稲葉振一郎『AI時代の労働の哲学』

 『キャリアデザインマガジン』12月号(通巻145号)に寄稿した書評を転載します。内閣府の「人間中心のAI社会原則」は(タイトルどおり)「AIは道具」と断言していますし、最近人工知能学会などが発表した「機械学習と公平性に関する声明」も「機械学習は道具にすぎません」と言い切っているわけですが、しかし現実には「人でも物でもないAI」といったものが登場しないという保証もありません。想像をたくましくすれば、選挙以外の方法で指導者が選ばれている一党独裁国家なんかだと一定以上の国家指導者層が軒並みAIになってもあまり違和感なく世間は動くのではないかなどと妄想しなくもない(本当に人間並みAIができて選挙権を持つようになれば選挙で選んでもそうなるかも?)。
 なお本書では「人でも物でもないAI」を考える補助線として動物倫理学が参照されており、私は動物倫理学については「まあクジラやイルカは人間と同じだと考える人というのは世界にたくさんいるわけでその範囲が動物全体に広がったようなもんか」などと乱暴にも想定していたわけですが、逆の方向に広がって一部の人間はクジラ並みでいいだろうという話にもなりかねないのだとしたらたしかに怖いなあと思いました。
 まあ、まるっきりのこなみかんですが。

AI時代の労働の哲学 (講談社選書メチエ)

AI時代の労働の哲学 (講談社選書メチエ)

 なお私はなぜかヘナヘナっと終わるスタイルの書評が好きで、かつて「書評は堂々と終わりなさい」とのご指導もいただいたのですが、まあ好きなものは仕方ないということでご容赦ください(なんのこっちゃ)。

『AI時代の労働の哲学』 稲葉振一郎著 講談社 2019.9.10

 米オックスフォード大学のフレイとオズボーンは、2013年に発表した論文の中で「米国の702職種の雇用のうち47%が、10年~20年でAIに置き換わる」と予想し、わが国でも野村総研が2015年に「日本の労働人口の49%が今後20年以内にAI・ロボットに代替される可能性が高い」との予測を発表した。経済学者の井上智洋氏は将来的に人口の1割しか就労しない「純粋機械化経済」の可能性を指摘している。
 これに対し、OECDが2016年に発表したレポートでは、1人の人の仕事の中に「代替されうる部分」と「代替されにくい部分」とが共存していることに着目して分析し、「代替されうる部分」が仕事の7割を超える人は働く人全体の約1割にとどまることから、今後の新産業創出による新規雇用増も考えあわせれば雇用総量の問題は大きくないと結論付けている。今のところ、AI時代の労働の姿を見通すことはなかなか難しいようだ。とはいえ、これが社会のありように大きな影響を及ぼす可能性を持つ技術であることもまた確からしく思われる。
 この本は、人工知能技術が労働や社会、生活に及ぼすインパクトについて直接考察するのではなく、それを考える際にどのような「知的道具立て」を既に持っているか?を点検する本だという。まず「1」では、スミス、ヘーゲルマルクスらにさかのぼって「労働」の概念が整理される。「2」ではローマ法に源流を求めつつ、近代における雇用と労働、そして産業社会(論)の変遷がまとめられる。続く「3」からは技術と労働に関する論点へと移る。まずは昨今のAI技術と、労働をめぐる議論について概観したあと、産業革命以来「新技術と労働・雇用」という「古くて新しい問題」がどう論じられてきたのか、そして経済と産業社会は実際にどのように変容してきたのかが振り返られる。さらに「4」ではマルクスの「疎外」ををふまえて、産業社会にとどまらない「社会」全体に対して技術革新がどう影響してきたかが確認される。ここまでの暫定的な結論は「これまでも技術革新はわれわれの社会を大きく変化させてきたし、今回の人工知能技術においても、それが便利な道具にとどまるかぎりはこれまでの技術革新と大きく異なるものではない」ということになるようだ。
 「5」では、近代において一般的とされている「人/物の二分法」、人は人間であるゆえに平等な権利を持ち、物は人が使うもの、という二分法を人工知能技術が揺るがしていく可能性について論じられている。自律的に意思を持って動き、感情も有するような人工知能機械が仮に実現したとしたら、それには単なる「物」とは異なる(法的な)権利や義務、責任などが想定されるべきであるかもしれない。そのとき「人/物の二分法」はどうなるのか、動物倫理学のアナロジーなどを通じて議論され、「近代的な「人権」理念はどこまで守り切れるか」「人間社会はふたたび身分制的なものに変化していかざるを得ないのではないか」と懸念が示される。
 最後の「エピローグ」は、しかし「1」から「5」のどれよりも長い。ここでは「AIと資本主義」について「予備的に」論じられる。なるほど、産業革命が本格的な資本主義社会を成立させたことを思えば、人工知能技術がこんにちの資本主義に変化をもたらすことは十分に想定されるだろう。ここでもまた「資本主義とは何か」に立ち返っての議論が展開され、格差拡大などへの懸念は繰り返し表明されている。
 書名は「哲学」となっているが、経済学や法学、社会学などを統合した議論が展開されている。未来像に対する言及もあるし、多くはあまり明るい記述でもないのだが、しかし「懸念」の表明にとどまっていて予測・予想といった踏み込み方はされていないように思える。まことに謙抑的な姿勢が一貫しているように思われ、なるほど「知的道具立て」の概観整理という感を受ける(それが物足りないという読者もいるのだろうが、これはそういう本なのだろう)。AIと労働に関する議論はあちこちで行われており、今後、技術進歩にしたがって好むと好まざるにかかわらずそれに(たとえば政治的に)「巻き込まれる」、参加を余儀なくされることも十分に想定されるだろう。そうしたときに、根拠のはっきりしない将来予測を並べるよりは、本書にまとめられたような過去の歴史、そこから生まれた概念や思想といった「知的道具立て」≒「哲学」(?)で理論武装するほうが有意義ではないだろうか。マルクスが頻繁に参照されていることもあり、多くの読者にとっては決して読みやすい・親しみを覚える本ではないはずだが、しかし読む価値の大きい本ではないかと思う。
 仕事の必要があって(なぜだ)トム・ミッチェルやマックス・テグマークといったAI研究のスーパースターの講演を聴講したことがあるが、私には彼らは自分たちが開発している技術は社会を破壊するものではなく、よりよいものにするために役立つものなのだと楽観的に確信しているように思えた―――おそらくそうなのだろう。産業革命の際に、それで生活のすべを奪われると感じた人たちによる打ちこわし活動が起きたこと、そしてそれが結局無為に終わったことは、こんにちまた繰り返し指摘されている。技術の進歩に逆らうことは最終的にはできないのだ、ということだろう。たしかにそのとおりだろうが、しかし速度をコントロールすることは大切なことのように思える。社会の変化の速度についていけない人々からは、変化への抵抗が起きるだろう。それを通じて速度を調整することは、案外変化の向かう行き先の如何と同じくらいに重要なのではないだろうか。そんなことも考える今日この頃ではある。

AI時代の労働の哲学 (講談社選書メチエ)

AI時代の労働の哲学 (講談社選書メチエ)