野田知彦『雇用保障の経済分析』

「キャリアデザインマガジン」第99号に掲載したエッセイを転載します。なんか偉そうだなあ。

雇用保障の経済分析―企業パネルデータによる労使関係

雇用保障の経済分析―企業パネルデータによる労使関係


 2001年、深刻な業績不振に陥った電機大手各社は、軒並み5桁オーダーの人員削減計画を打ち出した。続く2002年、鉄鋼労連電機連合春闘の統一ベア要求を見送った。この年は他産業の主要企業でもベアゼロ回答が相次ぎ、世に「ベアゼロ春闘」と呼ばれた。それ以降、2005年まで多くの産別がベア要求を見送った。この時期の日本経済は金融危機後の不況を克服し、多くの企業が過去最高益を更新していた時期であったにもかかわらず…である。それ以降も、ベアは復活したもののかつてに較べれば小額であり、2008年後半に急激な雇用調整が行われたことも周知のとおりだ。
 『労働組合は役に立っているのか』。雇用を守れない、ベアも獲得できないということで、労組の存在意義はあるのか、社会から厳しく問われている。とりわけ、わが国では過去の実証研究の成果から、労働組合が賃金を引き上げる効果は観察できないというのが定説になっているといってよい。であれば、労組はどのような役割を果たしているのか。
 著者は本書で「雇用保障」に着目する。労組は雇用保障にどのような効果を与えているのか。それを通じて生産性や新卒採用・人事管理にどのような影響を及ぼしているのか。本書ではこれらが計量経済学の手法によって広汎に分析される。
 発見は実り多い。労組の存在は黒字期には雇用調整速度を遅らせ、雇用の安定をもたらす。これは労使の信頼関係を強め、人的資本の蓄積を通じて企業の生産性を高める。いっぽう、赤字期、さらにはいわゆる「失われた10年」以降は赤字以前の経営悪化期には労組、とりわけ上部団体に加入している労組はむしろ雇用調整を速め、企業倒産を回避することで雇用保障をはかる。逆に、強い雇用保障は不況期における新卒採用の抑制、非正規雇用比率の上昇などをもたらしている。雇用保障や経営参加などを通じて、たしかに『労働組合は役にたっている』。
 これらの発見をもとに、著者は「人的資本の関係特殊性が強い場合には正社員の雇用保障を緩めることは慎重に」「非正規雇用の活用は必要だが、技能・能力を蓄積してキャリアを形成し、長期間勤続すれば賃金の上昇や雇用の安定が得られるシステムを構築すべき」と述べる。具体的には「正社員と非正規社員との中間の雇用形態を設ける」ことを提案し、制度設計には「非正規労働者も何らかの形で参加すべき」であり、「組合への組織化が求められる」としている。そして「労働組合が経営側にとって必要不可欠なパートナーとして認識され」るべきことを指摘している。
 本書は高度な計量分析が駆使された研究書であり、実務家が読みこなすにはたしかに困難がともなう。しかし、実務家にとっても大きな意義を有する本であることもまた間違いない。現状、企業の人事管理や労働法制についてさまざまな議論があるが、近年の労使関係や労働組合と雇用、生産性、労働市場などとの関係についてまとまった形で実証された業績はそれ自体貴重だが、それに加えて得られた結果が労使関係の現場にいる実務家の実感にもまことによく一致している。とりわけ、本書中でも言及されている生産性運動、雇用確保・労使協議・適正配分の三原則に基づく労使協調での生産性向上活動に取り組んできた企業労使にとってはなおさらだろう。もちろん、現状の問題点として指摘されている事項も、多くの実務家が共有するものに違いない。
 実際、著者の提言への取り組みもはじまりつつある。多くの労組において非正規労働者の組織化は自覚的に進められているし、その相当部分は経営の理解の上に行われているだろう。今回の雇用調整期に入る前には、非正規の正社員登用もかなりの規模に拡大していた。ただし、正社員と非正規の中間形態については、法制度上の制約があり進展しておらず、環境整備が望まれるところだ。いずれにしても、本書の分析は企業労使の向かっている方向と一致する結果を示してくれている。労使の実務家に自信を与えてくれる本といえるだろう。
 組織率が低下し、労組の存在感が弱まるにつれて、労組の分析に取り組む研究者も減少しているといわれる。しかし、産業・経済の複雑化や多様化が進む中にあって、労使自治、集団的労使関係への期待は国際的にも高まっているのではないか。こうした分野での研究が広く進むことと、著者にはその牽引車として貢献していただくことを期待したい。