日本の若者はなぜ立ち上がらないのか(続)

さて昨日の続きです。昨日書いたように内田樹先生は日本の若者が立ち上がらない理由を「社会がこの30年間にわたって彼らに刷り込んできたイデオロギー」に帰しておられるのですが、これも一種の「分断統治」的な議論といえるのかもしれません。

 一方、神戸女学院大学名誉教授で哲学者の内田樹氏(61)は日本の若者たちが格差拡大に対して声をあげないのは、「社会がこの30年間にわたって彼らに刷り込んできたイデオロギーの帰結だ」と説明する。「今の日本の若者たちが格差の拡大や弱者の切り捨てに対して、効果的な抵抗を組織できないでいるのは、彼らが『連帯の作法』というものを失ってしまったから。同じ歴史的状況を生きている、利害をともにする同胞たちとどうやって連帯すればよいのか、その方法を知らない」
 「若者が教え込まれたのは『能力のあるもの、努力をしたものはそれにふさわしい報酬を受け取る権利がある』『能力のないもの、努力を怠ったものはそれにふさわしい罰を受けるべきだ』という『ニンジンとムチ』の教育戦略」。「能力主義」「成果主義」「数値主義」の結果、「弱者の連帯」という発想や、連帯する能力が損なわれたという。

…内田氏が注目するのは、格差に反対する論者のロジック。「強欲な老人たちが社会的資源を独占している。若者たちは能力があり、努力をしているにもかかわらず格付けが低い。これはフェアではない」という論法だ。「彼らは連帯を求めているわけではなく、社会のより適切な能力主義的再編を要求している。こうした若者たちのうちの一人がたまたま成功したとき、彼には『いまだ社会下層にとどまっている仲間』を救う義務は発生しない。彼が成功したという事実からして、社会の能力主義的格付けは部分的には正しく機能しているからだ」。

 内田氏は「被贈与感」の重要性を指摘する。「連帯せよ、とマルクスは言った。それは自分の隣人の、自分の同胞をも自分自身と同じように配慮できるような人間になれ、ということだと私は理解している。そのために社会制度を改革することが必要なら好きなように改革すればいい。でも、根本にあるのは、『自分にたまたま与えられた天賦の資質は共有されねばならない』という『被贈与感』。そこからしか連帯と社会のラディカルな改革は始まらない」
http://www.nikkei.com/life/living/article/g=96958A90889DE1E7EAE5EBE6E2E2E0E7E3E2E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E3E1E2EBE0E2E3E3E6E0E6E4およびこれに続くページから、以下同じ

内田氏は「格差が進行している最大の理由は、社会上層にいる人間たちがその特権を自分の才能と自己努力に対する報酬であり、それゆえ誰ともわかちあうべきではないと信じ込んでいる点にある」とも述べておられるのですが、これ自体はたとえば格差社会ブームの火付け役のひとつだった佐藤俊樹(2000)『不平等社会日本』の主要なモチーフであり、社会哲学などでは一般的な論調のひとつと申せましょう。まあ、日本人に限らず、自分の成功は努力と才能の成果、他人の成功はコネと強運のなせるものと考えたいというのは、むしろ自然な心情なのかもしれません。ただ、もともと階級社会である欧州においてはノブレス・オブリージュが定着しており、歴史的にも戦争が起これば貴族の子弟は志願して戦地に赴いてきたわけですし、今日でも現状のような経済危機においては富裕層自らから「自分たち富裕層に重課税すべき」との議論が出てきたりするわけです。
その流れをくむ米国でも、財を成した人間はしかるべくドネーションや慈善などをなすべしとの規範は共有されている(ビル・ゲイツが11兆円寄付したとかいう話ですね)はずなのですが、ビル・ゲイツに欧州並みに課税したらたぶん11兆円ではきかないでしょうから、そこをなんとかしろ、というのが今回のウォール街占拠である、というのが内田氏の見立てでしょうか。
いっぽうの日本では、成功した人は(その幸運に感謝して)成功しなかった人を支援すべきだとの考え方がそもそもない(若者に限らず)ため、弱者の連帯という理念や、連帯する能力がなく、したがって日本の若者が立ち上がらないのは当然だということになるのでしょう。
この私の解釈であっているのか、あっているとして実際にそうなのかは私にはわからないのですが、ホリエモンこと堀江貴文氏が意気盛んなころ(いや今でも意気盛んだが)の言動をみると、『稼ぐが勝ち』だ、俺は勝ったんだ、俺はネクタイなんか締めないぞ、ザマーミロ旧体制エスタブリッシュメントのジジイども…といったような調子だったわけで、多くの若者がそれに喝采していたということは思い出されます(私はそれが悪いといいたいわけではない)。なるほど「強欲な老人たちが社会的資源を独占している。若者たちは能力があり、努力をしているにもかかわらず格付けが低い。これはフェアではない」という論法だよなあとは思います。どうなのでしょうか。ただまあ、意図せざるものではあるにせよ、能力主義成果主義を徹底することは弱者・敗者の孤立策であり、一種の「分断統治」のようなもの、といった表現は不可能ではないかもしれません。
なお堀江氏について言えば、氏はベーシック・インカム論者であるらしく、その財源については自ら納税する覚悟もあるらしいので、一応ノブレス・オブリージュの形式にはそれなりにあてはまっています。もっともその趣旨は「だから生産性の低い奴がビジネスに絡んで俺たちの邪魔をしないでくれ」というものではあるわけですが。
さて、記事は現状をよしとしているわけではなく(それでは記事になりません)、「若者が声をあげず、問題が顕在化しにくい現在の日本に対して、将来を危惧する声が相次ぐ」と述べています。まず山田氏から。

 中央大の山田氏は「最近、若い女性がアジアを目指す動きが目立ってきている」と指摘する。アジアでは年齢差別が少ない国が多いといい、「能力のある若者は活躍できる素地がある」からだ。「そうした国や地域での活躍を目指したり、能力のある男性との結婚を目指したりする女性が増えていて、このままでは日本に残るのは『草食男子』のみ、となりかねない。そして彼らは老いていく。日本から活力がどんどん奪われていく」と嘆く。
…「若者の間では、頑張ったって報われない、どうせ出る杭は打たれる、といったあきらめムードが漂っている」と表情を曇らせる。若者の間で人気があったライブドア堀江貴文元社長が逮捕・収監されたことも失望感を生んでいるという。「希望が持てる社会の構築が急務」と話す。

最初の部分は気持ちはわからないではありません。日本が能力ある女性にとって働きやすいかといえば、まあシンガポールや香港のほうがマシだと考える人は多いと思います。能力の高い女性が高等教育の発達していない国に行けば活躍の機会も当然多いわけで、そうした人がフィリピンやインドネシア(国名に特に意味はありません)を目指すこともあるのでしょう(山田氏がいうほど多くはないと思いますが)。まあ、海外を目指す気概のある若い人が目立つならけっこうなことだという見方もあるでしょう。
続く部分は、これは以前から書いていますが、日本がこれだけ豊かになった今、若い人たちの中に「海外に行くような苦労はしたくない、ぜいたくはできなくてもいいから国内でほどほどに生きたい」と考える人が増えてくるのは自然な成り行きではないでしょうか(可能かどうか、持続できるかは別として)。実際、日本ほど治安や衛生の心配をしなくていい国はあまりないでしょうし。このあたり、もともと男女に意識差が相当あったところ、近年それが縮小しているというのが実情ではないかと思います。
最後の部分は、本当にそうなんでしょうかねえ。堀江氏が逮捕・収監されたのは法違反を犯して金儲けをしたからであって、他にも若くして成功している経営者というのは多々いるわけですし。
さて内田氏は、

 さらに内田氏は次のように説明する。「もともと日本には、弱者をとりこぼさないような相互扶助的な社会システムが整っていたのではなかったか? そのような『古きよき伝統』に回帰しようというタイプの主張を若者たちが掲げたら、大きな『うねり』が発生する可能性がある」。ただ、今の日本の若者たちは「あまりに深く米国的な利己主義にはまり込んでいるので、そういう『アイデア』は彼らからは出てくるようには思えない」

内田氏は「今の日本社会に致命的に欠けているのは、『他者への気づかい』が人間のパフォーマンスを最大化するという太古的な知見への理解」とも述べておられます。現実には、東日本大震災の被災地でわが国の社会関係資本の健在ぶりが示され、国際的に賞賛されたわけですが、しかしかつてに較べれば弱まっているといえるのかもしれません(わかりません)。
『古きよき伝統』というのは、かつて自営業比率が高く、多くの家に「家業」があった時代には、たとえば人付き合いが極端に苦手な子どもがいても、自分の家なり親戚の家業とかなりで吸収できた、という面はあるのでしょう。ほとんどの人が雇われて働くようになった現在、そういう形で「弱者をとりこぼさない」ことは難しいでしょう。それでも、一定以上の経済成長があれば、職場がなんとか育てようといった行動もとられていましたし、公的福祉などで対応することもできたでしょうが、今日のような状況下ではそれも難しくなっているのだろうと思います。このあたり、原田氏が現状を「過度の企業依存社会」と表現されたのと通じるものがあるように思います。ただ、古きよき伝統に戻れ、といったところでそれが可能なのかとか、そもそも若者自身がそれを望むのか、といった疑問は禁じ得ません。
なぜか城氏の「将来を危ぶむ声」は紹介されておらず、原田氏のこれで最後です。

 一見うまくいっているシステムが、実は社会の硬直化につながっている、と原田氏は危ぶむ。「企業社会に入った若者は、その社会の規範に染まっていく。リスクを冒すことは回避され、声をあげない若者が量産される。こうした日本の現状は、ちょうど中国の清朝末期と似ている。中国は『科挙』という官僚試験で優秀な人を選抜した。科挙はそもそも体制が正しいという前提で行われるものであって、科挙に合格した人材からは改革の声はあがらない。この構図は今の日本と全く同じ。過度の企業依存社会が、若者から改革への挑戦意欲を奪っている」…「1970年代までは企業社会に入らなくても何とか生きていけたが、今では企業に入らないとリスクが高すぎる。こうした過度の企業依存社会を変える必要がある」と指摘。「スティーブ・ジョブズ氏が『ステイ・フーリッシュ(愚かであれ)』と言ったように、社会の変革には多様な人材が必要だ。愚かであろうとする人材を輩出するためには、企業に入ろうが入るまいが、リスクが同じにならないといけない。そのためにも雇用の流動化を促し、企業の内外で変わらない社会保障制度の整備が求められる」と、抜本的な制度改革を訴えた。

なるほど、リスクだの雇用の流動化だのというのは城氏の問題意識と共通しているのでこちらに一本化されたものでしょうか。違うかな。
さて原田氏の慨嘆は私には意味不明で、まあ科挙についてもジョブズについてもよく知らないので致し方ないということにしておいてください。とりあえず、科挙のようなエリート中のエリート官僚を選抜する制度と、いまの日本企業とを比較して「似ている」とか言われてもなあとは思うかな。キャリア官僚と比較するというのはありかもしれませんが日本の官僚は改革の声をあげていると思うんだけどなあ(まあ変なあげ方をする人もいるようですが)。というか、リスクが高い中で「改革の声をあげ」れば即座にリスクが現実化するんじゃないかと思うわけで、むしろリスクを低くしたほうが改革の声をあげやすいんじゃないかという気もします。多様な人材が必要なことは(変革するにせよしないにせよ)同意しますが、ジョブズの意味での「愚かな人」は少数でいいわけで、というか賢明な人が大半であってくれないと「愚かな人」も困るんじゃないかなあ。