「安定成長期の亡霊」も存在しない

hamachan先生から昨日のエントリにトラックバックをいただきました。

 労務屋さんは野川忍先生の「高度成長期」を、文字通りの高度成長期(1950年代後半から1970年代前半)と捉え、その時期の考え方がそのまま残っていることはないと反論しています。

 しかし、これは、私から見ると、野川先生の用語法がやや雑というか、対象を適切にピンポイント的に捉えていないために生じている一種の対象の錯誤のような感じがします。

 というのは、野川先生が問題だ、と論じておられる考え方が、社会的に正しいものとして確立したのは、高度成長期ではなくてむしろ石油ショック後の安定成長期であるからです。日本型雇用システムを前提とした大企業正社員モデルのさまざまな判例法理が確立するのがまさに石油ショック以後の1970年代であり、1980年代です。本当の高度成長期には、整理解雇4要件もなければ、配転法理もありませんでした。

 このあたりは、わたくしが何回もあちこちで書いてきたところですが、高度成長期には政府も労働側も経営側も、日本的なシステムをもっと「近代化」しなければならないと主張していたのであり、日本的なシステムの方がいいんだという主張が強まるのはむしろ70年代になってからで、最高潮に達するのは80年代だからです。この時期を「高度成長期」とは言いがたいでしょう。

 労務屋さんの指摘する日経連の「能力主義管理」は、まさにこの転換を記すものなので、お二人の話が絶妙に噛み合わないのは、まさにこの所以ではないかと思われます。時代名称として適切な「高度成長期」には、野川先生の言われる「高度成長期型思想」は必ずしも主流ではなく、「高度成長期」ではなくなった70年代以降がむしろ野川先生の問題視する思想が主流化したわけですから。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-3313.html

雇用管理の思想史としてはそのとおりだろうと思います。ということで、hamachan先生によれば、野川先生が「「高度成長期の成功体験の記憶」から脱せない」「「たぐいまれな成功体験」から脱することは非常に困難」などと書かれたのは「やや雑というか、対象を適切にピンポイント的に捉えていない」のですね。端的にはこれなんかがそうでしょう。

(6)「最大の問題は、こうした高度成長期に確立した企業社会の雇用慣行が、「成功体験」と結びついていることである。当時働き盛りで、現在企業の幹部となっている人々には、「あのやり方で日本は豊かになり、経済大国となった。」という意識が強く残っている。

きのうも書きましたが、ツイッターというのは1ツイート140字という非常に制約的なメディアなので、「やや雑」になるのがむしろ当然だろうとは思います。そこでhamachan先生のご教示をもとに私が勝手に書き換えを試みますと、こうなりましょうか。

 高度成長期にたぐいまれな成功体験をもたらした雇用慣行は、70年代から80年代にかけてそれを前提とした判例法理なども確立し、欧米のそれより優れたものだと考えられるようになった。最大の問題は、この70年代から80年代に働き盛りで、現在企業の経営者・役員となっている人々にいまだに日本のやり方が優れているという意識が強く残っていることだ。

こういうことなのでしょうか?違うのかもしれませんが、一応こういうことだとすると、私としては依然として「本当にそんな人がそんなにいるのだろうか?」と疑問を持たざるを得ません。
というのは、きのうも書きましたが、日本企業は「高度成長期に確立した企業社会の雇用慣行」を、その後の経済危機のたびにモードチェンジしてきたからです。『能力主義管理』がそうですし、『新時代の「日本的経営」』もそうでしょう。もちろん、これはモードチェンジとは言ってもバージョンアップレベルのもので、オペレーションシステムをドイツやEUのようなものに変更するような大規模モードチェンジではないわけですが、それにしても日本の企業経営者は日本の雇用慣行にそれなりに疑問を持ってきたことは間違いありません。しかも、その過程では欧米の人事管理の導入もつねに検討され、試みられてきました。最近の成果主義騒ぎの頃を思い出しても、エンプロイヤビリティだのコンピテンシーだのバランスド・スコアカードだの、あれ一体どこ行っちゃったんでしょうね?カタカナ言葉でなくても、年俸制とか退職金前払い制とかもありましたよね?
こうしたトライアル・アンド・エラーを通じて、ときには(成果主義騒ぎのときのような)高い授業料を払い、労使の対話を行いながら、それなりに日本型雇用慣行を手直ししつつ今日まで来ているわけです。これは少なくとも経験的事実に基づいて現行のやり方を合理的に選択しているのであって、70年代から80年代の日本礼賛論をいまだに強く意識しているからやり方を変えないということではないと思います。
もちろん、いかにそれが企業にとって合理的でも、社会的にその変更を要請すべきだという議論は別途ありうると思います。もし、基本的な価値観について合意が形成できるのであれば、企業の判断にはやり方を変える際のコストが織り込まれている可能性があり(というか確実に織り込まれているでしょう)、それを社会的に分担することで変更の要請が受け入れられる可能性もあるからです。これはきのうも書いたように理屈の議論になるわけですが、そのためには「企業経営者は高度成長期の成功体験を忘れられないほどのバカではないにしても、70年代から80年代の日本礼賛論をいまだに盲信しているほどのバカである」という前提は変更していただく必要があるでしょう。