補助上限について、拡充を検討することとし、具体的な制度設計を行う」「デジタル分野へのリ・スキリングを強化するため、専門実践教育訓練について、デジタル関係講座数(179講座(2023年4月時点))を、2025年度末までに300講座以上に拡大する。その際、生成AIなど、今後成長が期待され、今の時代に即した分野に関する講座の充実を図る」などと書かれているのは少し気になる点もあり、もちろんこれら職種・分野は現状人手不足であり、エンプロイヤビリティも高かろうかとは思うのですが、一方で転職サイトとかで検索してみるとITエンジニアの求人はたくさん見つかるのですがでは素晴らしく賃金が高いかというとそうとも言えない(例えばindeedhttps://jp.indeed.com/jobs?q=it%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%82%A2&l=&vjk=918d732136c9f25d)。経験20年の専門職で年収600万円とか800万円とか稼いでいた人が、いかに人手不足でエンプロイヤビリティが高いとはいえ半年やそこらのリスキリングで同じくらい稼げるとはちょっと思えないわけですよ。もちろん院卒でいきなり年収1,000万円とか受け取る人もいますがまあ少数であり、多数のニーズがあるのはそれなりのスキルレベルでそれなりの賃金水準の労働力なのではないかなあ。あまり単純にバラ色の絵を描くのはいかがなものかと。この先供給が増えてきたときに現状ほどの賃金水準が望めるのかという話も別途あると思う。
 さて「個々の企業の実態に応じた職務給の導入」については、日立、富士通資生堂の事例が紹介されているにとどまり、基本的には「今後年内に、職務給(ジョブ型人事)の日本企業の人材確保の上での目的、ジョブの整理・括り方、これらに基づく人材の配置・育成・評価方法、ポスティング制度、リ・スキリングの方法、従業員のパフォーマンス改善計画(PIP)、賃金制度、労働条件変更と現行法制・判例との関係、休暇制度などについて、事例を整理し、個々の企業が制度の導入を行うために参考となるよう、多様なモデルを示す」「民間企業実務者を中心とした分科会で取りまとめる」と、さらに半年の先送りとなっています。そもそも8か月程度の納期でまとめるというのが無理のある話であり、先送りも致し方のないところでしょう。
 ただまあ冒頭に「職務給の個々の企業の実態に合った導入等による構造的賃上げ」となっていたのは理解が難しいところで、いやこれまで私は日立さんにしても富士通さんにしても放っておくと構造的に(年功的に)賃金が上がってしまうのを止めるために職務給を導入されたのだと思っていたのですが、そうではなかったのかなあ。いやもちろん職務給で賃金が上がる人というのもいるだろうと思いますが(年功的に比較的賃金水準が抑制されている若年層とかはそうかも)、しかし職能給(現在の仕事で使われていない能力や経験にも賃金が支払われる)から職務給(現在の仕事に賃金が支払われる)になれば賃金は下がるというのが普通の理解なのではないかと思います。「ジョブディスクリプションに必要な能力が書かれている」んだからな。それにしても1994年に年俸制を導入し、1998年に賃金制度を成果主義型に全面改革した(パイオニアとしての貢献は高く評価しておりますので為念)富士通さんがいまだに「年功序列の人事制度を見直し」「職能ベースの報酬体系を見直し」などと言っておられるのを見るとこの問題がいかに困難なものかを痛感させられますね。
 リスキリングに関しても、職務給、ジョブ型になればそのジョブに必要なスキルが明らかになるので労働者が自主的にそのスキルを得るべくリスキリングに取り組む、という建て付けになっているわけですが、まあそれはそれであり得る考え方だろうとは思いますが、しかし従来の日本企業が普通にやってきたようなやり方、向いてそうな人をまずその仕事に人事異動させてしまって、さあこの仕事ができるようにリスキリングしなさい、というやり方とどちらがいいのかは一概には言えないんじゃないでしょうかね。富士通さんは両方やろうとしているようにも見える(邪推なので富士通の中の人は怒っていいです)。まあ両方やって悪いこともない、というか選択肢が増えていいことかもしれません。ただまあ特定ジョブを目指して一生懸命リスキリングしたところ希望者が殺到して公募に落選しました、という話は起きそうで、そうなると「合格しなかった社員には、どの点が足りなかったかを必ずフィードバック」という話ではすまないような気がします。「ジョブディスクリプションに書かれている能力」は足りていたのに、他にも足りている応募者がいてそれに負けたという話ですからね。「TOEIC900点以上」とジョブディスクリプションに書いているのだとしたら、950点の人がいたから930点のあなたはダメでしたという職能給的な説明は理屈の上では通らないのではないかと(そうでもないのかな。ここははなはだしく自信ありませんので間違っていたら自己批判して修正します。詳しい方ぜひご教示ください)。まあいずれにしてもリスキリングを推進するためにジョブ型・職務給が必須とまでは言えないんじゃないかとは思いました。
 三つめの「成長分野への労働移動の円滑化」ですが、成長産業への労働移動が大切だということは否定するつもりもないですし、とりあえず提示されている具体的施策、失業給付の待機期間の見直しや退職金税制の長期勤続優遇の見直しといったものはやればいいだろうと思います(ただし後者についてはその性格上変更時には慎重な配慮が必要という話は以前書いたhttps://roumuya.hatenablog.com/entry/2022/10/19/180719)。
 それに対して、またしても「デンマークなどにおけるフレキシキュリティの一環で行われている取組のように、官民で働く一定の要件を満たすキャリアコンサルタントが、職種・地域ごとに、キャリアアップを考える在職者や求職者に対して、転職やキャリアアップに関して客観的なデータに基づいた助言・コンサルを行うことが可能となる」とかいう話が持ち出されているのにはあ~あと思う。「ハローワークにおいて推薦する職種について、転職前後の賃金を捕捉・比較する方法を検討する。その上で、転職前後の賃金上昇可能性やその後の熟練度に応じた更なる上昇可能性まで考慮に入れた推薦が行われるよう、制度の運営改善を行う」というわけですが、まあ成長産業なんだから今は賃金が高くなくてもこれから成長すれば上がるでしょうという理屈はわからなくもないですがいかにも職能給的な発想だねえとも思う。加えて、成長産業というのは今現在は小規模ベンチャーであることも多いわけで(まあこれから成長するんだから当然だ)、したがって不確実性もまた高いわけですね。それをどのように考慮に入れて評価するのかというのも難しい課題でしょう。もちろん大企業が成長分野に進出というのもあるわけですがその場合まずは社内リソースの活用が優先されるだろうというのは前述のとおりです(採れるものなら外部から採りたいとも思っているでしょうから一定のチャンスはあるとは思いますが)。まあでもあれだな、当座は賃金は下がるだろうということを認識していると自白したところは進歩かも知らん。
 結局のところ、フレクシキュリティというのは転職前の賃金水準がほどほどだから成り立つのだろうと強く思うわけで、情弱なのでちょっと探した限りでは適当な資料が見当たらなかったのですが、たとえばこれhttps://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-11601000-Shokugyouanteikyoku-Soumuka/0000146681.pdf同一労働同一賃金検討会の資料だと思う)の67ページのグラフをみてもデンマークの賃金プロファイルはだいぶフラットですね。おそらくはこれも賃金が右肩上がりになる一部のエリートが平均を引き上げているものと思われ、大多数を占めるジョブ型で働いている人たちというのはジョブが変わらない限りは団体交渉で上がる分くらいしか上がらないのではないでしょうか(まあそれが職務給というものだ)。であればリスキリングをして成長産業(実は成長産業でなくても同じなんですが)に転身すれば賃金が上がる(転身先の職務給のほうが高い)可能性も十分あるでしょう。日本でも年収400~500万円程度の人であれば同じようにリスキリングで賃金が上がるチャンスは十分ありそうですが、では経験20年の専門職はどうかというとというのはさっき上のほうで書いたとおりです。
 つまり、これも何度も書いているとおりですが、本当にジョブ型とか職務給とかフレクシキュリティとかいうのを全面展開でやりたいのであれば、世の中の仕組みもそれに合わせて変えなければいけないわけですよ。たとえば教育費は保護者が負担するのが当然というのは日本型の年功賃金でそれなりの所得が確保できているから可能なのであり(でまあその前提が怪しくなっているから高校や幼児教育の無償化をやったわけでそれはそれで方向性としてはたいへんに適切ですが)、大方の国民は職務給でジョブが変わらないかぎり賃金も変わりませんという世の中にしたら、教育の平等を確保するためには高等教育も無償化するなりなんなりの手だてが必要になります(実際そうしている国は多々あり、デンマークも大学の学費は国民は事実上無償、のはず。ちなみに外国人留学生はしっかり学費を取られるようですが、まあ難民から財産を取り上げろという国だからな)。住宅ローンも組みにくくなるでしょうから労働者の住居を確保するために安価な公営住宅の大量供給といった政策も必要になるかもしれません(勤労者が持ち家して財形というのもほぼ無理になりますが致し方ない、のかな)。もちろんそれには別途相当の財源が必要なわけであり、「解雇がしやすくて再就職は国が面倒みてくれる」くらいのイメージでデンマークを羨ましがっている人というのも時々見かけますが、そのために必要なコストを負担するつもりはあるのかと問い詰めたくはなりますね(まあ何も考えていないのだと思うが)。賢明なる経団連が解雇の自由化とか軽々に言い出さないのは当然こうしたことを考慮に入れているわけですね。
 なお最後に国家公務員について四の五の書いてありますがいやこれそういう問題じゃないだろう。「高いスキルや専門性が求められる」国家公務員にまず必要なのは増員をともなう働き方改革であり、それに手を付けずに人事管理だけをいじっても何も変わらないんじゃないかなあ。「現在、座学が中心となっている研修を、例えば参加型の形式のものを増加させる」とか言っても、そもそもそんなことやっているヒマがないというのが実情ではないかと思うわけで(一方で一定の研修は制度的に行われるようになっている点は民間より優れているかもしれないとも思う)。hamachan先生がたびたび指摘しておられるように官僚の人事制度はそもそもジョブ型なので、ある意味本来の姿に戻すという話はあってもいいとは思いますが、しかし事の順序が違うんじゃないかと、そんなことを思いました。