ポピュリズム

日経新聞出身(まだ客員ではあるのようなので不正確かもしれませんが)の政治ジャーナリスト、田勢康弘氏が四国新聞で「愛しき日本」というコラムを連載しておられます。先月、今月と、我が国政治のポピュリズムぶりを憂う記事を書いておられ、政権・政党に対する評価はともかく、ポピュリズム論としては非常に同感できますので、備忘的に転載しておきます。まずは7月23日付からです。

 大方の読者からお叱りを受けるだろうことを覚悟で書く。民主党分裂で求心力を失ったと批判されている野田佳彦首相は、国のためによくがんばっている。危機の日本が必要としているのは、国民の声に応えてくれる政治ではなく、国民に苦い薬でも必要とあらば政治生命を賭しても実行するリーダーである。消費税増税に、原発再起動、国民の大反発の中でやりきれるリーダーはほかにない。重要なこの二つの課題を見送れば、国民の半数は歓迎するかもしれないが、経済成長はおろか、この国は滅びる。

  国民が喜ぶような政策を実行に移したい、というのは政治家だれしもが願うことである。しかし、そればかりでは国家運営はできない。野田首相民主党分裂を回避するために、消費税増税法案の衆議院採決を見送っていたら、日本はどうなるか。日本は財政再建を放棄したと見なされ、日本国債の格付けは大きく下がり、国債金利ギリシャ並みに急騰するだろう。政界も大混乱し、野田首相は退陣することになるだろう。首相がだれになるかなどはどうでもいいが、かつて世界第2位の経済大国といわれた極東の小国は、存在感のない文字通りの小国になってしまうだろう。

 原発も同じだ。福島の原発事故のあと、原発の増設をなどと考える政治家はほとんどいないだろう。こんな危険なエネルギー源は捨て去りたい、とだれしもがそう思う。しかし、それでは日本は生きて行けない、少なくとも経済成長など望めないのだ。政治家はそのことには触れずに「脱原発依存」と唱える。いつまでにとも、どのようにして、とも言わずに「脱原発」だけ主張するのはあまりにも狡猾(こうかつ)だ。廃炉でさえ、30年も40年もかかる。どのようにして燃料棒を処理するのかの計画さえできていないのだ。アジアでは中国、インド、韓国をはじめ、ほとんどの国が原発増設の予定だ。囲まれた日本だけが「依存からの脱却」を唱えるだけで、責任を果たせるのか。唯一の被爆国として、かつ原発事故の体験国として安全性確保の技術向上に果たすべきものがあるのではないか。いま必要なのは遠い将来の夢物語ではない。いまのこの危機をどう凌(しの)いで行くかなのだ。

  国際会議にひんぱんに出ている外交官や金融関係者が口々に言う。海外での野田首相の評価が驚くほど高い、という。そういえば、6月半ば、英国の「エコノミスト」誌が「過去数代の自民党出身の首相の業績を足したよりも大きな仕事を成し遂げようとしている」と評価するとともに、この世襲政治家でない野田首相は「自分の生き残りや総選挙の結果などにさほど関心がないからこのようなことができる」と解説を加えている。

  3月には米ワシントンポスト紙が「野田首相はここ数年の日本の首相の中ではもっとも賢明である」と絶賛した。重箱の隅を突っつくような権力闘争だけ見ていれば、野田政権は風前の灯火のように見える。ここは冷静に物事の本質を見つめてみる必要がある。なぜ、民主党は分裂したのか。「大義」と小沢一郎代表は言うけれど、結局はこのままでは次の選挙で当選の可能性の薄い議員が、選挙のためには離党して新党に参加した方がいいと判断したからだ。小沢代表の掲げる政策、すなわち消費税増税原発再起動、TPPすべて反対という「究極のポピュリズム大衆迎合)」はすべて選挙の勝利のためである。

  だから、離党者が続くからといって野田首相はうろたえるべきではない。ここまで「政治生命をかける」方針で来たのだから、この先も右顧左眄(うこさべん)せずに貫かなければならない。たとえば反対の大合唱に包まれている沖縄普天間基地配備予定のオスプレイにしても、配備するのは米軍なので、基本的には日本がどうこうできる問題ではないのだ。その限りにおいて首相は間違っていないが、政界ばかりでなく日本中が「安全」「安全」「安全」のポピュリズムの大合唱になっているため、首相が批判されているのだ。

  野田首相がなすべきことはただ一つ。正しいと信ずることを命がけで貫き通すこと。心に延命などという邪心が入り込まないようにしてこの国の次の世代に引き継ぐためにがんばることだ。「命も要らず名も要らず、官位も金も要らぬ人は仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは艱難(かんなん)を共にし国家の大業は成し得られぬなり」。西郷隆盛の気概で臨んでほしい。たとえ少数でも見ている人はいるはずだ。
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tase_column/20120723.htm

次に8月6日付です。

 自民党の考えていることが理解できない。いや正確に言えば「一刻も早く政権の座に戻りたい」という意図が見え見えでいまの状況下での政治のあり方としては容認し難い、ということである。いま、解散・総選挙などに現(うつつ)を抜かしているときか。政治が処理すべき問題が山と積まれているときに、だれが総選挙を求めているのか。民主党政権が機能不全に陥っているときこそ、経験豊富な自民党は問題解決のために手助けすべきなのに、これではまるで「空き巣ねらい」のようなものではないか。

 日本はいま危機的な状況に陥っている。毎週金曜日、首相官邸のそばで行われる反原発の集会は、主催者発表の何分の一かしか人数はいないにしても、40年以上もこの手のデモがなかった日本としては大きな出来事だ。集会参加者の掲げるプラカードは「原発反対・再稼働阻止」から「オスプレイ反対」「消費税反対」「野田内閣打倒」にまで幅広いものになっている。普天間基地配備予定のオスプレイに関しては、近々、沖縄で大々的な反対の県民集会が行われる予定だ。

 一方で、政府は将来のエネルギー政策、具体的には原子力発電の割合をどうするかで、「国民の声」を聴取している。このやり方はいかにも稚拙(ちせつ)だ。「将来は脱原発」を方針として掲げておいて2030年には(1)原発ゼロ(2)原発15%(3)原発20〜25―の三つの選択肢の中から選ばせるという。3択では2番目を選ばせたいのだな、という政府の意図が見えている。

 また将来、脱原発という方針を政府が掲げるということはやはり政府も危ないエネルギーと考えているのだと思わせる。ならば原発ゼロと主張したい人が8割ぐらいになるのはあたり前で、そもそも原発は必要なのではないかと考えるような人は意見を述べる場には出てこない。政府は(2)の意見に集約させたいという意図から、このような形での「国民の声」を聞く場を設定したのだろうが、結果として反原発の社会的風潮を拡大させることになっている。加えて反原発の集会には首相経験者を含め、国会議員の姿も多く見受けられる。政治家としての任務を放棄した忌むべきポピュリズムである。

 自民党原発政策に関してはなぜか沈黙している。3・11以前の原発政策に間違いがあり、これは「人災」と国会の事故調査委員会が報告書で指摘した。責任のかなりの部分は、原発安全神話に加担した自民党にある。同じことはオスプレイにも言える。もう10年以上前からオスプレイの沖縄配備問題は存在していたのに、国民に説明することをしなかった。ふってわいたような形で配備計画を知らされ、そのことの意味よりも危険性だけ報じられれば、だれだって反対する。飛行機なのだから絶対に落ちないとは言えないが、米軍全体の事故率よりオスプレイは低いとか、オスプレイ配備で日本および極東の安全保障がどうなるか、具体的には尖閣諸島問題への効果などについて政治は何も国民に語ってこなかった。

 民主党政権は「ご説明」と「ご理解願いたい」しか戦略を持たない。原発でもオスプレイでも、何もかもが地元自治体、地元住民に「ご説明」「ご理解」で乗り切ろうとしている。政治にとってもっとも重要なことはこの国をどうするのかの青写真を描き、説明し、実行することだ。いやがられることをいかに決断し、実行するかである。このごろしきりに「国民の声」という言葉を聞く。国民の声とは何か。1億2千万人もの国民の声が一つであるわけがない。国民の声に耳を傾けるというのは実は決断を先送りするための政治の逃げ口上なのだ。

 これらの問題に口を閉ざしたまま、自民党野田首相に解散を迫るのだという。選挙で何を訴えたいのか。ただ政権の座に戻りたいという邪心だけではないのか。自民党がよしんば政権の座に戻れたとしても、参議院のねじれは解消しない。いずれの難しい問題も自民党ならばうまく処理できるとはとても思えない。政権を失ってから自民党はどれだけ変わったのか。むしろ野党のいやらしさが身についただけではないのか。野田首相を追い込む前に、福島の使用済み核燃料棒を処理することのほうが先ではないのか。ただ物欲しげなだけの政党が、政治の信頼を回復できるとは思えない。
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tase_column/20120806.htm

増税にしても自由貿易にしても在日米軍にしても原発にしても、まあなければそれにこしたことはなかろうというのが世間の大勢ではありましょうが、しかしそれなくしてわが国がやっていけるかどうかというと、私はほぼやっていけなかろうと思います。
このあたり世間には受け止めに温度差があるでしょうが、増税に関して言えばやはり世間受けは非常に悪いわけで、政治家がもちろんポピュリズムであることは承知のうえでもとにかく反対を叫びたくなるのは自然と申せましょう。で、これをポピュリズムであると声高に批判する急先鋒が増税の数少ない受益者である官僚であるというのが悩ましいところで、だから官僚がムダづかいするから財政が傾く…という民主党マニフェストみたいな絵に描いたようなポピュリズム喝采を浴びてしまうと。言い尽くされた話ですがしんどい話です。でまあ反増税ポピュリズムを批判する官僚が自由貿易在日米軍原発についてもポピュリズム批判をするかというとそうでもない、というところがまた苦笑いするしかないところで。いやもちろん各個人の主義主張に関わる話なので善し悪しが言える話でもないのですが。なおあちこちの議論をみて思うのですが反増税と「なにも不景気の今増税しなくても」という主張とを混同するのはまずかろうとは思います。まあ欧州の現状をみると増税を決めるだけでも早めにやっておいたほうがよかろうとは私も思いますが。
自由貿易についても、早くTPP参加を決めてほしいと私は思います。食料もエネルギーも過半を輸入に頼っているわが国が国として自由貿易を拒絶する理由は私には思い当りません。もちろん自由貿易困りますという人や組織があることも事実でしょうし、そういう人や団体に対する配慮は当然必要だとは思いますが。いや食糧(字はこっちかな)安保もエネルギー安保も重要だと思うので、一定の公的支援は正当、というか必要と思いますので。
在日米軍、日米同盟についても、昨今の尖閣竹島北方領土の動向をみれば、その必要性・重要性は私には明々白々なように思われるのですが、まあいろいろな意見があることは否定しません。まあ、「老朽化したC46中型に比べればオスプレイのほうがまだしも安全なのでは?」と言ったときに「いやだから普天間基地がなくなればいいのです」と答えられてしまうと、それはもう世界観がまったく違うのでそれ以上議論しようとは思わないわけですが(それがいいとか悪いとかいうわけではない)。これは「原子力核兵器に使えるから絶対許せない」という人についても同じですね。くどいようですがもちろんいいとか悪いとかいうわけではありませんが、せかいのすべてのひとがへいきをすてればせんそうがなくなってへいわになるとおもいますと真剣に言える人は、うーんまあ信じる者は救われるのかなあ。いやひとつの理想だとは思うのですが、爆弾かかえて命を捨てて突っ込んでいく人がいるという現実は、とか言っても意味ないのか。
いやつまらない脱線はともかく、尖閣竹島北方領土に加えて、目と鼻の先に数千万の国民が飢えている中で核武装しようとしている国があるという現実はきちんと見据えておく必要があろうと私は思います。
原発についても、あれこれ勉強してみると少なくとも当面の我が国が原発なしには成り立たなくなっていることは認めざるを得ない現実だと私は思います。実際、いま稼働している原発は大飯3・4号だけなわけで、コストや環境度外視で火力をたきまくってなんとか足りているという現状なわけです。あの橋下徹氏ですらてのひらを返して大飯3・4号の再稼働を容認せざるを得なかったくらい、この夏の関西の電力供給はヤバかったのでしょうし、泊が再稼働しなければ(かなり望み薄なようですが)今シーズンの北海道の冬はかなり厳しい季節になるのではないでしょうか。もちろん、2100年(数字に意味はありません)ころには原子力なしても十分にサステナブルなエネルギー供給が可能になる可能性はあると思いますし、そうであってほしいとも思いますが、少なくとも2030年の時点で「ゼロ」というのは、政府が示したシナリオを少しみただけでも無理だろうと考えるのが常識的だと私は思います。
まあいずれにしても民主主義というのはそういう問題を抱えていると古い昔から言われていることであるわけで、そこをどう克服するのか、それこそ国民の力量が問われている…ということなのでしょうか。社会関係資本に優れていると国際的に定評ある我が国ですから、最終的にはなんとかなるのではないか…と楽観的に信じたいところです。