相変わらず、言ってるんだ。

きのうのエントリのフォローですが、日経新聞がやっている日経ネットPlusというサイトに「領空侵犯」についてコメントできる「ちょっと待った領空侵犯」というコーナーがあります。で、きのうご紹介した山田氏の記事にコメントしているメンバーがなかなか面白いので、続けて取り上げていきたいと思います。
まずはこの人、政策研究大学院大学教授の福井秀夫先生です(笑)。

 山田昌弘中大教授の「大企業の採用は30歳からに」という主張の根底にあるメッセージに賛成する。今は有名大学に入れず、一度就職に失敗すると二度とはい上がれないことになりかねない。国立なら東大・京大、私立なら早大・慶大といった有名大学を卒業した人はリスクを避け、大企業に正社員として就職することが相対的に有利となっている。その一方で有名大卒ではない人は大企業への就職が難しいので、低賃金にあえぎ、失業の危機にさらされる。今の日本は不平等社会だ。
 「有名大卒で大企業の正社員」という既得権を持つ人以外は努力が報われない社会になっている。厳しすぎる解雇規制を見直し、大学で学んだことよりも大学に合格したことが重視されるひずんだ教育制度を変えるべきだ。(http://netplus.nikkei.co.jp/forum/kosaten/t_447/e_1786.phpから、以下同じ)

いきなり「主張の根底にあるメッセージに賛成する」ときたもんだ。「大企業の採用は30歳からに」には賛成しないけれど、「根底にあるメッセージ」には賛成するというわけですな。
で、結局福井先生が主張するのは解雇規制撤廃論です。

 厳しい解雇規制がなぜ有名大の卒業者を既得権者にするのか説明したい。本来は従業員の能力は雇ってみて初めて正確に分かる。しかし、解雇が困難であれば、賃金と比較して労働生産性が低い人を採用すればするほど、企業収益は低下する。従業員の能力は雇ってみて初めてわかるが、今の日本ではいったん雇えばめったに解雇できない。
 能力や労働生産性が分からない段階で採用を決めるには、ブランド大学の「偏差値秀才」を選ぶのが無難だ。解雇して、仮に訴訟にでもなれば風評も含めた費用は大きいからだ。もちろん例外は多数あるが、解雇しなければいけないほどのコストを負担するはめになる確率は総じて言えば「偏差値秀才」ほど小さい。
 著しく生産性の低い人を雇ってしまったら、大企業には窓際族で処遇し、リスクを軽減する選択肢もあるが、中小零細企業は違う。全員が戦力でないと企業自体が存亡の危機にさらされる。中小企業などでは契約社員派遣社員、パート、請負などの雇用形態ないし労働調達手段を選び、リスクの高い正社員をできるだけ採用しないようにする。
 「米国はすぐに解雇する、冷たい社会」だという人がいるが、的を射ていない。たまたまあの会社の特定の業務については、その人の賃金が労働生産性に見合わなかったから、解雇になっただけだ。今の会社ではダメでも他の会社なら大丈夫というケースが多く、次のチャンスがある。一方、日本では解雇になれば路頭に迷いかねない。解雇規制が転職市場を著しく小さくしているから、人材の流動性は小さい。厳しい規制にもかかわらず、解雇された人を雇うことはリスクも高く、あえて雇用する企業は珍しくなる。

「リスクを避ける」とか「既得権」とか「偏差値秀才」とか、印象の悪そうな言葉を並べ立てて情緒的に非難するのは福井先生のお得意の手法のようですが、それはそれとして。
福井先生の所論がなぜダメかというと、福井先生の労働観・人間観が「労働者の生産性というものは決定されていて不変であり、育成や動機づけで変化することはない」というものだからではないかと思います(ついでにいえば、ジョブについても一定の生産性を要する固定的なものというお考えをお持ちのようです)たしかに、そうであれば解雇規制を撤廃して、どんどん流動化させて労働者とジョブとのマッチングを最適化していけばいいでしょう。これはおそらく福井先生のお好きな経済学の考え方にフィットするのでしょうが、だからといって福井先生好みの経済学に世間を合わせるべきとも思えません。
実際、企業が正社員を雇用するときに最重視するのは、その人の今現在の生産性ではなく、潜在的な成長力でしょう(で、たしかに「偏差値秀才」はポテンシャルにも優れることが多いという傾向があることも事実なのが厄介なところですが、しかしその相関関係はそれほど強くありません)。企業は定年までの雇用を保障するから、その代わりに企業が必要とする能力を伸ばし、業績に貢献してもらいたい、それを企業と働く人が長期的なコラボレーションでやっていこうというのが日本企業の人材戦略なわけで、そこに解雇規制が織り込まれるのは必然であり必要でもあります。これは日本企業の競争力の源泉になっているものですので、福井先生のお好みに合わないからといって簡単に変えることはできません。福井先生はその根拠として「偏差値秀才が差別的に優遇される不平等社会」という感情論を担ぎ出されるわけですが、自らが企業の求める人材であることを示すシグナルを得るべくまっとうに努力し、それに成功した人が優遇されることが不当であるとは考えられません。しかも、すべてそのシグナルで決まっているわけではさらさらなく、採用面接を経験したことがある実務家であれば、それがそれほど重視される要素ではないことはよく承知しているでしょう。
アメリカはたしかに福井氏のお好みの状況になっているのかもしれませんが、その繁栄が内包する大きな格差や多大な貧困もまたその結果であることを十分考慮に入れるべきものと思います。

 「寄らば大樹の陰」でリスクを取りたがらないのは若者がひ弱だからではない。社会が病的だからでもない。解雇が難しいから、若者が防御行動に走ると見た方がよい。企業と若者の双方のニーズがマッチしているかを確認できる一定の長期の試用期間があってよい。逆に、マッチしない就労は企業の収益のみならず、労働者の生きがいをも奪う。雇用関係を無理に維持すれば、労働者の人的資本も向上しない。技術革新などに基づく産業構造の転換にもブレーキをかける。社会の活力が低下し、社会福祉の財源も縮小する。
 次の職が見つかりやすいなら、失業リスクは減少する。結果的に失業手当や生活保護など社会保障のコストは少なくて済む。セーフティーネット(安全網)は必要だが、肥大化して働くこと自体が不利になってしまうと、人々の勤労意欲が低下し、社会は停滞の悪循環に陥りかねない。

「解雇が難しいから、若者が防御行動に走る」というのは、解雇規制があるから若者がその対象となる正社員になろうとする、という意味なのでしょうか。例によって福井先生は「防御行動」という悪印象用語を使って「だから解雇規制を撤廃すべきだ」と主張するわけですが、言葉の印象が悪いから規制を撤廃せよ、というのでは理屈になっていません。「企業と若者の双方のニーズがマッチしているかを確認できる一定の長期の試用期間」というのも、若者のほうは企業が自分のニーズにマッチしなければいつでもやめられるわけですから、試用期間を必要とするのは基本的に企業の側だけです(私も試用期間の一定の実質化は必要だと思いますが)。あたかも「若者のためにもなる」かのような書き方をするのは誠実ではありません(一応、試用期間があったほうが若者も試用されやすくなるという理屈はありうるとは思いますが、それならそう書けばいいだけの話です)。
「マッチしない就労は企業の収益のみならず、労働者の生きがいをも奪う。雇用関係を無理に維持すれば、労働者の人的資本も向上しない。」というのも、量的なミスマッチ=過剰雇用であればそういえるかもしれません(解消の見込みのない場合に限られますが)。いっぽう、質的なミスマッチ(福井先生は試用期間を持ち出しておられますので、質的ミスマッチを意図しておられるのだと思いますが)に関しては、育成や自助努力で解消できる可能性は大きいですし、それはそのまま人的資本の向上に直結します(おや、福井先生も人的資本は向上するとは思っておられるのですね)。まあ、あまり喜ばしい方法ではありませんが、賃金を下げるという手段でマッチングさせるという方法もあります…少なくとも、解雇よりはマシな解決方法ではないかと思います。解雇して新規採用することでミスマッチを解消するのがいいか、育成・賃下げで解消するのがいいか、どちらが合理的かは簡単にはわかりません。
「次の職が見つかりやすいなら、失業リスクは減少する。結果的に失業手当や生活保護など社会保障のコストは少なくて済む。」というのも、証拠を出せよ、という感じです。解雇・転職が増えれば、その分失業給付が増えることは明白なように思えるからです。福井先生は失業が長期化しやすいということを重視しているのでしょうが、しかし失業給付は一定期間で打ち切られてしまいますので…それはそれで問題で、それに続くセーフティネットが政策的要請となっていることも事実ですが…。

 解雇規制の緩和と同時に教育制度を見直す必要がある。有名幼稚園・小学校に入るための「お受験」が盛んだが、これも労働市場と表裏一体のひずみの副産物だ。大学時代の卒論の出来栄え、優の数はほとんど関係ない。高校以前がそのような強迫観念に駆られて大学入試至上主義になるのは自然だ。
 この結果、大学は実社会に出ても役に立たない「学問」を教えても平気だ。大学は教育機能を高め、職業生活を営む上で基礎的な素養とスキルを中心に教えるよう転換すべきだ。振るい落とすための試験での競争を若者に強いる不毛な教育と決別するためにも、解雇規制の足かせを外すことは決定的に重要だ。

うーん、しかし、「職業生活を営む上で基礎的な素養とスキル」なんて、採用してから企業が教えたほうがよほど効率的なんですけどね。まあ、週5日間定時に出社して所定時間内は業務に集中するとか、日本語を普通に使ってコミュニケーションができるとか、そのくらいのことは入社前にできておいてほしいですし、コンピュータが使えるとかビジネス用語がわかるとか英会話ができるとかいうのはそれなりに便利ではありますが、それが大学教育の役割かというとちょっと…。それよりは、直接は役には立たないにしても、社会人として、企業人として成長していく上で貴重な糧になるコモン・センスやリベラル・アーツを涵養してほしい…と考えている人事担当者が多いのではないかと思うのですが。それは企業ではなかなか教えることができないわけですし。
右の人も左の人もそうなんですが、どうも「企業はその時点での職業能力以外のものを求めるべきではない」というイデオロギーを押し付けたいとお考えのようです。企業としてはそんなこと言われても困るとしかいいようがないのではないでしょうか。

 解雇規制の厳しいフランスやイタリアの事例も参考になる。若者の失業率が20%前後。解雇規制によって中高年は職を失わない一方で、若者は失業したままだ。フランス政府は06年、「26歳未満の労働者は試用期間の2年間は理由なく解雇できる」とした政策を打ち出した。それに反対する学生デモの先頭に立ったのは超エリート大の特権層だった。再チャレンジが可能で、学歴に関係なく実力で評価される社会構造は、格差を確実に緩和する。

えーとフランスやイタリアの解雇規制は日本より厳しいんですか?フランスやイタリアの(若年)失業率が高いのは、解雇規制というよりは社会保障の手厚さや、雇用形態の柔軟性の低さが原因なのではないかと思うのですが…。また、さっきも書きましたが、とりあえずアメリカは解雇規制がほとんどありませんが、そのアメリカが仮に「再チャレンジが可能で、学歴に関係なく実力で評価される社会構造」であるとしたら、アメリカでは「格差を確実に緩和」しているのでしょうか?その結果があの格差だということだと、なかなか納得しにくいものがあるのですが…
ま、福井先生がご自身の所論を展開されるのはそれはそれでご自由だと思いますが、解雇規制の撤廃が山田先生の「主張の根底にあるメッセージ」だとはとても思えません(だって山田先生は能力のない人は安定が必要だから新卒で一般職や現業公務員だと言っておられるわけで)。山田先生にしてみれば、そんなことで一緒にされたらたまらん、という感じではないでしょうか。