宮本・勝間対談(その3)

宮本・勝間対談(その3)行きます。

−−終身雇用の役割として、技術の伝承がある、との指摘もあります。
 
 宮本 ITが代替する部分はあると思いますし、北欧などを見ていても、職場の情報をいかにシェアしていくか、ということをうまくやっていくこともできると思いますが、他面においてそれで解消できない、いろいろな伝承はやはり残ると思うんです。そこは両にらみだと思います。
 
 勝間 常々疑問に思っているのは、本当にそこまで会社の中で抱え込んでいる技術がどれだけあるんですかということなんですよ。逆にスキル自体は、会社から離れても活用できるようポータブルにすべきだという考えです。やはりコミュニケーションとか問題解決、情報収集など、どこでも使えるような能力の開発が、今の日本は学校教育を含め、非常に弱いんじゃないでしょうか。

はあそうですか。「常々疑問に思っているのは、本当にそこまで会社の中で抱え込んでいる技術がどれだけあるんですかということなんですよ。」ときたもんだ。まあ、エースストライカーの勝間さんからみれば、長期雇用で着々と熟練を積み上げている会社員なんてみんなバカに見えて仕方がないのでしょう。そんなこと私ならすぐにできるわ、と。でも、会社の中で抱え込んでいる技術がどれだけもないのだとしたら、どうして特許制度があって紛争が多発しているんですか。どうしてあちこちで技術提携が行われるんですか。どうして中国は海外企業の進出にあたって「技術移転」にあれほどこだわるんですか。どうして企業をスピンアウトしたコンサルタントが喰っていけてるんですか。勝間さんは疑問に思われるかもしれませんが、しかし「会社の中で抱え込んでいる技術」は多くの企業にとって生命線です(もちろん、業種・企業によってはそうでないこともあります)。
同様に、「会社から離れても活用できる」「ポータブル」なスキルを組み合わせただけでビジネスが成り立って、多くのコンペティターの中で生き残っていけるかといえば、なかなかそうでもないでしょう。もちろん、それで成り立つ部分もあるかもしれませんが、ライバルに勝とうと思えばライバルにはないものを持つ必要があります。それまで「ポータブル」だとすれば、あとはカネの力でそれを持つ人を引き抜いてきた企業が勝つということになるわけで、そうならないようにするためには、「自社では大いに役に立つけれど、他社に移るとそうでもない」という人を増やすというのが一つの戦術です。それはなにも先端技術の開発や新商品の企画といった分野だけではなく、より地味な現業部門においても同様でしょう。もちろんこれは長期雇用との親和性が高く、それなりに弊害もあるので勝間さんや宮本先生のお気にめさないかもしれませんが、しかし有力な作戦であることも間違いありません。特定の価値観で判断せず、利害をよく考えてるべき問題でしょう。
「コミュニケーションとか問題解決、情報収集など、どこでも使えるような能力の開発が、今の日本は学校教育を含め、非常に弱い」というのも本当かなあと思うわけですが、まあこうした能力が大切であることは間違いありませんので、その育成が不足しているのであれば政策的な後押しが必要かもしれません。

 宮本 なぜあんなつまんない受験勉強をやらせるかというと、やりたいことがある若い盛りにそれを我慢してつまんないことを徹底してやる能力を試しているわけですね。そこまで自己コントロールできるんだ、よしこれは見込みがあるぞ、という合格印が偏差値なんですね。後は企業が好みのやり方で仕立てていく。ここを根本から転換してもらわないと困る。ただ、いつでも、そつなく自分をアピールできてということを、みんながみんなそれを要求され、その度合いで人間が測られるというのも厳しい面があるかなという懸念はあります。

「なぜあんなつまんない受験勉強をやらせるかというと、やりたいことがある若い盛りにそれを我慢してつまんないことを徹底してやる能力を試しているわけですね。」けっこういるんですよねぇ、したり顔でこういうことをもっともらしく言う人が。証拠をみせてくれ、証拠を。「そこまで自己コントロールできるんだ、よしこれは見込みがあるぞ、という合格印が偏差値なんですね。後は企業が好みのやり方で仕立てていく。」なんて、本気で言う経験10年の現役採用課長を、10人とは言わない、1人でいいから連れてきてくれ*1
それにしても、どうしてこういうことになってしまうのでしょうかねぇ。思うに、「努力すればそれだけ報われるものだ(べきだ)」という強固な考え方があるからなのでしょうか。それはたしかに理想ではありますが、しかし現実はそうではないことも事実なわけで…。
とりあえず、「やりたいことがある若い盛りにそれを我慢してつまんないことを徹底してやる」ことで偏差値60を達成する人もいれば、野球部のエースで甲子園まで行って、それで偏差値も65だという人だっているわけです。偏差値なんてしょせんそんなものであって、それを自己コントロールの合格印として使うなんてのはおよそ科学的ではありません。まあ、宮本先生は企業の採用なんてその程度の非科学的なものだと思っているのでしょうが。というか、入学試験の得点順に合格させている北海道大学は、やりたいことがある若い盛りにそれを我慢してつまんないことを徹底してやる能力を試してそこまで自己コントロールできるんだ、よしこれは見込みがあるぞ、ということで入学させているということですね。id:genesisさんがさぞかし嘆かれることでしょう(genesisさん、失礼をご容赦ください)。
たしかに、大学のブランド、難関校に合格したという現実が、知的能力を示すシグナルになっていることは否定できません。しかし、現在それが企業の採用判断でどれほど重要かというと、それほどでもないでしょう。プロセスも重要で、(表現技術として偏差値を使うのは忸怩たるものがあるのですが)それこそつまんない受験勉強を徹底的にやって3浪して偏差値65の大学に入りましたという人と、高校3年秋の文化祭までクラブ活動に熱中して、ろくに受験勉強もせずに偏差値63の大学に入りましたという人がいたとすれば、他の条件が同じだとすれば後者を採用する採用担当者のほうが圧倒的に多いのではないかと思います(印象ですが)。まあ、宮本先生のお考えのように、苦労と挫折の経験を買って前者を採用する人もいるかもしれませんが…。いずれにしても入学後の経験も大いに重視されるわけで、むしろ多くの企業では大学の銘柄、偏差値が2違うとか3違うとかいった細かな上下よりははるかにそちらを重視しているでしょう。法学や経済学をきちんと学ぶことによって得られるリーガル・マインドや実証の考え方といったものは、企業での仕事に大いに役立つでしょう(法律・経済の知識は直接には役に立たなかったとしても)。優れた教員のもとでの演習は、「コミュニケーションとか問題解決、情報収集など」といったスキルを伸ばすうえで非常に有意義です。クラブ活動などの課外活動についても、それを通じてどんな経験をしてどう成長したのかは大切な要素でしょう。要するに偏差値だけで採用している企業なんてほとんどないだろうということです。
というか、そもそも「あんなつまんない受験勉強」とか、受験勉強をつまらないものと決め付けてしまうのはなぜなのでしょうか?宮本先生は受験勉強がつまらなかったのでしょうか。予備校だって受験テクニックを教えるばかりではなく、あの先生の講義は面白いとか、感動したとかいう著名講師がいるわけですし…。まあ、試験勉強がそれほど楽しいわけもなく、関心の薄い教科を受験のためだけに勉強するのは面白くないでしょうが、しかし勉強というものは本来面白いものなのだ、というのは大学教授なら譲れない一線ではないかと思うのですが…。(すみません、これは完全ないいがかりでした)

−−労組の力が弱まっていることの影響は。
 
 宮本 労組は今まさに危急存亡の分岐点にあります。
 
 勝間 企業別労組だからですよ。
 
 宮本 それではもうもたないというのは、連合のみなさんもよく分かっている。今、雨宮処凛さんは、インディーズ(独立)系労働運動をやってますけど、若い人たちのまったく自由かったつな労働運動が非常に盛り上がってきている。労働組合運動は、企業別の枠を出ないと生き残れない。雇用システムあるいは労働市場全体のコーディネーターになっていかなければもたないという状況になっている。

労組の話はこれだけですが、私はむしろ労組の生きる道は企業別労組だと思っています。それは長期雇用慣行の修正維持を念頭においているからであり、それを消滅させたいお二方と意見が異なるのは当然でしょう。実際には、私も宮本先生がお考えのようなネオ・コーポラティズムも全面否定ではない、というかかなり魅力を感じる部分もあるのですが、とはいえ多様化が進む中ではやはりローカル化の方向性だろうと思います。まあ、宮本先生は多様化にも懐疑的、というか「ディフェンダー」への画一化をむしろ志向している感もありますので…。なお、「若い人たちのまったく自由かったつな労働運動」はローカル化には向かいそうもありませんが、しかしネオ・コーポラティズムに向かうかどうかも微妙な感じがします。

−−雇用対策拡充の財源として、消費税は考えられますか。
 
 宮本 消費税が低所得者に重い負担になる「逆進性」の議論がありますね。それは事実ですが、私は税制だけとって議論してもあまり意味がないだろうと思います。…行政、政治をみなが信用していないから。税金に対して、「持ってけ、どろぼー」みたいな感じなんですね。返ってくると思っていない。
 
 勝間 費用だと思っている。それでよく分からない非効率的な使い方を政府がしているとみている。
 
 宮本 私たちのために役立てろといわないで、節約しろという。これも変な議論で、税金とるならば、どこまで待機児童が減っているかとか、職業訓練の質が上がっているかとか、そういう議論が出てきて当然なのに、そうなっていない。国民のせいというよりは、ここまで国民をあきらめさせてしまった政治と行政の責任です。
 
 勝間 両方だと思います。国民も声を上げていかなかった。政治も行政も国民の望まないことはやらないですから。使い方についてちゃんと依頼をして、監視しなくてはいけません。
 
 宮本 私は政治や行政の側もきちっと、税が国民に還元されているということを示していく必要があると思います。…透明度を高めることは財政規律を高めることと一体なんです。
 
 勝間 透明度を高め、国民が「税は自分たちに返ってくる」認識を持てるのであれば、消費税が上がってもいいんですよね。
 
−−混迷する政治状況が社会保障制度論議に与える影響は。
 
 宮本 システム改革をしなくてはいけない局面ですが、短期的に一番受けるやり方は、国民の間にある疑心暗鬼、不信感をあおり立てる政治なんですね。正規の人に対する非正規の人たちの「特権で守られている」という思いや、逆に、正規の人たちの非正規の人たちに対する「働く気があるのか」という疑念。…でもこれは二流の政治であって、丸山真男の言葉でいう「引き下げデモクラシー」です。こっちが恵まれすぎている、こっちが保護されている、などといって引き下げを求める。それだとみなが落ち込んでいくだけです。どうやってお互い良くなるウィンウィンゲームを実現できる理念を出すのかが大事です。

「どうやってお互い良くなるウィンウィンゲームを実現できる理念を出すのかが大事です。」というのはまことに同感なのですが、それがお二方のいうところの「エースストライカー=ディフェンダー」なのだと言われると、やはり私はどうしても違和感を禁じ得ないのですね。限られたエリートが「国を支える産業」のエースストライカーになりますよ、「国を支える産業」で余剰人員となった人、およびそもそも「国を支える産業」に入れなかった人たちは公的な資金で支えられた「私たち*2の生活を支える産業」で低賃金で働き、労働時間は短いだろうから貧乏ではあっても地域活動でなにか楽しいことを見つけて文句を言わずに生きてください、それからも残ったものは福祉で対応しますよと。そして、ディフェンダーは落ちたらまたディフェンダーに戻れるトランポリンは準備するけれど、エースストライカーにはなれませんよと。で、これは階級社会だ、というのは「引き下げデモクラシー」でけしからん、ディフェンダーもウィナーなのだから納得しなさいと*3。そういう理念を実現するために、長期雇用も企業内育成もやめなさいと。
私はそれに較べたら今の日本的雇用慣行のほうがマシだと思うのですが、どうなのでしょうか。さほどの才能にも恵まれない平凡な人が長期の実務経験を通じて周囲に尊敬される熟練工となっていける、大は経営トップから小はQCサークルのリーダーまで、多くの人に組織のエースストライカーになれるチャンスがある、学歴がなくても現場の叩き上げから工場長にまでなれる「青空のみえる」日本的雇用慣行をぶちこわしてまで実現したいほど「エースストライカー=ディフェンダー」理念がすばらしいとはおよそ思えません。もちろん、日本的雇用慣行にもあれこれ問題はありますが、それは必要な手直しを行うことで克服できるでしょう。
もっとも、特に前段の消費税をめぐる議論などをみると、勝間さんや宮本先生の主張はある意味日本の現実を反映しているとも思います。なにかというと、わが国の財政は非常に厳しい状況にあるわけで、たしかに国債のほとんどは国内でファイナンスされているにしても、これだけ巨額の財政赤字があるということは、私たちは納税額を上回る公的サービスを受けているということでもあるでしょう(もちろんムダづかいも多々あるわけですが、しかし大半がそうだというわけでもないわけで)。これはしょせん、私たちは国全体でみれば実力以上に豊かな暮らしをしているということなのかもしれません(個別の分配の話はまた別として)。であれば、いずれ生活水準の引き下げが避けられなくなるかもしれない。そのときに、「低賃金だけれど労働時間が短く、地域で楽しいことをみつけて文句を言わずに生きる」ことが多くの人に求められることになるのかもしれません。しょせん先行きに希望が持ちにくいのなら、先行きの希望に期待する長期雇用より、多くの人がディフェンダーに固定される、つまり裏返せば低レベルではあるけれど安定はする「エースストライカー=ディフェンダー」理念のほうが適しているということになるのかもしれません。これが悲観的に過ぎることを期待したいのではありますが…。

 勝間 理念モデルがないがゆえに、先に進めない。細かい議論をやる前に、理念モデルを作った方がいいんじゃないでしょうか。国民の側が引き下げデモクラシーに流されず、きちんと理念モデルを理解できるようになるためにも、市民教育を構築していかないとにっちもさっちもいかないというのが、ここ最近の結論なんですが。
 
 宮本 非常に重要ですね。学生を見ていても、中世世界史の年号は覚えているのに、自分が今、年金に加入した方が得なのか、損なのか、入らないことによってどういうデメリットがあるのか、という社会生活のいろはを知らない。
 
 勝間 国家と市民との間の権利義務関係ですね。
 
 宮本 …社会福祉だとか、あるいは隣の塀から枝が伸びてきたらどうするかなどの社会的なトラブルの解決方法も含めた市民教育があることで、子供たちの社会に対する関心はかき立てられていくはずです。
 
 勝間 それが日本はぽっこり抜けているんですね。学校のカリキュラムの中にあってもいいし、家庭でもやっていけるようになるといいと思います。

宮本先生のご発言でディフェンダーは中世世界史なんか勉強しなくていい、年金に加入した方が得なのか損なのかを勉強しろ、と述べておられるのは、たしかに首尾一貫はしているなあと感心?させられますが、それにしても最後が「市民教育」というのがある意味なかなか象徴的というか、やはり「エースストライカー=ディフェンダー」理念を実現するには教育レベルでのインプリントが必要だということを示しているように感じられます。

*1:まあ、多数採用する企業では多様性の一環として一人二人はそういう人を採る可能性はなきにしもあらずですが、一般化はできないはずです。

*2:この「私たち」って誰なんでしょう。ひょっとして勝間さんたちエースストライカーたちのことだったりして。まさかそんなことはないか。

*3:これを納得させるには幼児期から強烈にインプリントする必要がありそうですが。