玄田有史編『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』

「キャリアデザインマガジン」132号に掲載した書評を転載します。

               
人手不足が深刻化しており、これが経済成長の制約要因になることを懸念する意見も出はじめた。従来の一般的な理解としては、人手不足になれば賃金が上がり、労働供給に制約があっても省力化投資などが進むことから、経済成長を制約することはないと考えられてきた。ところが現実をみると、これだけ人手不足が叫ばれているにもかかわらず、経済全体でみると賃金、特に所定賃金の上昇はほとんどみられない。となると、労働供給不足が経済成長を制約するのではないかと心配になるのもわからない話ではない。

この本では、書名にある「人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか」、そして「賃金を上げることが今後可能だとすれば、いかにして実現できるのか」について、16組22人の専門家がそれぞれに考察している。

専門分野の違い・多様さを反映して、考察の切り口も多彩であり、各章はそれぞれに興味深い発見を含んでいる。それに加えて、編者はそれらを「需給」「行動」「制度」「規制」「正規」「能開(評者注:能力開発)」「年齢」の7つのポイントから整理し、総括として解題を与えている。各論考間の相互参照にも配慮が行き届いており、書籍全体として一体感のある、統一されたものとなっている。

本書の結論は総括に示されているが、私の個人的な理解を以下大雑把にまとめてみたい。まずこの間、経済全体では賃金は上がっていないが、個人のレベルで見れば相当多くの人の賃金は上がっている。正社員であればベアゼロであっても定昇はあるし、アベノミクス以降はベースアップも行われている。非正規についても最低賃金の引き上げが個人レベルの賃金を上げていることは確実だろう。では、なぜマクロでは賃金が上がっていないのか。主な論点としては大別して3点あるようだ。

第一は労働者の構成の変化に着目するものだ。年齢構成が均一であれば定昇を実施しても賃金原資の総額は変わらないからマクロでは賃金は上がらないというのは賃金実務の基礎だが、高齢化が進むわが国では賃金水準の高い高年齢者が多く、賃金の低い若年層が少ない。賃金の高い高年齢者が退職したり、再雇用で賃金水準が大幅に低下したりすれば、その効果が個別の賃上げの効果を上回って賃金の総額は減少することになる。高年齢者に限らず、やはり相対的に賃金水準の低い非正規雇用労働者の割合が上昇することでも、同様の現象が起こる。

第二は労働市場の構造に着目するもので、たとえば女性や高年齢者にはまだ供給余力があり、こうした潜在的な労働力は賃金水準の小さな上昇にも反応して就労するため賃金が上がりにくくなっているとか、行動経済学の知見から前職における賃金が参照点となり、それを少しでも上回れば効用が大きく上昇することから留保賃金が抑制される、したがって賃金が上がりにくいといったものだ。なるほど、足元の下がったとはいえ完全失業率は2%台後半であり、これは80年代後半の円高不況期の水準だ。その後のバブル景気の当時のそれは2.0%程度であり、人手不足とはいうものの供給余力がまったくないわけではなかろう。

第三は人事管理の側面からのアプローチで、賃金、特に月例賃金は不況期・業績悪化期でも下方硬直性が強く、いったん上げると引き下げることが難しいことから、先行き不透明な状況では引き上げに慎重にならざるを得ないという指摘だ。そのため、業績が好転してもベースアップではなく、比較的引き下げが容易な賞与の増額を実施する企業が多かったことや、経団連・旧日経連がこの間一貫して雇用の維持確保を賃金引き上げより優先し、「雇用確保のためにはベアゼロもやむなし」との姿勢を示していたことも指摘されている。

その他にも興味深く有意義な知見は多数あり、たとえば非正規雇用と若年失業の拡大いによる人材育成の停滞が賃金を抑制しているとの論点は第4のポイントとしてもいいくらいだし、介護労働など公定価格の業種では賃金を引き上げても価格転嫁できないため人手不足なのに賃金が上がらないとか、バス業界では規制緩和後の新規参入者が採算の良好な路線や貸切事業に集中してそこでの競争が激化し、社会的責任として低収益路線の運行を担っている既存業者は人手不足であっても賃金を上げられないとかいった個別の事例もきわめて面白い。良好な就職が困難だった就職氷河期世代の賃金が現時点でも前後世代に較べて劣ることが全体の水準を抑制しているとの指摘も興味深い。非正規雇用の増加が正社員の留保賃金を引き下げているという議論も、どこまで妥当するかどうか検討には値しよう。

このように非常に充実した内容を誇る本書ではあるが、今回も一つだけ例によってのないものねだりを書いておきたい。これだけの論者が、これだけの多彩な議論を展開しているにもかかわらず、集団的労使関係は相変わらず影が薄い。「いかにして賃上げを実現するか」を論じるのに、これはやや淋しいように思われる。たしかにこの間、労組、特に個別労組は「雇用確保されるならベアゼロもやむなし」という考え方を経営サイドと共有することも多く、いわば「共犯」関係であったとも言えなくもない。しかしその一方で、近年のベア復活期においては、やはり労組の存在は賃金の引き上げに資するものだったのではないだろうかとの思いはある。ブラックで鳴らしたワタミで今年創業以来初のベアが実現したのも、労組が結成されたこととおそらく無縁ではあるまい。こうしたポイントに踏み込んだ論考も読んでみたかった。

とはいえ、それは私のないものねだりであって、本書の価値をいささかも損ねるものではない。オビの惹句にもあるように、この問題は現下における「最大の謎」であり、その多様な考察を通じて「現代日本労働市場の構造を驚きと納得の視点から明らかに」することに成功していると思う。専門書なので必ずしも読みやすい本ではないが、しかし多くの人にとっては掛け値なしに「驚きと納得」を実感できる本であろう。