「100時間」について

17日に開催された働き方実現会議で、かねてより懸案の労働時間の上限規制について了承されたとの報道がされていました。

政府の「働き方改革実現会議」(議長・安倍首相)は17日の会合で、時間外労働(残業)について、繁忙期の月上限を「休日労働を含んで100時間未満を満たさなければならない」とし、違反に罰則を科すことなどを盛り込んだ政労使の合意案を了承した。
…合意案は、残業時間の上限を原則「月45時間、年360時間」とし、特例で年720時間(月平均60時間)までの残業を認めた。その上で、繁忙期には〈1〉月100時間未満〈2〉2〜6か月間の平均80時間以内〈3〉月45時間超は年6か月まで――との上限を設けた。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20170317-OYT1T50155.html

とりあえず合意に至ったことはご同慶であり、労働時間の上限規制が強行法規として実現したことは画期的だと私も思います。政策的には必要な人に必要な規制を、労使関係的には労使の努力による就労条件の改善を、引き続き期待したいと思います。また、長時間労働に起因する健康被害はあってはならないものであり、その減少に向けた取り組みは今後も進められる必要があると考えます。
一方でこの問題を巡る報道や議論は多分に混乱が見られるところでもあり、以下ではメディアの報道ぶりや姿勢について若干の苦言を呈したいと思います。たとえばこれについてはこんな経緯があったとされているわけですが、

 政府が導入をめざす「残業時間の上限規制」をめぐり、安倍晋三首相は13日、経団連榊原定征(さだゆき)会長、連合の神津里季生(りきお)会長と首相官邸で会談し、焦点だった「きわめて忙しい1カ月」の上限を「100時間未満」とするよう要請した。経団連は「100時間」、連合は「100時間未満」を主張して譲らずに対立が続いていたが、首相が連合の案に軍配を上げた形。経団連は首相の「裁定」を受け入れ、上限規制は決着する見通しだ。
http://www.asahi.com/articles/ASK3F5J2CK3FULFA032.html

でまあ多分そういうのが出てくるだろうと思っていたところ案の定であり、

調整は最後まで難航したが、安倍晋三首相が「行司役」を務めるという演出によって労使双方がメンツを保った形だ。だが、過労死防止への実効性という点から、合意内容を疑問視する声も上がっている。
http://mainichi.jp/articles/20170314/ddm/003/010/031000c

いや演出どころか雇用政策を政労使の三者で決定するのは鉄板のグローバルスタンダードだからな(それ自体をけしからんとする意見は別途ありえますが)。会議に提出された資料の標題も「時間外労働の上限規制等に関する政労使提案」となっていますね。もちろんこれが世間に広く知られた常識かといえばそうでもないのかもしれませんが、しかしそこを周知させるのが報道の役割ではないかとも思います。それをわざわざ「首相裁定で合意演出」なんて見出しまで打って妙な陰謀論めいたものをまき散らしているんだからなあ。
それからここを問題視する報道というのもあり、

…政府は、年間上限「720時間」には休日労働が含まれていないことを明らかにした。現在の残業規制を踏まえたものだが、政府が旗を振る長時間労働是正の「抜け穴」とされる恐れもある。
労基法は週1回の休日を義務付けており、「休日労働」は休日以外に残業する「時間外労働」と区別されている。現在の基準は時間外労働だけが対象で「月45時間」「年720時間」などはそれを踏襲。一方、「月100時間未満」などの規制は休日労働も含めた「過労死ライン」に準じて新たに設定したもので、算定する時間に違いがある。
 このため、休日労働を含めた実質の上限は「2〜6カ月の平均80時間」となり、計算上は年960時間まで働かせることが可能。
http://mainichi.jp/articles/20170318/k00/00m/040/075000c

これも事実としてはそのとおりなのですがなにをいまさらという感はあり、記事中にも現在の残業規制を踏まえたものとあるとおりで、人事担当者であれば基礎的な知識の部類に入るでしょうし調べれば簡単にわかる話のはずです(後述しますが労災認定基準においてもわざわざ時間外労働に休日労働を含む趣旨の但し書きがあり、それを見ても時間外と休日が別扱いであることは容易に推測できるものと思います)。過去の実現会議に事務局が提出した資料などを見ても「月45時間」「年720時間」について休日労働を含むと受け取れる記載はありません(ざっと見た限りなので現にあることを示されれば撤回しますが)。これが問題だというのであればもっと早い段階から指摘して広く議論を呼びかけることはできたわけですし、少なくとも今になって「抜け穴」とか、自分たちの調査不足を棚にあげてまるで騙されたかのように書くのはおかしいでしょう。国民がもし45・750に休日労働を含むと勘違いしているとすれば(その可能性はあると思うが)、その勘違いを招いたのはそういう報道をしたメディアじゃないかと思うなあ(為念申し上げておきますが私が苦情を呈しているのはメディアの姿勢についてであって960という数字についてここであれこれ評価するものではありません)。

  • (3月22日追記)ただまあこれについてはメディアにやや辛辣過ぎたかなと思うところもなくはなく、なにかというと役所の広報ももう少し頑張ってくれてもよかったのではないかという話もあるかもしれません。記者さんたちとしてみれば「そういうことは最初から教えてくださいよお」というのが本音というか実態である可能性もあり(まあ楽な仕事だとは思うが)、このあたり5号館の広報であれば抜かりなかろうところ官房の広報はそこまで気が回りませんでしたとかいう事情もあるのかもしれません。
  • (6月30日追記)朝日新聞の澤路毅彦記者によると、官房の広報の記者クラブ向けレク資料にはすべての数字に休日労働を含むとの記載があったとのことです(https://twitter.com/sawaji1965/status/871337311459459072)。ということは官房の広報のチョンボであり、3月22日に追加した憶測のほうが当たっていたということになりそうです。それにしても「労使ともに、すべての数字に休日を含む前提で協議していた」というのはやや不思議で、労基法36条および同2項をみればそうはならないことは明らかなのですが。

なお実務の話をすれば計算上はたしかに年960時間まで可能ということになるのでしょうが、現実には「時間外が月45時間を上回れるのは年6回まで」という制限があるのでそこまで心配する必要もないように思われます。時間外労働と別扱いになるのは4週4日の法定休日の労働に限られるのであり、たとえば一般的なケースとして週休2日制の企業で土曜日に出勤して8時間働きましたというのは法定外の休日労働であって1週40時間を上回る時間外労働としてカウントされ、休日労働にはならないわけですね。そこでさらに翌日の日曜日にも出勤して半日働きましたということになればそれは時間外とは別扱いの法定休日労働になるわけです。でまあ普通に考えて規制を潜脱するために法定・法定外休日を恣意的に運用することは通常許されないと考えられ(法定の割増率が異なるので若干微妙なところはあるかもしれない)、となると時間外は45時間を下回りつつ法定休日労働を35時間以上行わせるというオペレーションはなかなか困難ではなかろうかと。まあこれは実務家でないとわかりにくい話かもしれませんが、それほど大した「抜け穴」でもねえなという感じです。つかこれに四の五の言っている人たちというのはどうも法定休日と法定外休日の違いがわかっていないんじゃないかという印象も受けるなあ(ただの印象なので該当の皆様は怒っていいです)。なお100時間・80時間に休日労働を含むとされたのはこれが労働時間の上限規制だということを考えれば当然であり、ここは労使間に見解の相違はなかったものと思われます。
あとweb上などでときどき見かけたのが「政府が月100時間残業させてよいとお墨付きを与えた、これで今まで残業30時間だった人も100時間残業させられる」といった議論で、私のツイッターのタイムライン上にも「安く使っていい、長時間使っていいとされた労働者は必ず安く長時間使われるんだよ」といったツイートが流れてきたりもしたわけですが、まずは落ち着いて実情を見てみましょう。
これについては厚生労働省が平成25年度労働時間等総合実態調査で調べており、その結果概要はこちらの資料http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12602000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Roudouseisakutantou/shiryo2.2.pdf)がわかりやすいかな?まあこれが実態をすべて正確に示しているかというとそうでもないかもしれませんが、しかしそれなりに実情を反映しているだろうと思います。ちなみに元ネタはこちらです
見てわかるとおり36協定を締結している事業場は全体の55.3%にとどまっています。この調査では36協定がない理由も聞いていますが、約半分は知りませんでしたとか忘れてましたとかいう理由(現に時間外・休日労働がないというのも4割以上ありますが)であってかなりお粗末な実態であり、今回の規制強化はこうした面での効果も期待できるかもしれません。いっぽうで、36協定がある企業においてはその上限は99%が月45時間以下、年360時間以下となっていて時間外労働の限度に関する基準は相当程度ワークしているようです。
それでは問題の特別条項付協定はどうかですが、特別条項があるのは全体の22.4%、36協定がある企業の40.5%となっています。月間の上限は94%が100時間以下、77%が80時間以下となっています。全事業場に対しては100時間超は1%、80時間超で5%です。青天井とはいいますが、現実にはすでに労使の努力でここまで下がっているわけですね。過去繰り返し書いていますが、労使の努力で実態がここまで進展しているのであれば法制化するのもよろしかろうと思います。
さらに、この調査では現実の労働時間についても調べていますが、それと比較すると「延長時間数は、「最長の者」の実労働時間数と比べても相当長めに設定」されている、つまり万一を想定して相当に安全サイドで設定されているのが実情のようです。そういう万一のものに対しても政府が罰則をもって禁止したというところが画期的だろうと思います。
ということで、この実態を見るかぎりでは今回の上限規制導入で「政府のお墨付きが出たから時間外労働が増える」ということはあまり起こりそうにありませんし、「安く使っていい、長時間使っていいとされた労働者は必ず安く長時間使われるんだよ」とまで悲観するほどの実情もないのではないかと思います。
さいごにもう一つ書くとすれば、やはり100時間や80時間を「過労死ライン」と言うところにミスリーディングというか、混乱の元があるのではないかという気はします。
どういうことかと言いますと、やはりまず事実関係を整理すると、100時間とか80時間とかが出てくるのは「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準」(平成13年12月12日基発第1063号)です。これは「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。…)は、その発症の基礎となる動脈硬化等による血管病変又は動脈瘤、心筋変性等の基礎的病態…が長い年月の生活の営みの中で形成され、それが徐々に進行し、増悪するといった自然経過をたどり発症に至るものとされている。/しかしながら、業務による明らかな過重負荷が加わることによって、血管病変等がその自然経過を超えて著しく増悪し、脳・心臓疾患が発症する場合があり、そのような経過をたどり発症した脳・心臓疾患は、その発症に当たって、業務が相対的に有力な原因であると判断し、業務に起因することの明らかな疾病として取り扱うものである」とされています。この「業務による明らかな過重負荷」は労働時間以外にもさまざまな要素があげられており、その一つとして「発症前1か月間におおむね100時間又は発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は、業務と発症との関連性が強いと評価できることを踏まえて判断すること」とされています。
この基準の作成にあたっては専門家による検討会(脳・心臓疾患の認定基準に関する専門検討会)が開催されており、その報告書http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/10/dl/s1027-11c.pdf)を読むと、医学的根拠の調達に困難がある中で、睡眠不足の悪影響という観点から、睡眠時間から逆算しておおむね100時間、80時間という数字を作ったことがわかります。つまりこれは労災保険の業務上外認定の実務を円滑に進めるための基準であり、労災保険による救済の範囲は広めであってよいと考えられることや、その財源も100%使用者拠出の労災保険料であることなどを考え合わせて、このような(言い方は悪いですが)ある種アバウトな数字が作られたのだろうと思われます。したがって、100時間、80時間というのは、この時間を上回れば他の条件・要因に関係なく疾患を発症するというものではなく、またこの時間で不連続に疾病リスクが高まるというものでもありません。なおここではこの80時間とか100時間については「1週間当たり40時間を超えて労働した時間数」と定義されており、法定休日労働であるか否かは問わないことになっていますが、いっぽうで睡眠時間からの逆算は月20日労働で計算されています。睡眠時間ということであれば時間外の一部を会社休日に行うことで多く確保できるという理屈にはなりますが、おそらくは会社休日には就労できない事業場もあろうということでこのような計算になったのでしょう。
ということで、80時間、100時間というのは脳血管障害や虚血性心疾患に関する基準であるわけですが、それでは電通第二事件のような過労自殺などについてはどうなのでしょうか。これについては別途心理的負荷による精神障害の認定基準」(平成23年12月26日基発1226第1号)というものがあり、やはり非常に詳細に基準が定められています。その一部として長時間労働があり、「発病直前の1か月におおむね160時間を超えるような、又はこれに満たない期間にこれと同程度の(例えば3週間におおむね120時間以上の)時間外労働を行った」場合は「特別な出来事があった」として「心理的負荷の総合評価を「強」とする」とされており、さらに「発病直前の連続した2か月間に、1月当たりおおむね120時間以上の時間外労働」「発病直前の連続した3か月間に、1月当たりおおむね100時間以上の時間外労働」は総合評価が「「強」になる例」とされています(ちなみにこちらは「時間外労働は休日労働を含む」となっています)。こうした長時間労働があれば精神障害を業務上と認定する、うち自殺念慮をともなう障害を発症して自殺に至った場合は過労自殺という話になるわけですね。脳血管障害や虚血性心疾患の基準とはだいぶ異なることがわかると思います。
なお、この基準の改定にあたっても「精神障害の労災認定の基準に関する専門検討会」が開催されているのですが、その報告書http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001z3zj-att/2r9852000001z44r.pdf)を見ると、これらの数字の根拠は160時間に対して「臨床経験上」と示されているのみであり、やはり医学的根拠の調達に苦心しつつも、報告書冒頭にあるように「労災請求に対する審査の迅速化が不可欠となっている。…審査の迅速化や効率化を図るための労災認定の在り方に関して検討」したという、まあ脳血管・虚血性と同様の事情が見てとれます。
というような事情であるわけですが、100時間や80時間を「過労死ライン」とか簡単に言ってしまっているメディアの方々というのは、こういうことを承知で言っておられるのだろうかとはかなり思います。あたかも月100時間以上残業したらかなり確実に過労死するかのように受け止められかねない用語であり、まあ情緒的に流れやすい話であることも理解はしますが、しかし一定の慎重さはあってほしいと思いました。