雇用改革の視点by安藤至大先生

一昨日に続いて、もう1週間前の掲載になってしまいましたが、日経新聞「経済教室」の「雇用改革の視点」2回め、安藤至大先生の「労働時間に上限の設定を」をご紹介したいと思います。大内先生は解雇規制も論じておられましたが、安藤先生はもっぱら労働時間規制について書いておられます。

 政府は現在、労働時間規制の見直しを検討している。ホワイトカラーの労働者に対しては労働時間ではなく成果に基づく賃金が望ましい、時間に縛られない働き方を可能にすべきだ、といった賛成意見の一方で、見直し案を「残業代ゼロ法案」として批判する声や長時間労働による健康被害を誘発するとの意見もある。労働時間規制をどのように考えればよいのだろうか。
 現行規制は1日8時間、週40時間の法定労働時間を超える労働には労使協定(いわゆる三六協定)と割増賃金を必要とし、その2つを通じ、長時間労働を抑制しようとするものだ。この協定で可能となる時間外労働には月45時間、年360時間といった上限がある。しかし、特別な事情があるときには特別条項付きの協定を結ぶことで、さらに長時間の残業が可能となる。

 多くの企業で長時間労働が可能な協定が結ばれており、実際に長時間労働が行われ、過労による健康被害も減っていない実態がある。
 ではどうすればよいのか。割増賃金率の引き上げはあまり効果が期待できない。使用者に残業命令を抑制させる効果がある半面、労働者には受け入れさせる効果がある。必要なのは労基法を改正し、産業や職種別に、医学的に根拠のある数値により労働時間を直接的に規制することだ。例えば肉体的に負荷が高い仕事なら週60時間といったように上限を設定し、その限度内で、労使の合意によって労働条件を決めればよい。
 ただし多くの企業で長時間労働が可能な協定が実際に結ばれている現状を踏まえ、一定の労働時間を超える際には、労働組合が労働者の過半数を組織していることなどを条件とする必要があろう。企業別組合との交渉では、企業間競争に配慮して長時間労働を許容する可能性もあり、産業別組合との協議を条件とすることも有益かもしれない。
平成26年6月6日付日本経済新聞朝刊「経済教室」から、以下同じ)

最長労働時間規制については私も決して全否定するものではなく、すでに危険有害業務などには一定の上限が設けられているように、必要なものについては適切に設定されるべきものと思います。重要なのは、解雇の金銭解決と同様に、必要とされる保護の程度に応じてその水準が適切に設定されることでしょう。安藤先生の言われる「産業や職種別に、医学的に根拠のある数値」というのも一応はそうした意味だろうと思いますが、なかなか簡単ではないなとも思います。
つまり、「医学的に根拠のある」というわけですが、産業別・職種別に労働時間がこのくらい長くなったら健康被害のリスクはこのくらい、という(それなりに確からしい)医学的知見は十分なのか、素人的にはかなり心配です。もちろん労働環境・労働衛生の調査研究も積み重ねられていると思いますが、しかし労災認定の基準をつくったときには睡眠時間から逆算してかなり大雑把な設定が行われたことも事実です。もちろん労災認定の基準であればそれでかまわないという考え方はありうると思いますが、労働時間の上限規制となるとそれではまずいでしょう。、不十分な知見をもとにひたすら安全サイドの規制を行うことは、経済活動に対して不要な制約を大規模にかけることになりかねず、下手をすると労働者自身からも勘弁してくれという声が上がりかねません。いっぽうで、それではこの規制のために相当の時間とカネをかけてその種の調査をするのか、という議論もあるだろうと思います。
ということで、仮に上限規制を入れる場合には、相当程度に幅のある規制にして、その間で各労使が設定する、という形が考えられるように思います。たとえば、ある職種については上限を月間240時間から320時間とし(数字に意味はありません)、労使協定によってその間のどこかに設定できる、協定がない場合は下限の240時間を適用する、といった具合です。安藤先生が指摘されるように、過半数労組との労働協約を必要とする、という制度でもいいでしょう(というか、そのほうがいいと思う)。医学的根拠というのもなかなか容易でないとすれば、結局は対等性を担保したうえでそれぞれの企業・職務の実情・実態をよく承知している個別労使の判断に任せることが最適ではないかと思うわけです。もちろん、比較的身体的負担の重くないデスクワークについては労働時間に替えて休日の下限規制を設定できるようにすることも考えられます。
したがって、安藤先生は産別組織にというアイデアも提案されていますが、実情をよく知るという点では産別にはかなり不安が残ります。企業間競争に配慮とのことですが、長時間労働はともかく、単組もさすがに健康被害までは許容しないだろうと思います。
さてその続きですが、

 一部の労働者に仕事が偏ることを防止することも必要となる。上司の視点では、すでに多くの仕事を抱えている部下であっても、能力が高く期日までに必要な水準の仕事をこなせる人に仕事を頼みたいと思うのは自然なことだ。
 労働者の疲労は長期に蓄積していくのに対して、定期的な人事異動により一緒に働く期間は限られているとすると、健康状態に配慮した仕事の配分がなされなくなる可能性がある。そのため健康被害が起きたときには、過去の働かせ方に問題がなかったのかを調査して、一定の責任を問うことも必要となるだろう。

まあごもっともなご指摘ですし、多くのふつうの企業では実際に行われてもいることだろうと思います。むしろ一定期間で必ず人事異動が行われると予測できることのほうが問題で、一緒に働く期間は相当程度長くなる可能性もある、したがってそれなりに長い目で健康配慮なども必要だ、という人事管理をしていれば、こうした問題はかなり軽減されるだろうと思います。

 経済のグローバル化などを背景に「時間ではなく成果で評価される働き方」や「柔軟な働き方」を求める声がある。ホワイトカラーの場合、柔軟な働き方が必要となる職種があるのは確かだ。「新たな労働時間制度」の導入も検討に値する。しかし現行法制の下でも使用者側にできることは多い。成果に基づく報酬制度は実際に幅広く採用されているし、裁量労働制の活用や短時間勤務の導入も可能だ。

いやまあそうなんですが繰り返し書いているように裁量労働制には予見可能性が低いという大問題があります。この人は対象業務に該当するのかとか、どのくらいなら具体的な指示になるのかとかいったことが不透明で、常にリスクを抱えている不安があるわけです。年収のようなデジタルな外形的要件や本人合意、労使協定といった手続要件により疑問の余地なく判断できる制度が望まれるゆえんです。さらにまずいのは繰り返し書いているように管理監督職という安易な道に走っている企業も多いということで、そこの明確化のためにも新制度が望まれます。たしかにできることも多いでしょうが、しかし一段の改善は必須でしょう。
続く指摘は重要です。

 労働時間ではなく成果で賃金が決まる仕組みには注意が必要だ。努力しても成果が出るとは限らないという不確実性があるとき、過度な業績給の活用は、労使の最適なリスク分担の面で効率的ではない。一般的な労働者は所得が大きく変動することを嫌うため、業績変動のリスクを企業側が負担することのほうが効率的になりうる。そのため多くの場合は固定給と業績給(ボーナスや昇進による動機付け)が併用されている。
 また成果を測定しやすい営業職などを考えたとしても、成果主義をうまく運用するのは簡単ではない。例えば同程度の努力をしても担当地域によって成果に大きな違いが生まれる可能性があるとき、労働者が納得できるような仕組みづくりが求められる。
 いわゆる「マルチタスク問題」への配慮も必要だ。労働者が複数の仕事を担当する際、測定できる一部の指標に偏った業績給を用いると、評価されにくい取り組みがおろそかにされ、かえって企業業績にマイナスとなることも多い。このような経済学における契約理論の知見をもっと活用した議論をすべきだ。

これはおっしゃるとおりですし、正確に測定することが困難なものや、運不運に左右されやすいものに基づいて賃金や処遇を決める場合には、あまり大きな差をつけないほうが賢明だといった契約理論の知見は、実際に2000年前後の成果主義騒ぎの顛末から多くの企業が経験的に学んだことでもあるでしょう。

 残業代の割増賃金では同じ仕事を効率的に短時間で仕上げるよりも、残業したほうが所得が高くなる問題が指摘される。しかしこれは、規制というよりも上司のマネジメントの問題である。そもそも残業は使用者側が命令するもので、仕事がないのに勝手に会社に居残っても残業代は払われない。能力に見合った仕事の配分をした上で、サービス残業などを含めた労働時間を管理することが必要だ。
 もちろん現実には「明後日の会議までに資料を作るように」といった命令があり、労働者が自身の判断で残業し、上司が事後的に承認するといったこともある。しかしこれは、あくまで合理的な範囲の残業は労働者に裁量が認められているということだ。

これもまあ大筋ではそのとおりなのですが本音と建前がある部分で、確かに残業は使用者(具体的には上司)が事前に命じる、あるいは労働者が事前に上長に申請して許可を得ることで行われるというのが建前で、就業規則でそのような定めをおいている企業も多いと思います。とはいえ、現実には記載の例よりさらに包括的に業務指示が行われ、残業についても労働者の判断にゆだねられていることが大半ではないかと思います。多くの場合は、上司が建前どおりの運用をして、部下全員がいつどれだけ残業していてそれが合理的な範囲かどうかチェックするという面倒なマネジメントをするよりは、日々の管理は労働者の自己申告に任せて上司は他のもっと重要な業務に時間を振り向けたほうが効率的だという本音があるわけです。なおそれでも当然ながら部下の能力やパフォーマンスはそれなりに把握されているわけであり、「同じ仕事を効率的に短時間で仕上げる」人は「残業したほうが所得が高くなる」人より賞与や昇進昇格などで優遇されることでそれなりに落とし前がつけられるという寸法になっているわけです。
むしろ重要なのは「仕事がないのに勝手に会社に居残っても残業代は払われない」という部分で、上司としてはそこまでていねいに仕上げる必要は全然ないよと言っているものの、労働者としては自分の勉強やスキルアップのためにもバックグラウンドなどもしっかり調べましたというケースは残業代は支払われるのかどうかという話です。そこまでの裁量を持っているのであれば、それなりの水準の給与を支払ってその他働き過ぎにならないような手当をすればなにも「これは労働時間か否か」という不毛な議論をしてまで時間割で賃金を払わなくてもいいじゃないかというのが「新たな労働時間制度」ということになるわけです。

 労働市場には様々な種類の「市場の失敗」や「個人の失敗」があり、政府による適切な規制が必要となる。しかしそれは企業や労働者の自由な活動を過度に抑制するものであってはならないし、時代の変化に対応するためにも、理論とデータに基づく見直しが不可欠である。
 規制改革の順序も大事だ。労働分野では労働時間の把握と上限の設定による保護を優先し、労働者が安心して働ける土壌を築くことが望ましい。雇用形態の多様化などの必要な改革は、その上で実施するほうが受け入れられやすく、結局は近道になるはずだ。

なぜここで労働時間の把握が出てくるのかがはなはだ不可解で、もちろん労働時間を把握しなければ上限を設定しても超えているか収まっているか判断できないという話は当然ですが、そういうことだと読んでおけばいいのでしょうか?労働時間の把握と一言で言われてもなんのために・どのように・どこまで把握するのかということは一大議論であり、ここでなぜ持ち出されたのか意図をはかりかねます。
上限の設定による保護を優先すれば雇用形態の多様化などの必要な改革が受け入れられやすくなるというのも相当に楽観的な想定であるように思われます。もちろん保護強化をしないよりはしたほうが他の話も受け入れられやすくなるという一般論はあろうかと思いますが、しかしそれでどの程度受け入れられやすさが改善するかというと、「結局は近道」というほどの期待はできないように思います。いや労働時間の上限を設定すれば連合が雇用保護の弱い限定正社員に対して理解を示すようになるとも思えないわけで。
いずれにしても労働時間の上限設定は私も全否定するものではありませんし、個別労使が協議して合意するなら(他人に迷惑がかからない範囲で)それは尊重されるべきものであると思います。経済学の理論やデータなどの知見を有効活用すべきとの意見もそのとおりと思います。大切なのは個別労使の自主的な取り組みを通じて望ましい方向性を実現していくしくみづくりであり、そうしたインセンティブの設計には経済学は有用であろうと思います。