最低賃金引き上げの是非

昨日、本日の2日にわたり、日経新聞の「経済教室」で表題の特集が組まれました。登場されたのは昨日が日本女子大の原ひろみ先生、本日が拓殖大学の佐藤一磨先生です。
原先生の見出しは「職場外訓練、明らかに減少、技能形成機会の格差拡大」というものです。まず最低賃金引き上げの雇用への影響については「日本でも川口大司・東大教授、森悠子・流通経済大准教授、山田憲・京大准教授らの研究で実証的に明らかにされている」と保留しつつ、しかし「人的資本投資を減らすのなら、将来にわたり負の影響が持続することになる」という問題提起をされています。
その上で、ご自身の調査結果として「最低賃金労働者が相対的に多い中高卒の女性労働者」については、最低賃金生活保護の整合性に配慮して決定するされた「改正最低賃金法成立以降(08年施行)、最低賃金の上昇率はそれ以前よりも平均的に上がり、かつ地域間で上昇率にばらつきが生じた。…改正法成立以前の06年と比べて成立後の09年に、最低賃金労働者のOff-JT受講者割合が…最低賃金上昇率の高い地域では…17ポイント、上昇率の低い地域では10ポイントそれぞれ低下した」「最低賃金が1円上昇すると、最低賃金労働者のOff-JT受講確率は統計的に有意に0.7ポイント低下する」との結果を紹介されています。さらにこれは条件をさまざまに変えてもロバストなものだったとの結果を紹介され、「最低賃金引き上げは最低賃金労働者の人的資本形成にマイナスの影響を与え、その影響は無視できない大きさ」「最低賃金引き上げには低スキル労働者と高スキル労働者のスキル形成機会の格差を拡大させる恐れがある」「最低賃金引き上げは慎重になされるべきだ。それでも引き上げるのなら、同時に格差拡大を防ぐための対策も必要」と結論づけておられます。
さて、私にはこれを読んでどうにもしっくりこない感があり、なにかというと最低賃金労働者に対するOff-JTというものがどうにもイメージしにくいということなのですね。元ネタ(http://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/15e075.pdf)にあたってみても具体的にどんなものだという言及はなく、この困惑は実務家であれば共有していただけると思います。最低賃金労働者に対して、業務命令で、職場を離れて、有給で研修を受けさせることがどれほどあるのでしょうか。そもそも、そこまで企業がコストをかけて人材育成するような労働者であれば、非正規であってもそれなりにリテンションを考えているはずであり、であれば最低賃金そこそこしか払わないということも考えにくいように思われます。
つまり、ここでの原先生の分析は最低賃金労働者ダイレクトではなく、それが比較的多数含まれるであろう中高卒女性労働者を対象としているので、Off-JTが実施されているのはもっぱら最低賃金を相当程度上回る賃金を受け取っている中高卒女性労働者ではないかというのが私の推測です(ウラ取りしていない推測なので違うという証拠を見せられれば恐れ入る準備はあります)。文中で「06年の中高卒女性労働者のOff-JT受講確率は34.7%だった」と紹介されていますが、この34.7%はかなりの程度賃金が高い方に偏っているのではないでしょうか。中高卒女性労働者の中にはたしかに最低賃金労働者も多いでしょうが一方でそれなりの割合で正社員が含まれているはずであり、また期間の定めなく長期にわたって就労しているパートタイマーといった人も含まれているでしょう。こうした人たちについては、たとえば貿易事務とかCADとかいったもののOff-JTを受講させる企業というのもあるだろうと思います。
もちろん、最賃を上げればこうした人たちがOff-JTを受けられる確率が低下するというのは人的資本形成上好ましくないことは間違いありませんし、トータル人件費の増加がそこにしわ寄せされるといったルートも容易に推定されるところではあります。ただ、「最低賃金引き上げは最低賃金労働者の人的資本形成にマイナスの影響を与え」ると言い切るためには賃金階層別とか正規/非正規別とかの分析がほしいようには思います。
さて本日の佐藤先生に移りますと、見出しは「離職増加・就業抑制招かず、労働移動の活発化支援を」となっています。やはりまず最低賃金の雇用に与える影響について「買い手独占市場や求職コストが大きい市場…交渉上の立場の弱い労働者の賃金は生産性以下に抑えられているため、最低賃金を上げても雇用の喪失を引き起こさない可能性もある。この場合、最低賃金引き上げは雇用を維持したまま賃金を上昇させるため、メリットは大きい。…こうした競争的ではない市場が日本で成立しているのかという点については、慶応義塾大学の大野由香子准教授と山本勲教授が…住んでいる場所の近くでしか就業できない…パートタイム労働者の賃金が低く抑えられることを明らかにした。…近年の欧米の研究では、競争的な市場であっても、…価格に転嫁され…たり、…機械化…を促進したりすることにより、雇用の喪失をもたらしていないという分析結果が増えている。以上の分析結果が示すように、最低賃金引き上げが労働市場に及ぼす影響は、正と負の両方の場合があり、先見的には明確ではない」としたうえで、わが国の実情に関するご自身による実証結果を紹介されています。
具体的には「05〜15年の慶応義塾家計パネル調査で…雇用に関する分析では、最低賃金の引き上げが離職、新規就業に及ぼす影響を検証した。その結果、最低賃金引き上げは非正規雇用で働く男女の離職行動に影響を及ぼしていないことがわかった。また、今まで仕事に就いていなかった男女の非正規雇用への就職を抑制する効果がないこともわかった」ということで、原先生と同様にこの結果がロバストなものであったことを紹介されています。
さらに「最低賃金引き上げが非正規雇用で働く男女の労働時間に及ぼす影響も検証した…結果、…影響を及ぼしていないことがわかった」こと、「賃金に関する分析では、…女性では最低賃金引き上げが非正規雇用の賃金水準を引き上げており、…正規雇用の女性の賃金に変化はみられなかった。…男性の場合、最低賃金引き上げが非正規雇用で働く低賃金層の労働者の賃金のみを引き上げていた」ことも紹介され、「最低賃金引き上げは賃金上昇を通じて労働者の就労条件を改善する一方、雇用喪失を引き起こしていないことがわかった。最低賃金をさらに引き上げることのメリットは大きいといえる」と結論づけられています。
一方で「最低賃金をさらに引き上げていく中で、雇用への悪影響が顕在化する可能性が残っている」ことを指摘され、その対策として中小企業の生産性向上策の拡充と労働移動の活発化の支援策、特に労働者の能力開発が必要だと提言されました。
こちらも若干の感想を書きますと佐藤先生が今後「悪影響が顕在化する可能性が残っている」とされたのはまことに妥当なように思われます。つまり買い手独占で賃金が生産性以下に抑えられているから雇用への悪影響がないのであれば、同じ理屈で最賃引き上げで賃金が生産性に応じた水準に達すれば悪影響が出てくるはずだからです。さらに、非正規についてはこの間リーマンショック後の一時期を除けば労働需要が旺盛で概ね人手不足基調にあり、もちろん分析ではその影響を除外してはいるとは思うのですが、しかし完全に取り除くことも難しいのではないだろうかと思うということもあります。
したがって、今後一定水準を超えて最賃を上げるのであれば労働者の生産性向上が必要であり、佐藤先生ご指摘のとおり能力開発が重要だということになるでしょう。これは非正規雇用労働者の賃金を上げる上でも非常に重要だということはかねてから指摘されているところではあります。それには勤続の長期化が効果的だということも繰り返し言われているところであり、そういう意味では労働契約法の5年上限というのはどうなのかということをまたぞろ書いて終わります。