中村圭介「企業は、「大騒ぎ」を利用してモードチェンジしてきた」

海老原嗣生さんの『雇用の常識「本当に見えるウソ」 』に、中村圭介先生が短いエッセイを寄せておられます。言い得て妙と申しますか、なかなか鋭い見方を示しておられるのでご紹介したいと思います。

 日本型雇用の崩壊については、過去3回大きく騒がれたことがあります。1960年代の資本・貿易自由化時、75年のオイルショックから安定成長への移行期、そして90年代のバブル崩壊期です。ただ、この3回の大騒ぎを経ても、「長期勤続」と「年功賃金」、「新卒一括採用」と「定年」などの日本型雇用は崩れなかった…ではなぜ、壊れもしないのに日本型雇用は崩壊する崩壊すると騒ぐのか…
 一つには、…壊れてほしくない、という不安がある…いつの時代でも、「10年後に日本型雇用は崩れているか」という問いに「YES」と答える人の数が非常に多かった。つまり不安を持っていた。その不安に対して「壊れる」とリードすることは、マスコミ受けがかなり良かったのでしょう。
 もう一つ。…日本型は遅れている・良くないという思い込みが、一方でまた強く浸透していることもあります。…
 最後の一つですが、これは、この騒ぎを利用して、経営を緩やかにシフトチェンジすることが、日本企業の得意技であり、この点で「大騒ぎ」が社会的にも有益だった…60年代は電産型年齢給がまだ浸透しており、個人評価が難しい…これを能力給へと進化させることができた。75年代以降…ポスト不足が問題となっていた…職能資格制を取り入れ、担当課長(部下なし)を導入して乗り切った。90年代以降は過度の下方硬直性で給与が高止まりする部分を、緩やかな成果主義により、何とか改善した。基本構造としての「年功・終身雇用」は40年変わらないのですが…シフトチェンジを15年に1回程度しないと会社は回りません。このシフトチェンジを潤滑に行うために、「大騒ぎ」は必要な通過儀礼だったのでしょう。
海老原嗣生(2009)『雇用の常識「本当に見えるウソ」』プレジデント社、pp.42-43)

うーん、まことに言い得て妙と申せましょうか。中村先生は経済危機のたびに日本的雇用崩壊騒ぎが起こる理由として3点あげておられますが、第一の「マスコミが不安を煽る」については、まことにそのとおりでありましょう。実際、90年代末から00年代初めの日経新聞などはひどいもので、「かつてのエリートサラリーマンが失業して路頭に迷った、これから日本的雇用で働いていた人は全員そうなるのだ、ざまーみろ」みたいな記事を嬉々として垂れ流していたわけで(言い過ぎか)。もちろん、これを喜ばせて商売をしようという評論家のたぐいもゾロゾロいたわけで、まあそれはそれが彼らのメシのタネなんですから当然といえば当然なわけですが。逆に、日本経済が好調な時期には、マスコミは日本型雇用を実態以上に賞賛する傾向も感じられるわけで、これはこれで警戒が必要ではありましょう。
「日本は遅れているという思い込み」についても、やはりそのように感じられます。これには2種類あって、「日本型は遅れているから、アメリカのようになるべきだ」という人たち(宮内義彦さんとか)と、「日本型は遅れているから、大陸欧州や北欧のようになるべきだ」という人たちとがいます。もちろん、少数ですが中国のようになれとか、シンガポールのようになれとか、旧ソ連北朝鮮のようになれとかいう珍しい人もいるでしょうが…。で、ときどき書いてますが、これは必ずしも(新)自由主義社民主義かといったイデオロギーとは一致しないのも面白いところです。
「最後の一つ」が中村先生の眼目でしょうが、得意技かどうかはともかく、「大騒ぎ」が起こる中で企業がそれにうまく乗って?シフトチェンジを行った、ということはあるかもしれません。まあ、利用したというよりは、「大騒ぎ」が起こる中で、企業はなんとか日本的雇用を大筋で維持するようがんばってきた、というほうがより実態に近いような気はしますが。
さて、今また「日本型雇用の崩壊」的な言説が自由主義者からも社民主義者からも聞こえてきますが、企業の動きはまだ比較的漸進的なものにとどまっています。歴史は繰り返すとすれば、今回もまた日本的雇用はファインチューニングを加えられつつ存続することとなりそうですが、はたしてどうなるでしょうか。

雇用の常識「本当に見えるウソ」

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