八代尚宏『労働市場改革の経済学』

「キャリアデザインマガジン」第89号に掲載した書評を転載します。

労働市場改革の経済学

労働市場改革の経済学

 著者は長年にわたって規制改革会議や経済財政諮問会議など政策の分野の第一線で活躍し、近年のいわゆる「構造改革路線」の中で大きな存在感を発揮し続けている。とりわけ雇用問題においては、著者の専門分野であるだけに、他のエコノミストたちとは一線を画する現実を踏まえた的確な議論を展開してきた。本書は、著者の名著として知られる『日本的雇用慣行の経済学』の基本的な考え方を、その後の日本の労働市場問題にあてはめたものであるという。
 世間では往々にして「日本的雇用慣行は公平だが非効率」といった俗論が聞かれるが、著者は『日本的雇用慣行の経済学』の当時から一貫して「日本的雇用慣行はとりわけ人材育成の面において非常に効率的」と主張していた。その一方で、これはその内部にいる人相互にとっては公平でも、外部にいる人にとっては非常に不公平であり、近年その不公平が拡大していると指摘する。すなわち、労働市場における対立の構図は、世間で広く考えられているような古典的な「資本−労働の対立」ではなく、日本的雇用の内部にいる正社員とその外部にいる非正社員との「労・労対立」であり、この本ではこの構図のもとで現状の問題を分析し、対策を提言している。この論点整理は的確なものであり、したがって各章における個別問題の現状把握と政策提言もおおむね適切なものとなっているように思われる。
 序章および第1章では、これまでの日本的雇用慣行の優位性(成功体験)とそれにともなう「労・労対立」の構図、および日本的雇用慣行の前提とされてきた経済・社会環境の変化について述べられる。第2章では日本的雇用慣行が必然的に非正社員が必要とされることとそれに伴う問題点、そのすべてを正社員化することは現実的ではなく、非正社員の規制ではなく正社員と非正社員の制度的な違いを小さくすることが必要であると主張される。第3章では特に派遣労働について、その禁止や規制ではなく、それを働き方の選択肢として社会的に認知し、未熟練の非正社員から熟練した正社員への懸け橋とすることができるような人材ビジネスの健全な育成を求めている。
 第4章では、あらためて日本的雇用慣行の経済的合理性について説明したうえで、昨今の環境変化の中で発生しているその弊害を紹介し、日本的雇用慣行が大半を占める現状を維持するような政策ではなく、多様な働き方の中の自由な競争を通じてそれが適切な割合に収斂していくような政策が必要と訴える。 第5章では少子化問題をとりあげ、その最大の原因が出産・育児にともなう女性の機会費用にあると指摘し、共働きを前提とした社会制度・雇用慣行とすることが避けて通れないと述べる。第6章ではワーク・ライフ・バランスが取り上げられるが、ここでも従来のような拘束の強い日本的雇用とは異なる、労働時間が短く柔軟で拘束の低い働き方を増やすことが主張される。また、働き方の自由度を高めると同時に労働時間の総量規制をともなうホワイトカラー・エグゼンプション制の導入を求めていることが注目される。第7章では高齢化が進む中でのエイジフリー政策について述べられる。日本的雇用の年功的処遇、とりわけ定年制が高齢者雇用の障害となっていると指摘したうえで、一定の解約条件付きの正社員という「中間的な雇用契約」を高齢者に導入することで定年制の廃止が可能となると主張する。
 第8章では、非正社員が増加する中での社会保障、セーフティ・ネットのあり方が論じられる。雇用保険の加入資格を拡大するとともに、給付については就労時の収入や保険料の水準にかかわらず最低生計費をまかなうためのフラットなものとすべきとされる。また、生活保護制度に関連して、就労促進的な給付付き税額控除の導入を提案している。
 最後の第9章では、労働行政について、職安業務の地方への移管や民間への解放を求めている。また、現行の公労使三者構成による労働政策審議会が機能不全になっており、専門家の助言に基づく直接の利害関係者を排した労使のトップダウンでの政策決定が求められているとしている。
 全体を通じて、わが国の労働市場・人事管理の現状把握と問題点の整理、その背後にある構造的課題などについての指摘は概ね的確なものであり、提示されている施策もほぼ適切で、現実にそうした方向に進んでいるものも少なくない。労働市場を市場原理で単純に割り切ろうという論調が労働研究者でない経済学者に間々みられるが、さすがに労働研究の第一人者である著者はそうした議論に陥ることはない。特に注目されるべきは、著者はさまざまな問題の原因として日本的雇用慣行を指摘しつつも、それを全否定するのではなく、むしろそれが適合する職種などにおいては積極的な評価を与えて今後も雇用の選択肢として位置づけている点である。労働研究者でない経済学者がともすれば日本的雇用慣行を全否定する例が目立つのとは対照的であろう。やはり往々にして混乱に陥りがちな「同一労働・同一賃金」についても、単純な職務給論者とは一線を画し、かなり念入りにわが国の労働市場の実態をふまえた議論を展開している。
 いっぽう、本書は昨今の規制強化、労働市場改革のバックラッシュに対する警鐘という位置づけを意識されていることも容易に読み取れる。そのため、展開される議論や提案される政策が、その方向性は適切であるにしても、程度問題としてやや極論に走ったり行き過ぎたりする感があることは否定できない。典型的には、日本的雇用慣行の弊害が強調されすぎた結果、有効性が過小評価されて明らかに現状を逸脱しているし、そのほかにも、個別に細かくみれば行き過ぎと思われる提言も多々みられる。これは、現実にあまりに過度に日本的雇用を維持しようとする反動的政策が進みつつある現状に対する危機感ゆえに、あえてバランス感覚を犠牲にしたものと解したい。
 この手の本はともすれば極論部分のみが目立ってしまいがちであり、それのみを読み取ると不毛の議論に陥りがちであるが、極論の書であることを念頭において、バランス感覚に留意して読み進めれば極めて有益な内容を多く含んだ本である。特に現状分析はかなり的確であり、多くの人に広く参考となる本としておすすめしたい。