「夢と希望」か、「悪夢と絶望」か…

作家の村上龍氏が主宰するメールマガジン「JMM」の「『13歳の進路』特別号」が配信されてきました。村上氏の新著『13歳の進路 村上龍がこどもたちに送る、夢と希望の進路ガイド』の宣伝らしく、同著の「はじめに」の一部と目次とが掲載されています。
挿絵がはまのゆか氏、版元は幻冬社ということで、大ベストセラー『13歳のハローワーク』の最強スタッフによる続編というか2匹目のドジョウというか、それにしてもあれだけ売れた『13歳のハローワーク』って、いまどうなってるんだろうかと思って調べてみたら、改訂新版が出てるんですねぇ。まあ、この手の百科全書的な本の常道ではありますが…。
さて、本の内容については読んでいないので論評できない、というか読む気にならないのですが、この「はじめに」の時点ですでにあれやこれやといじってみたくなる代物ではありまして。ということであれこれつっこみを。全文はたぶんJMMのサイトで近日公開されるでしょう。

 「進路」というのは、未来に向かって「進んでいく道」だ。進路は未来へとつながっている。できれば、親や教師や社会から「振り分けられ」「与えられる」のではなく、自ら「選びとる」という積極性を持ってほしい。進むべき「未来への道」を選ぶためのヒントを示すために、この『13歳の進路』は作られた。

進路指導

 中学校卒業後の、さまざまな「進路」を、できるだけわかりやすく、図にして示すことにした。多くの中学校で、また高校でも、「進路指導」が行われている。だが、そのほとんどは単に子ども・生徒の学力と、家庭の経済力に応じたもので、しかも中学から普通高校、大学から就職というコースを標準としている。子ども・生徒の適性や能力を考えた上でさまざまな進路を示す、というようなシステムにはなっていない。子ども・生徒は基本的に、大人に向かう進路を自ら選びとるのではなく、能力と経済力に応じて「振り分けられ」、ポジションを「与えられる」ことになる。

今日の世の中の「気分」のようなものを取り込んで、巧妙に読み手を誘導する手腕はさすがと申し上げざるを得ません(あるいは、本当にそうだと信じ込んでいるのか?)。たしかに進路指導においては学力も経済力も非常に重要な要素でしょうから、それを踏まえた指導が行われているでしょうが、しかし「ほとんどは単に子ども・生徒の学力と、家庭の経済力に応じたもの」かといえば、現場で進路指導にあたっている人たちには大いに異論があるものと思います。ところが、いまの世間には「学力と経済力で人生が決まる、格差が生まれる」といった論調がありますので、こう書かれると本当に中学校の進路指導はそんなもんだと思えて来てしまう。うまいものです。
「子ども・生徒の適性や能力を考えた上でさまざまな進路を示す、というようなシステムにはなっていない」というのも巧みな書き方で、「自分(の子)にはもっといい進路があるはずだ」「それが手にできないのは『システム』が悪いからだ」という潜在的な願望にうまく訴えかけています。
あなた(の子)にはもっといい進路があるはずなんですよ、学校が単に学力と経済力で進路指導をして「振り分け」ているからそれが見つからないんですよ、「与えられる」のではなく「選びとる」ためにはこの本を読めば…ってなんか霊感商法みたいだな
実際には、進路指導の現場では「子ども・生徒の適性や能力を考えた上で」、もちろん「子ども・生徒の学力と、家庭の経済力」を考慮し、子どもや親の希望なども聞きながら、それなりにいくつかの選択肢を示して進路指導が行われていることでしょう。
そのプロセスを経て、結果的に「中学から普通高校、大学から就職というコース」が選ばれることは、たしかに多いのでしょう。本人も親もそれを望み、進路指導教諭もそれがよいと判断すれば、それはそれで立派な選択です。そもそも、中学生の段階では能力も適性も不明確ですし、将来の希望も世の中の見通しもあいまいでしょう。であれば、中学生の段階で無理矢理に進路を絞ってしまうのではなく、将来的に幅広な選択肢を持ちうる進路をとることは理にかなっているはずです。

 だが、その原因は、進路指導を行う学校や個別の教師が無知でだからではない。もともと日本の教育は、子どもが自立して生きるための能力を開発するというより、集団の中で働くための一般的で一律の知識と規律を教えるのを目的としてきた。明治の開国と近代化の過程で、「富国強兵」という目的で確立されたものだが、その基本的な考え方とシステムは変わっていない。だから、教育のカリキュラムに「職業訓練」という概念が組み入れられていない。学校も、個別の教師も、中学、普通高校、大学、就職、という標準的なコースを示し、学力と経済力に応じて、工業・商業高校、高等専門学校などに振り分ける以外、進路指導ができなかった。

ほほぉ、そうなんですか。とりあえず教育基本法は「義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。」(第5条2項)と定めていますし、学校教育法も「学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。」(第21条1号)と定めておりますが…。ま、村上氏にしてみれば「そんなのはお題目だ。自分がこういうのだからこうなのだ」ということかもしれません。
現実には「集団の中で働くための一般的で一律の知識と規律を教える」ってのは、昔も今も「自立して生きるための能力を開発する」上で必須のものだと思うのですが、違うんでしょうかね。村上氏は一匹狼を気取り、集団からはぐれて働くことが「自立」だとお考えになっているのかもしれませんが、大半の人にとってはそうじゃないんですから…。
「明治の開国と近代化の過程で、「富国強兵」という目的で確立されたものだが、その基本的な考え方とシステムは変わっていない。だから、教育のカリキュラムに「職業訓練」という概念が組み入れられていない。」というのも巧妙な書き方で、うっかり読むとああそうなのか、と思わされてしまいそうです。実際には、そもそも「「富国強兵」という目的で確立された」のかどうかにも疑わしさが残りますし、「だから」という因果関係に至ってはきわめて疑わしい。さらに「教育のカリキュラムに「職業訓練」という概念が組み入れられていない」というのは、少なくとも「職業科」は中学校にもありますし、高校には職業高校もあります…まあ、村上氏のいう「職業訓練」というのはこれらとは異なる概念なのかもしれませんが。

雇用の変化

 そういった「教育」は、現在大きな岐路に立たされている。高度成長とともに近代化が終わり、グローバルな競争が生まれ、社会全体が変化し続けていることが明らかになってきたからだ。改革の兆しがまったくないわけではないが、今でも教育が社会の変化に対応できているとはとても言えない。たとえば、この20年間に「雇用」は大きく変わった。終身雇用、年功序列という代表的な日本的雇用慣行は過去のものになりつつある。

 また企業は、新しく採用する人材に対し、一般的で一律の知識や能力や規律を求めなくなった。多くの社員を抱える大企業では、経営・営業・開発などの少数のエリート候補と、短い研修を積めば誰にでもできるような単純な仕事の従事者を別々に考えるようになり、改正された労働者派遣法がその傾向を急速に進めることになった。単純な仕事に従事する若年労働者は、正規社員ではなく、非正規の雇用となることが多い。

 2008年の大不況以後、非正規社員のリストラが話題になった。非正規雇用には、派遣社員契約社員、パート社員、アルバイトなどいろいろな形があるが、共通して非常に弱い立場にある。雇用保険・健康保険・年金などの社会保障が不充分で、給与や有給休暇などの労働条件が正規社員に比べて劣る。そしていつ雇用契約を打ち切られるかわからない。経営側は、非正規社員の給与を「流動費」に計上する。つまり、業績が悪化したら切り捨てることができる労働力として考えている。

 15歳から24歳の若年層の半数近くが非正規雇用だと言われている。ただし、非正規雇用が増えたのは、若者たちが昔に比べて怠け者になっているとか、能力が低下しているからではない。前述したように、おもな原因は、企業の求人傾向の変化に対し、教育が対応できていないためだ。

このあたりもまことに巧妙なものですな。なまじ問題意識の強いナイーブな教員なんか(失礼)はイチコロで騙されそうだ(笑)。
さて、「終身雇用、年功序列という代表的な日本的雇用慣行は」たしかに経済成長の鈍化などによって全体の中の割合が低下していることは事実なのでしょう。ただ、それはゼロになるかというと、決してそうではない。おそらくは将来にわたって、かつてほどではなくとも相当のプレゼンスを持ち続けることでしょう。単に確率が低下しているだけのことをあたかもゼロになるかのように書くのは村上氏の得意技のようです。
それから、「新しく採用する人材に対し、一般的で一律の知識や能力や規律を求めなくなった。」と言いますが、しかし企業は昔も今も「一般的で一律の知識や能力や規律」、たとえば俗にいう「読み書きそろばん」とか「口の利き方」とか、決められた時間に仕事を始めて決められた時間まではそれなりに集中して仕事をするとか、そういったものを求めていることに変わりはありませんがどんなもんなんでしょう。
「多くの社員を抱える大企業では、経営・営業・開発などの少数のエリート候補と、短い研修を積めば誰にでもできるような単純な仕事の従事者を別々に考えるようになり」ってのもどこで聞きかじって来たのかなぁ。これまた今も昔も、「短い研修を積めば誰にでもできるような単純な仕事」であっても将来のキャリアがあって、いずれ熟練工、管理監督職に育成していく人材は正社員採用しているでしょう。「経営・営業・開発などの少数のエリート候補」については、たしかにキャリアのある段階から経営者候補の選抜教育などを行う企業は増えているわけですが、新卒採用の入り口から「経営・営業・開発などの『少数の』エリート候補」を別枠採用しているのは、おそらく行政官庁とそれに類する組織くらいのものではないでしょうか。現業と経営・開発などとの採用ソースや人事管理区分が異なるのも昔からですし…。
「単純な仕事に従事する若年労働者は、正規社員ではなく、非正規の雇用となることが多い。」というのも、別に若年に限った話ではなく、全年齢に共通してみられる傾向でしょう。
「経営側は、非正規社員の給与を「流動費」に計上する。」というのは、何となく言いたいことはわからないではないですが、しかし「流動費」って何ですか「流動費」って。ただ、この段落は村上氏にしては珍しく循環要因に目が向いています。
ところが、そのあとすぐに「非正規雇用が増えたのは、若者たちが昔に比べて怠け者になっているとか、能力が低下しているからではない。前述したように、おもな原因は、企業の求人傾向の変化に対し、教育が対応できていないためだ。」となってしまうのが村上氏らしいところで。「若者たちが昔に比べて怠け者になっているとか、能力が低下しているから」かどうかは別問題としても(私も従来と較べて大きな差があるとは思っていませんが)、非正規雇用が増えた最大の理由は経済成長や企業の組織拡大が鈍化する中で、経済情勢が悪化して労働需要が低下したことでしょう。村上氏はとにかく循環的要因を軽視して、構造的な要因に話を持っていきたがる傾向があるようです。
しかも、「非正規雇用が増えたのは、…企業の求人傾向の変化に対し、教育が対応できていないためだ。」というのは、これはいったい何なんでしょうかね。まあ、もともとここまで延々と書かれている「企業の求人傾向の変化」なるものがデタラメなので、元が悪いからどうしようもない部分はあるとは思いますが、それにしても「教育」がどうすれば非正規雇用が増えずにすんだのでしょうか?いや、非正規労働者になるのはやめなさい、正社員の求人はないわけじゃないんだから、名前を聞いたことのないような中小企業であっても、とにかくいちばんよさそうなところに正社員就職しなさい、そして次の正社員の働き口が見つからない限りは耐えて働き続けなさい、といった「教育」が行われれば、非正規雇用は現状ほどには増えずに済んだのかもしれませんが(私はここではそうするのがいいと言いたいわけではありませんので為念)…しかし、村上氏が言わんとしていることはそういうことではなさそうですが…。

非正規雇用はなくならない

 非正規雇用の問題は、単純に非正規社員を正規社員にするだけでは解決しない。同じ価値の労働であれば正規、非正規の時間あたりの賃金を完全に同じにして、社会保険、育児・介護休暇などを正規社員と同じ条件で非正規社員にも与え、さらにフルタイムの労働とパートタイムの労働を労働者自身の請求によって自由に選べるようにしなければならない。

 だが、正規社員の利害に関わる解決策なので、既成の労働組合などからの賛同は得にくいだろう。だから、非正規雇用は、当分なくなることも、劇的に減ることもない。そして、正規社員のポジションを確保するための絶対的な進路というものがあるわけではない。たとえ東京大学を出ても、必ず大企業の正社員になれるとは限らない。重要なのは、何が何でも正規社員を目指すことではなく、まず目の前のさまざまな進路を把握して、方向性を自ら考えることだと思う。

前半の段落がいかにダメかについては、似たようなことをあちこちで散々書いてきたので今回は省略します。それにしても「完全に同じ」と来たもんだ。「完全」ねぇ…。
後半に関しては、「既成の労働組合などからの賛同は得にくいだろう」と書いておられますが、連合などはすでにかなり似た内容の政策要求を掲げていますが何か。ま、村上氏としてみれば「あれはどうせできないだろうと思って言ってるだけだよ」ってことなのかもしれませんがね。
それから「正規社員のポジションを確保するための絶対的な進路というものがあるわけではない。たとえ東京大学を出ても、必ず大企業の正社員になれるとは限らない。」というのは例によって村上氏の得意技で、そりゃ昔も今も「正規社員のポジションを確保するための絶対的な進路」なんてものはありませんぜ。「たとえ東京大学を出ても、必ず大企業の正社員になれるとは限らない。」というのも事実ですが、しかし他の多くの進路に較べれば大企業の正社員になれる確率は高いことが多いこともたぶん間違いないわけで、たしかに確率は少し下がったかもしれませんが、依然として高い。それを村上氏はあたかも大きく下がったかのように巧みに印象付けています。うまいものです。

さまざまな進路

 スーパーカーの整備士、精密機械の職人、伝統工芸職人など、その種類は少ないが、高校に進学しないで、中学卒業後すぐに働くほうが合理的だという職業もある。ただし、いずれも厳しい職場で、「勉強が不要だからいいかも」というような、安易な気持ちで働くことは許されない。

 中学卒業後、誰にも頼らず、犯罪組織にも入らず、一人で生きていくための学習と訓練を、すぐにはじめられる施設は限られている。自衛隊に入隊するという選択肢を紹介したのは、給料をもらえて、さらに学習もできて、将来的にさまざまな資格も取れるという組織は他にないからだ。また、中学卒業後海外に出て、料理や音楽やダンスなどの修業をしたり、学校に入る道も紹介しようかと考えたが、明確な目標がない場合、単なる現実逃避になりがちなので止めた。「海外に出る」という選択肢が特別に存在するわけではない。

ふーむ、自衛隊生徒(もとい、今は自衛隊高等工科学校生徒というのか)を紹介するのがそんなに後ろめたいことなんでしょうかね?「中学卒業後、誰にも頼らず、犯罪組織にも入らず、一人で生きていくための学習と訓練を、すぐにはじめられる施設は限られている」なんてエクスキューズを持ち出さなくても、まことに立派な進路(したがってかなりの狭き門でハードルは高い)だと思うのですが…。
で、それを言うなら、「給料をもらえて、さらに学習もできて、将来的にさまざまな資格も取れるという組織は他にない」ことは決してなくて、「企業内学校」という進路もあるんですねこれが。日立製作所日立工業専修学校が有名ですが、技能五輪に選手を送り出すようなメーカーには中卒教育の施設を持っているところも(減ったとはいえ)まだあるようです。まあこれも少数ですし、村上氏にしてみれば企業の中卒教育なんて「犯罪組織」なのかもしれませんが。
スーパーカーの整備士、精密機械の職人、伝統工芸職人など、その種類は少ないが、高校に進学しないで、中学卒業後すぐに働くほうが合理的だという職業もある。ただし、いずれも厳しい職場で、「勉強が不要だからいいかも」というような、安易な気持ちで働くことは許されない。」とか「中学卒業後海外に出て、料理や音楽やダンスなどの修業をしたり、学校に入る道も紹介しようかと考えたが、明確な目標がない場合、単なる現実逃避になりがちなので止めた。「海外に出る」という選択肢が特別に存在するわけではない。」というのは立派な姿勢ですねぇ。たしかに「料理や音楽やダンスなどの修業」は国内外問わず安易に選ぶべき選択肢ではないでしょう。このあたり、『13歳のハローワーク』からは一定の路線変更がされているように感じますが(印象なので根拠なし、間違っていたら御容赦を)、結構なことだと思います。

「有利な道」ではなく「生きのびる方法」

 これまで進路は、どの方面に進むのが有利か、という風に語られることが多かった。どの学校に行けば就職に有利なのか、どの産業に就職すれば将来的な安定が得られるのか、というような考え方だ。だが、それはこの本で繰り返し指摘している通り、日本経済が成長を続けていたのどかな時代の名残だ。雇用に関する限り、高度成長時やバブル以前の成熟期よりも今のほうが状況ははるかに厳しい。製造業の非熟練労働、単純労働では、直接的に東アジアの労働者との競争にさらされている。非製造業、サービス業でも、たとえば居酒屋などでは多くの外国人が働いている。

 非正規労働者は、法律で定めた最低賃金に近い時給で働くこともある。もともと最低賃金は、主婦や学生のアルバイトの「家計の補助的な」労賃として考えられている。だから、最低賃金で生活していくのは基本的に無理だ。食べて寝るだけで、病気をしても病院にかかれないこともある。親などの援助がなければ、結婚するのも子どもを産んで育てるのも不可能だ。つまり、現在の法律で決められている最低賃金は、人間として生きていくための最低限の保証ではない。

 そして現在の日本経済を考えると、今後劇的に最低賃金が上昇することは考えられない。だから、進路を考えるときに、どの方向が有利か、というような問いは、経済力や学力に恵まれた子どもや若者だけに許された限定的なものだ。だから、どの方向が有利か、ではなく、どうすればこの社会を一人で生きのびていけるか、という問いに向き合う必要がある。

ほほぉ、しかし村上氏は『13歳のハローワーク』では「わたしが伝えたいのは、『社会に出る前に自分がやりたい仕事を見つけておくべきだ』という『アドバイス』ではない。『社会に出る前に自分がやりたい仕事を見つけた人のほうが人生を有利に生きる』という『事実』だ」などと、「有利」を語っておられたように記憶しているのですが。まあ、これは「進路」とはまた別の次元の話だ、ということでしょうか。
最低賃金についてもずいぶん扇情的な書きぶりですが、いかに最低賃金が劇的に上昇したとしてもしょせん失業者にとっては直接は無関係であって、したがって最低賃金が「人間として生きていくための最低限の保証」にはなりえないのは当然のことです。これは最低賃金の水準で生活していけかどうかとかいった問題とは直接には無関係でしょう。「最低限の保証」に関しては、現行制度やその運用が十分か、適切かという問題はさておき、最低賃金とは別の福祉的な制度によって担保されるものです。
しかし、最低賃金制度についてこうしたある程度の知識を持っている人は世の中では多分少数派でしょう。そうでない人たちは、外国人とか非正規労働者とか最低賃金とかいった訴求力のある材料を巧みにちりばめた扇情的な文章で説得されてしまうのでしょうか(あるいは、村上氏自身が最低賃金について誤解しているためにこういう文章になっている可能性もありますが)。
というように、前提がおかしいからその後がおかしくなるのも当然なのですが、それにしても「そして現在の日本経済を考えると、今後劇的に最低賃金が上昇することは考えられない。だから、進路を考えるときに、どの方向が有利か、というような問いは、経済力や学力に恵まれた子どもや若者だけに許された限定的なものだ。」というのは何なんでしょう。なるほど、「劇的に最低賃金が上昇することは」、最賃引き上げに尽力している多数の人たちの努力にもかかわらず「考えられない」かもしれません。ただ、だから「進路を考えるときに、どの方向が有利か、というような問いは、経済力や学力に恵まれた子どもや若者だけに許された限定的なもの」になるという因果関係は、間に相当のプロセスを想定しなければ成立しえないでしょう。いやほんと、「最低賃金が上がらない」ことのなにがどうして「進路を考えるときに、どの方向が有利か、というような問いは、経済力や学力に恵まれた子どもや若者だけに許された限定的なものだ」の理由になるのでしょうか?
それにもかかわらず、この三段落をさらっと読むと、なるほど、これからは「どの方向が有利か、ではなく、どうすればこの社会を一人で生きのびていけるか、という問いに向き合う必要がある」のだなぁ、となんとなく納得させられてしまいそうです。読み手の多くは自身(やその子)は「経済力や学力に恵まれた子どもや若者」ではない、と思っているでしょうし、世間には「例外的に恵まれた人だけが有利になる格差社会の世の中だ」という議論があふれていますから、こうした前提をおけば読み手はその後の結論も正しいと直感してしまうだろうという仕掛けでしょうか。さすがに大ベストセラー作家の筆力は凄いと感服させられます。
さて、村上氏がこれほどに華麗な言辞を弄して説得したい結論は「どうすればこの社会を一人で生きのびていけるか、という問いに向き合う必要がある」ということのようです。村上氏の論調できわめて特徴的なのが「一人で」ということに対する執着でしょう。『13歳のハローワーク』では、企業組織の中で相互依存的に生きていくことに対する村上氏の異様な嫌悪感が随所ににじみ出ていましたが、ここでの村上氏は家族間の助け合いや公的福祉に対しても否定的な印象を受けます。

職業能力開発校(公的職業訓練施設)

 中学卒業後の進路というのは、本来大人になるための知識を学び、技術を訓練するさまざま道筋を示すものだ。だが、わたしたちの社会には、致命的とも言える大きな欠点がある。民間の専門学校以外、また医師や看護師などごく一部を除いて、教育に「職業訓練」が含まれていないことだ。高度成長期から90年代前半まで、実質的な職業訓練は、主として民間企業によって行われてきた。新入社員の集団研修、あるいは先輩社員によるOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング=仕事を通しての職能訓練)などである。

すみません、商業高校で簿記を勉強するのは「職業訓練」じゃないんですか?工業高校でロボットのプログラミングを学ぶのは「職業訓練」ではないとでも?学校教育法は高専について「深く専門の学芸を教授し、職業に必要な能力を育成することを目的とする」と定めていますが何か?
もっとも、職業訓練とは「新入社員の集団研修、あるいは先輩社員によるOJTなどである」と定義すれば、たしかに教育に含まれる職業訓練はわずかなものになる(それでも、教育の中には単位付のインターンシップとか、実務実習のようなものが取り込まれてはいます)かもしれませんが、しかし後段の記述をみるとそういうことをお考えのようでもないですし…。

 行政は、さまざまな理由で高等教育を受けることができない若者に対し高度な職業訓練を施してより多くの優れた人材を育てるという発想をつい最近まで持っていなかった。少子高齢化など影も形もなく、若年労働者が常に新しく供給可能で企業も成長し続ける、そんな時代が長かったので、政府や自治体は有益な人材育成のための積極的な公的職業訓練の必要はないと考えていた。

 08年以来の大不況で雇用が激減していることから、政府や自治体は、職業訓練が重要だという考え方のもと、予算を付けて、訓練施設や訓練内容を充実させようとしている。状況は改善されつつあるように見える。だが、政府・自治体の努力がいつ実を結ぶのかわからない。5年後か、10年後か、あるいは20年後かも知れない。今、進路について考え、職業訓練を受けたいと思う若者は、職業訓練のシステムの充実をのんびりと待っているわけにはいかない。

 しかも、公的職業訓練施設で学習し訓練を受ければ必ずどこかに就職できるというわけではない。高収入に結びつく高度な技術や技能がすぐに身につくわけではないし、たとえ資格を得てもそれが必ずしも就職に有利になるわけではない。用意された資格が実社会の需要とマッチングしていないし、民間企業との連携も充分ではないからだ。その点では、西ヨーロッパの先進国に比べると、はっきりと見劣りがする。だが、西ヨーロッパの先進国をうらやんでもしようがない。ほとんどすべての日本の若者は、この国でサバイバルしていかなければならない。

はあそうですか、「西ヨーロッパの先進国に比べると、はっきりと見劣りがする」んですかそうですか。だったら、日本より若年失業率の低い「西ヨーロッパの先進国」ってのがあったら教えてほしいんですが。失業者を公的セクターで吸収している北欧とか、就業率が妙に低くて失業率の比較可能性が疑わしいオランダとかを除くと、たぶんほとんどない(そもそも日本と比較できないような小国のことはわかりませんが)はずなんですが。まあ、なにが見劣りするのか、民間企業との連携なのか、用意された資格の実社会とのマッチングなのか、よくわからないのでなんともいえないのですが、少なくともトータルの若年労働市場のパフォーマンスは、日本は決して悪いほうではありません。
このあたり、むしろ米国シリコンバレーのコミュニティ・カレッジなんかが「用意された資格が実社会の需要とマッチングし」いて「民間企業との連携も充分」に近いものとして一時期紹介されていました。ただ、これはごく大雑把にいえば、企業の求人ニーズがまずあって、日本なら採用してから企業が教育するようなスキルをコミュニティ・カレッジが教育していたというスタイルで、要するに企業の教育コストをコミュニティ・カレッジが負担していた(もっともその運営費には企業からの資金がかなり入っていたとの話もあったと思いますが)わけです。
村上氏も書いているとおり、たしかに現状「公的職業訓練施設で学習し訓練を受ければ必ずどこかに就職できるというわけではない。」。ただ、それは「高収入に結びつく高度な技術や技能がすぐに身につくわけではない」からでもなければ「資格を得てもそれが必ずしも就職に有利になるわけではない」からでもなく(まあ、そういう要素もあることはあるでしょうが)、なにより「求人が足りない、労働需要不足」による部分が大きいでしょう。村上氏は循環要因がほとんど目に入っていないようなのですが、現実に経済が好転して労働需給が逼迫してくれば、「どこかに就職できる」状況が現出するでしょう。そして、良好な就職先が得られれば、能力の向上とキャリアの形成の見通しは開けてくる。もちろん、そういう状況になったときには、職業訓練を受けていた人のほうがそうでない人よりおそらくは「有利」になるでしょう。

 だから戦略としては、この国で用意されている公的職業訓練施設を、「利用」するということになる。たとえば、中卒や高卒で「自動車整備工」を目指す若者は、何の準備もないまま就職するよりも、公的職業訓練施設を出たほうが明らかに有利だ。この『13歳の進路』では、公的職業訓練施設について、できる限り詳しく紹介することにした。

 公的職業訓練施設は、かつて「職業訓練所」と呼ばれていたころの影響もあって、イメージが悪い。だが、少しずつだが、状況は変わりつつある。その分野に興味と意欲がある若者は、かなりの訓練を受けることができる。それに、何よりも経費が安い。また指導員や、ともに学ぶ訓練生たちとネットワークを作ることができる。そして、「モノを作ることにどんな喜びや困難があるか」「働くとはどういうことか」を学ぶことができるのだ。

おや、「有利」ときましたか。それはそれとして、このような影響力のある書籍で公共職業能力開発施設が紹介されることは、非常に有意義であり、まことに喜ばしく思います。まあ、村上氏としてみれば、企業も教育も気に入らないとなれば残るのは公共職業能力開発施設だけということかもしれませんが。
いずれにしても、公共職業能力開発施設はたしかにあまりイメージが良いというわけではないでしょうし、再就職へのパフォーマンスに対する評価もあまり高くはないのが現実のようです。しかし、パフォーマンスが思わしくないのはそれこそ循環的な要因もあるはずですし、各施設の現場の中には意義ある能力開発が行われている例も多い(まあ、すべてが良好だともいえないでしょうが)と聞きます。にもかかわらず、雇用・職業能力開発機構は廃止されてしまいます(まあ、業務は続くようですが)し、中央職業能力開発協会もなにかと「ムダづかい」攻撃の標的となっているのが現実なわけで、村上氏のような影響力ある人がその意義を力説してくれることはまことに時宜にかなったことと申せましょう。けなしてばかりではなく(笑)、ほめるべきところはほめ、感謝すべきところは感謝しなければ。

進路を選びとる

 現在、一般的に、就職は極めてむずかしく、若者たちは、相当の知識や経験や技術がない場合、自らの労働力を安く切り売りすることを迫られる。そして社会に出て働いてみて、多くの若者がはじめてその事実に気づく。不安定な雇用契約で、安い賃金でこきつかわれ、その時点ではじめて、学問や訓練の重要性に気づくことも多い。

 なぜ自分はもっと勉強しなかったのだろう、積極的に資格を取ったり能力を磨いたり、いろいろな人とのネットワークを作ったり、どうしてそういった努力をしなかったのだろうと自問する。チャンスがあればもう一度勉強し直したいし、訓練を受けたいし、能力を磨きたいし、強い資格を取りたい、そう思う若者は多いはずだ。しかし、社会に出たあと、そういった厳しい現実に気づいても、ある程度の経済的な余裕がなければ、再チャレンジはむずかしい。

 公的職業訓練施設は有用ではあるが万全ではないし、実質的な技術や知識を学べる民間の専門学校の学費は決して安くないし、一度社会に出たあとで奨学金を得るのは、絶対数が不足している看護師など一部を除けば、簡単ではない。

 だが、希望する高校に落ちたり、高校を中退してしまったり、専門学校に行く資金がなかったり、大学を出ても就職先が見つからなかったりしても、絶望してはいけない。社会の中で生きのびる、つまりサバイバルしていくのは簡単ではないが、しかし、対応策がまったくないわけではない。その対応策の可能性を探るために、この『13歳の進路』は作られている。

ふーむ、前段で進路指導や雇用問題、学校や企業に対する的外れな議論が続いたわりには、最後はなかなかまっとうな結論になっていますね。
ただ、ここでも妙なことはずいぶん述べられているわけで、とりあえず申し上げれば、「相当の知識や経験や技術がない場合、自らの労働力を安く切り売りすることを迫られる」のは若者に限ったことではありません。むしろこの意味では若者のほうがまだ恵まれているともいえるわけで、なんとか正社員就職にこぎつければ、知識や経験や技術がほとんどなくても実際の仕事を通じてそれを教えてもらうことができ、高くはないかもしれませんが貢献度に較べればずいぶん高い賃金を受け取ることができるわけですから。
で、そうした現実をみると、実はここで(別の場所ではわかりませんが)若者に強く求められているのは「相当の知識や経験や技術」ではなく(若者に相当の経験を求めることのほうが間違ってますよね)、「積極的に資格を取ったり」でもたぶんないでしょう(まあ、司法試験や医師免許のような「強い資格」はおおいにアプリシエイトされるでしょうが)。いっぽうで、「いろいろな人とのネットワークを作ったり」、関心を持ったことを深く調べたり議論したり学んだりといった「勉強」を通じて「能力を磨いたり」することは高く評価されるかもしれません。
もちろん、限られた内容にならざるを得ないにしても、知識や技術を得ておくことは得ないのに較べたらはるかに好ましいことも間違いないわけですが、村上氏の筆力は若者が「勉強」で「相当の知識や経験や技術」を得ることができるとか、積極的に資格を取れば安定した高賃金の職を得られるだろうとかいったことまで納得させかねません。ベストセラー作家の文章はたいしたものです。
さて、最後の「希望する高校に落ちたり、高校を中退してしまったり、専門学校に行く資金がなかったり、大学を出ても就職先が見つからなかったり」という人に対して、それではどう振る舞うべきか、ということを伝えることはたしかに重要なテーマだと申せましょう。で、これはたしかに学校の進路指導ではカバーされないわけですが、行政などの相談窓口はすでにいろいろと設置されています。ただ、そういう窓口には行かない若者でも、人気ベストセラー作家の本なら読んでみようと思うかもしれない。この本の内容が責任ある相談窓口で行われている対応と同様のものであるならば、そこには大きな価値がありそうです。それならたしかに「夢と希望の進路ガイド」といえるかもしれません。
いっぽうで、中学生に対して「進路指導の先生の言うことは聞かなくていいんだよ、先生は言わないけどこの本を読めばもっといい進路がいろいろとあるんだよ」という内容の本だとすれば、これはまことに危険な「悪夢と絶望の進路ガイド」と申せましょう。この本を読んだ中学生が「大作家が言ってるんだから間違いないだろう」と進路指導と異なる進路を選び、その結果が良好でなかったとしても、大作家はなんの責任も取ってはくれないのですから。で、不幸な結果に終わった人へのサバイバルの対応策の可能性もこの本では探っていますよと、これはまあ悪魔のマッチポンプという感じですが…。
まあ、当然のことながら本文を読まなければ評価はできないわけですが、それにしても読む気が起きないんだよな…。