物価と賃金

たまには春闘の話なども。今週月曜日の日経新聞朝刊のコラム「経営の視点」で、塩田宏之編集委員が「新局面迎える賃金交渉――物価上昇の痛み、どう分かつ」という論説を寄せています。

 少しばかり先の話になるが、来春の労使賃金交渉を展望してみたい。物価上昇下での交渉となり、今春までとは状況が大きく変わるからだ。
 二十六日に発表になった八月の全国消費者物価指数(生鮮食品を除く)は前年同月に比べ二・四%上がった。これで十一カ月連続の上昇だ。三菱総合研究所は二〇〇八年度の上昇率を一・九%と予測している。連合の高木剛会長は十九日の記者会見で「所得の目減りを補うため、物価上昇分を賃上げで要求するのは当たり前だ」と述べた。
 連合は「過年度の物価上昇分+生活向上分」を獲得するという考え方で、賃上げ要求を組み立ててきた。デフレで物価はお蔵入りになっていたが、十一年ぶりによみがえる。
(平成20年9月29日付日本経済新聞朝刊から、以下同じ)

まあ、組合がどんな要求をするかは組合の自由ですし、実質賃金を守りたいのであれば物価上昇(物昇)分を要求するのは当然でしょう。過年度物昇がどのくらいになるかはわかりませんが、仮に2%とすれば定昇とあわせて4%。月給の平均が250,000円だとすると、10,000円の賃上げ要求(うちベア5,000円)ということになります。「生活向上分」をいくら要求するのかは不明ですが、有額だとすると、久々に5桁の賃上げ要求を掲げる春闘ということになりそうです。
従来から、経営サイドは「名目賃金上昇率を実質付加価値生産性の伸び率の範囲内とする」ことで、賃上げ分の価格転嫁によるホームメイドインフレを起こさないという「生産性基準原理」を指導原理としてきました。これに対して労働サイドは、「実質賃金上昇率を実質付加価値生産性の伸び率に合わせる」、すなわち物昇分は当然賃上げするという「逆生産性基準原理」を主張してきました。これは、そうしないと外生的ショックなどで物価が上がった場合に実質賃金が確保できなくなり、中長期的に経済成長を続けることが難しくなる、という理屈だったと思います。「生産性基準原理」などといった堅苦しいことばは姿を見せなくなりつつあるようですが、とりあえず労働サイドは基本的な考え方はそれほど変わっていないように見受けられます。経営サイドはどうなのか、経団連の「経労委報告」が注目されますが、とりあえず現在の日本経済はまさに労働サイドの心配(外生的ショックで物価が上がり、実質賃金が確保できなくなる)が現実化しつつあると見ることもできそうです。

 もっとも以前のインフレとは物価が上がる理由が違う。国内の消費が活発なのではなく、原油や食料の相場上昇など海外からの圧力で物価が上がっているためだ。連合の団野久茂副事務局長は「今回は企業側も原材料コストの上昇を負担している。我々も初めて経験する局面だ」と語る。

たしかに、景気が拡大し、供給不足(需要過剰)で物価が上がっているのであれば、これは賃金を引き上げることが考えられてよいでしょう。こうした局面では生産性も向上しているでしょうし、労働需給も逼迫しているでしょうから、賃上げの条件は揃っています(そして賃金が上がりすぎることで企業業績が悪化し、景気が後退しはじめるというのが、景気循環のメカニズムのひとつでしょう)。しかし、今回のような輸入インフレでは、生産性向上を上回る賃上げは企業の利益の減少に直結します。内部留保の縮小などにより、研究開発投資や設備投資の減少を招く可能性も高いでしょう。それを避けようと価格転嫁を行えば、セカンドラウンドエフェクトによるさらなる物価上昇・インフレを招き、結局は購買力が改善しないという結果に終わるかもしれません。以前取り上げたように、経済産業省の新経済成長戦略の改訂では、それを避けるために賃上げを行ったうえで価格転嫁はしないことを求めているわけですが、すでに多くの企業で一次産品価格の上昇分を価格転嫁する動きが広がっている現状を考えると、一部の大企業はともかく、多くの企業にとってはそれは無理な注文というものでしょう。
ただ、たしかに団野氏をはじめ現在の連合の執行部にとってはこれは「初めて経験する局面」かもしれませんが、さらにさかのぼれば似たような経験はありました。第1次オイルショックの際には、物価上昇を上回る賃上げとその価格転嫁が行われた結果、「狂乱物価」といわれるインフレ・スパイラル、スタグフレーションを招きましたが、この経験を踏まえて、第2次オイルショックの際には政労使の話し合いを通じて賃上げを抑制し、企業も価格改定を抑制したことから、物価上昇を低くとどめることに成功しました。実際、この時期には経営サイドは業績悪化、労働サイドは実質賃金を確保できない結果となり、結局のところは原油価格の上昇を「痛み分け」しました。今回の局面でも、この経験に学ぶとまではいかなくても(条件が異なる部分も多くありますし)、参考とすることは必要でしょう。

 労使で痛みを分かち合う物価上昇に戸惑いつつ、労組は賃上げを求める。経営側はどう応えるのか。ある大手電機メーカーの人事担当役員は「企業業績の変動はボーナスで調整する。この考え方に変わりはない」と話す。物価を反映した賃上げなど、とんでもないと言いたげだった。

えーと、「企業業績の変動はボーナスで調整する」と、「物価を反映した賃上げなど、とんでもない」とは理屈上は全然関係ないんですが。「言いたげだった」だから、言ってはいないわけですね。こんなおかしな理屈を述べる人事担当役員はさすがにいないでしょう。
基本的に、「短期的な業績変動は賞与に適切に反映する」「賃金水準は、中長期的な生産性の動向を踏まえて決定する」というのが経団連の基本的な考え方であり、多くの企業が採用しているところでしょう。この二つには理屈上の関係はありません。現在、各企業は業績が悪化していますから、来年の春闘でも賞与回答が今年より減る企業が多くなるでしょう。いっぽう、中長期的には生産性は上昇していると経営陣が自信を持てるのであれば、減益で賞与が減る中でも生産性に応じた賃上げを行うこともありうるわけです。まあ、普通の場合なら、賞与が減るということは業績が悪化しているということであり、業績が悪化している以上生産性もあまり向上はしていないはずで、したがって賃上げ率も低くならざるを得ず、したがって物価上昇には追いつけないだろう、という議論展開はできなくはありませんが。

 上場企業の経常利益は今三月期、七年ぶりに減益となる見通しだ。住宅ローンの焦げ付きに端を発した米国経済の混乱は世界に飛び火した。来期の経営環境も厳しいだろう。
 中国など新興国の賃金が急速に上昇したとはいえ、日本の人件費が割高であることに変わりはない。しかもグローバル企業の収益源は海外に移りつつある。主要製造業五十社の今年四―六月期では、営業利益に占める海外の割合が四割を超えた。国内の従業員への還元より、海外への投資を優先したい。そう経営者が考えても不思議ではない。

まあ、海外に限らず、投資が付加価値を増やし、生産性を高めるのであれば、それはいずれ賃金にも反映されてくるわけですから、望ましいところではありましょう(海外投資であっても、その効果の少なくとも一部は海外子会社による配当や、ロイヤルティなどの増加によって国内に還元されるわけですし)。で、資金の有効な投資先がないなら株主に還元しろ、というのはありがちな株主の主張ですが、だったら労働者に配分しろ、というのもありうるでしょう。
そう考えれば、物価上昇の痛みはなにも労使だけではなく、株主にも負担してもらう、という考え方も十分ありえそうです。実際には、以前紹介しましたが、このところけっこう長いこと続いている株主への配分を徐々に厚くしていくという流れの中で、配当を減額するという動きはあまり目立っていないようですが…。もっとも、この間株価は大幅に下がっているので(理由はまた違うにしても)、株主にしてみれば自分たちはもう十分に痛んでいるといいたいでしょうが。

 しかし日本の従業員の士気や、消費に与える影響にも目配りが必要だろう。日本経済新聞社が今年二月、民間企業の社員に実施したアンケートによると、「毎月の賃金とボーナスのどちらが上がる方がいいか」との質問に、七八%が賃金と答えた。その理由としては「賃金が安定して上がる方がやる気が出るから」との回答が六三%に達した。消費との関係についても「賃上げがなければ消費を切りつめる」との回答が三二%あった。
 自動車総連の西原浩一郎会長は「労働と消費の両面で母国の基盤が崩れたら、日本企業は海外で戦えるのか」と話す。経営者も無視できない問いだろう。

ま、これもそのとおりで、そこは労使関係にどこまで配慮するのか、ということになるでしょう。そういう意味では労働サイドが主張するとおり、賃上げは労働者に対する投資という性格も持っているわけです。実際、受け取り総額が低くなるとしても、日本の労働者は賃金が安定的に上昇するほうを好むということが大竹先生の『日本の不平等』の中の論文でも示されているくらいで。とはいえ、そうした賃金制度が成り立つには、企業がそれなりに安定的な業績を上げ、存続し続けなければならないわけですから、労働者が好むから安定的に賃上げしますとはなかなか簡単には参らないでしょう。このあたりは各企業経営者、労担が難しい判断を迫られることになるのでしょう。

 日本総合研究所の山田久主席研究員は「長期的に国内の労働生産性を一%程度高め、賃金も上げる。そんな合意が労使で必要だ」と指摘する。生産性向上に必要な事業再構築には、労組も協力すべきだという。
 物価上昇の痛みを押しつけ合うだけでは、日本の地盤沈下に拍車がかかる。日本の経済成長のために何ができるのか。必要なら政府も巻きこみ、労使が知恵を出し合うときだ。

うーん、「労働生産性を1%程度上げる」というのが名目なのか実質なのかが大問題だと思いますが、それはそれとしても、1%(しかも長期的)では現状の物価上昇はおよそカバーできないと思うのですが。まあ、そこは痛み分けだ、ということでしょうかね。で、「そんな合意が労使で必要」と言われますが、これはつまるところ生産性運動とほとんど同じなわけで、今でも安定的な労使関係を形成することに成功している企業では、とっくにそういう合意が存在し定着しているわけです(まあ、適正配分のあり方をめぐっては常に論争があるわけではありますが)。今さらエコノミストにわざわざそんなことを言ってもらわなくても…という感じではないでしょうか。
で、最後の段落はごもっともなのですが、ここで具体論を述べてもらわないと。やはり生産性を無視した賃上げを行って実質賃金を確保しようという考え方だと、一段の物価の上昇とか、失業率の上昇とかいった形で、結局はどこかにしわ寄せされることになるでしょう。逆に、生産性が物価上昇以上に上がっていけば問題はないわけで、そういう意味では、原油価格が上がっているのならばなるべく石油を使わなくてすむような技術革新を進めるなど、イノベーションの促進がやはり王道のはずです。労使でこの認識を共有し、中長期的な生産性向上のビジョンを確立していくことが、賃金水準の上昇にもつながっていくということではないかと思います。