北大の橋本努先生のサイトで、「現代経済をめぐるイデオロギー状況」という非常に興味深い資料を発見しました。北海道大学大学院経済学研究科・公開講座資料2009とのことです。
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Economic%20Ethics%20=%20What%20is%20your%20Ideology%20Ch-1.pdf
まず最初に経済倫理をめぐる四つの問題、A(利益vs道徳)、B(原理としての善vs秩序としての善)、C(自由な関係性(連帯/家父長制)vs人為的なリベラル制)、D(包摂主義vs非包摂主義)が提示されます。それに続けてそれぞれの問題に関わる論争的な具体例が提示されます。受講者はこれらについて自分の意見を考え、それぞれの問題についてどちらの立場を取るのかを確認します。そして最後に、その結果から受講者がいかなる倫理的立場・イデオロギーの類型に含まれるかを判定しようという趣向のようです。まことに興味深い内容と申せましょう。なお参考図書として橋本先生の『経済倫理=あなたは、なに主義?』講談社メチエ、2008年があげられています。
最後には四つの問題の主要な争点が一覧にまとめられていて、私たちはそれぞれの問題についてXなのかYなのかを確認し、その後の分類表で該当するイデオロギーを知ることができます。まことに興味深いので、ここでそのままご紹介させていただきたいと思います。
まず、A〜Dの主要な争点です。
A(X:利益 vs Y:道徳)
X:利益
(1)企業は経済的合理性を追求しうる。経済制度は純化すべきである。
(2)創造的破壊によって社会の進化をもたらすべきである。
((5)政治的市民=主体の経済的自立を目指すべきである。)
Y:道徳
(3)経済社会は一定の商慣行に埋めこまれた倫理的なものになるべきである。
(4)企業は社員の生活の倫理的包摂を目指すべきである。B(X:原理としての善 vs Y:秩序としての善)
X:原理としての善
X−1:公正
(1)原理的公正派(経済秩序が収縮・崩壊するとしても、公正を貫け。政策運営にコストがかかるとしても、公正を貫け。)
(2)特殊共同善派(秩序全体が収縮・崩壊するとしても、地域ごとの共同善を守れ。)
X−2:その他
(5)原理的自由派(経済秩序が収縮・崩壊するとしても、自由を貫け。)
(6)原理的革命派(強者は没落すべきであり、弱者は浮上すべきである。)
Y:秩序としての善
Y−1:安定・成長
(3)秩序派(低所得層の厚生水準を悪化させないために、高所得層をいっそう利してでも、現行の秩序を維持せよ。)
(4)成長派(国民経済の持続的発展という観点から望ましい政策を判断せよ。市場の活況や雇用の促進を殺ぐような「公正」の要求を退けよ。)
Y−2:その他
(7)保守派(経済が衰退するとしても、既存の家父長制道徳を維持・回復せよ。)C(X:自由な関係性(連帯/家父長制) vs Y:人為的なリベラル制)
X:自由な関係性(連帯/家父長制)
・連帯の価値を守れ。
・内部告発は背徳行為である。
・談合は自生的慣行としての「理」をもつ以上、「必要悪」として認めよ。
・家庭内の封建道徳は個人の私的自由として認めよ。
Y:人為的なリベラル制
・個人の自己責任原則を貫け。
・内部告発者を救済せよ。
・すぐれた入札システムの開発によって談合を阻止せよ。
・家事労働の有償化計算を奨励し、私的次元での男女対等社会を実現せよ。D(X:包摂主義 vs Y:非包摂主義)
X:包摂主義
(4)倫理家(政府は企業の活動を道徳的に制約ないし促進して、これを倫理的国家全体のなかに位置づけなければならない。)
Y:非包摂主義
(1)信条家(企業は自らの信条において自由に行動すべきである。信条のある人が、長期的な視点を持って行動すればよい。)
(2)願望家(長期的視点をもった企業が自生的に増加することによって、短期的利益のみを追求する企業は、市場で淘汰されればよい。)
(3)利己主義者(企業は、短期・長期の利益について、自由に自己責任をもって判断すべきである。)
いかがでしょうか。各人がA〜DそれぞれについてXかYのどちらを選択したか、その結果を下の「倫理的立場の分類」にあてはめて検証するわけです。
A B C D 新保守主義(ネオコン) Y Y X X/Y* 新自由主義(ネオリベ) X Y X Y リベラリズム(福祉国家型) X Y Y Y/X** 国家型コミュニタリアニズム Y Y X X 地域型コミュニタリアニズム Y X X X リバタリアニズム(自由尊重主義) X X X Y マルクス主義/啓蒙主義(1) X X Y X 平等主義/啓蒙主義(2) X X Y Y 近代卓越主義 Y Y Y Y 共和主義 Y Y Y X 耽美的破壊主義/支配者嫌悪主義 Y X Y Y 国家型ディープ・エコロジー X X X X 開発(独裁)主義 X Y X X 市民的コミュニタリアニズム Y X Y X 地域コミュニタリアン・アナキズム Y X X Y *新保守主義は、女性の優先雇用や解雇権の制約には消極的なので、DについてはXとYの混合を支持する。
**リベラリズムは、Dの包摂主義の政策を、もし「主体の自律化」のための温情的な措置であると捉えるならば、Xに賛成するかもしれない。Xを包摂とみなさず、自律支援とみなす場合もある。
それぞれの分類の解説も資料には記載されていますので、確認されたらぜひ資料で解説もお読みください。
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Economic%20Ethics%20=%20What%20is%20your%20Ideology%20Ch-1.pdf、9頁下段以降。
さて当然ながら私もやってみたわけですが(笑)、結果はこのブログを読みつづけておられる方なら見当がつくでしょう。いや新自由主義(ネオリベ)なんですが、若干微妙でリベラリズム(福祉国家型)に近くもあります。
具体的には、まずAについては括弧付の(5)政治的市民=主体の経済的自立を目指すべきである、というのがいちばん当てはまってまして、本ブログでも国家はすべての国民が就労を通じて自立することを目標せよと主張しているとおりです。
- (7月19日追記)ここは字面だけをみて誤読していたかもしれません。いずれにしてもこの争点については私は「利益」を支持しますので結論は変わりません。私の意見は下にある「経済に対しては、人々が自律するために必要な厚生水準(所得や公共サービスの水準)を求める」にしても、それは原則として就労の促進を通じて達成されるべきであって、国家はそれに対する支援は行うべきとのものです。就労不能・困難者に対しては別途の福祉的支援も必要と考えますが。
Bについては(4)成長派(国民経済の持続的発展という観点から望ましい政策を判断せよ。市場の活況や雇用の促進を殺ぐような「公正」の要求を退けよ。)ないし(3)秩序派(低所得層の厚生水準を悪化させないために、高所得層をいっそう利してでも、現行の秩序を維持せよ。)で、いずれにしてもY−1です。経済活性化が最大の雇用対策であるという立場と整合的と思います。
Cが実は微妙なところで、「連帯の価値を守れ」「内部告発者を救済せよ」「すぐれた入札システムの開発によって談合を阻止せよ」「家庭内の封建道徳は個人の私的自由として認めよ」に同意、「個人の自己責任原則を貫け」「内部告発は背徳行為である」「談合は自生的慣行としての「理」をもつ以上、「必要悪」として認めよ」「家事労働の有償化計算を奨励し、私的次元での男女対等社会を実現せよ」に不同意です。ただ最後の「私的次元での男女対等社会」への抵抗感が強いのでどちらかといえばXかと。繰り返し「あらゆるすべての男女が等しく働き、家庭責任も等しく担うべきといった画一的な発想はかなりヤバい感じのする社会像」だと主張しているとおりなのですが、もちろんそうは考えない人もいるのでしょう。
Dについては私は(2)願望家(長期的視点をもった企業が自生的に増加することによって、短期的利益のみを追求する企業は、市場で淘汰されればよい。)ないし(1)信条家(企業は自らの信条において自由に行動すべきである。信条のある人が、長期的な視点を持って行動すればよい。)です。まあ願望といえば願望かもしれませんが、私はそれなりに市場の働きを(政府に較べれば)信頼しており、それがうまく働くようなしくみを作るのが政府の役割と考えています。たとえば短期的利益のみを追求する企業が淘汰されるよう、短期保有株主の権利を制限する、といったことです。
ということで「福祉国家よりのネオリベ」という結果が出たわけですが、これについての橋本先生の解説はこうなっています。
■新自由主義(ネオリベ)
1980年代以降の先進諸国の経済政策の理念。自由化による経済秩序全体の成長を企て、道徳的には中間集団(家族・企業・アソシエーション)における家父長制を容認し、国家は人々を倫理的に包摂すべきではないと考える。
■リベラリズム(福祉国家型)
経済的には、福祉の公平な配分を求め、政治的には、人々が「自律した主体」になることを「自由」とみなす立場。経済活動における封建的な商慣行を認めず、経済活動よりも政治活動においてこそ、人々は自律した主体になることができると考える。したがって、この立場は、経済に対しては、人々が自律するために必要な厚生水準(所得や公共サービスの水準)を求める。
こう説明されてみると、この中間(いずれにしても、すべての人がそれぞれの典型であるわけはなく、どこかの中間地点に位置する人のほうが多いはずでしょう)というのはそれほど矛盾した位置ではなく、自分自身でもかなり納得のいく、なるほどそうだよなあという結果のように思います。それにしても、これは世俗的に言われるところの「保守おやじ」にまことにフィットする結果ではないでしょうか。ほぼ初見でそう喝破した稲葉先生の慧眼にはあらためて敬服するよりありません。