成果主義ってなんだ?

日経ビジネスのサイト「NBonline」で「人材奔流 ポスト成果主義 スタンドプレーからチームプレーへ」というインタビュー特集が進行中です。登場人物は外国人や外資系やコンサルばかりなので見るともなくスルーしていたのですが、最近、花田光世氏、高橋伸夫氏と、国産(笑)大物経営学者が相次いで登場しました。
きょうはそのうち花田光世慶大教授のインタビューをとりあげますが、内容の紹介というよりは用語へのツッコミ(笑)が中心です。

 日本企業が成果主義型の人事評価制度を導入し始めてから、10年以上が経過しました。にもかかわらず、成果主義の是非を巡る論争が後を絶ちません。…
 もちろん、成果主義を導入した企業で問題が起きたことは否めません。職場のチームワークが弱まっただけでなく、中高年層の社員のモラールが著しく下がってしまった。彼らの多くが、従来の年功序列型の人事評価制度であれば手に入れられた地位や給与をあきらめなければならなくなったからです。
 そうした人たちに対して、企業はこれまで仕事に対する新たな価値観や働きがいを十分に示してきませんでした。その結果、中高年層のモラールが下がったままの状態が長く続いている。私はこの現象を「もう1つの失われた10年」と呼んでいます。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/pba/20080624/163484/、以下同じ)

私は成果主義には決して好意的ではない(笑)のですが、中高年層のモラール低下が起きているとしても、それをこういう形で成果主義のせいにするのはいささか気の毒なような気がします。失われた10年の長期にわたる経済不振、経営悪化の中では、成果主義が導入されようがされまいが中高年が従来のような地位や給与を得ることはしょせん無理な相談であり、中高年自身もそのことは重々承知していたのではないでしょうか。成果主義導入で降格を喰らったり給料を下げられたりといったネガティブインパクトを受けた人は「モラールが著しく下がってしまった」でしょうが、昇格や昇給が頭打ちになった程度の人は、意気が上がることはなかったにせよ、「著しく」モラールが低下したというほどのこともなく、むしろ「まあ職があるだけありがたいか」くらいの受け止めだったのではないでしょうか。そもそも、中高年になればかなりの程度会社人生の勝ち負けは明らかになってくるわけで、経営状況や賃金制度の如何にかかわらず、ある程度のモラール低下はどうしても避けがたいわけで。
そういう意味では、「そうした人たちに対して…仕事に対する新たな価値観や働きがいを」示すというのもなかなか難しい注文です。もちろん、これはこれで人事管理の大切な課題だろうとは思いますが、現実には、そうした人たちに一定の労働条件を確保しつつ、その知識や経験などがそれなりに生きる仕事に配置するよう配慮するといったことが中心になるでしょう。あとは、人生仕事だけではないのですから、仕事以外の部分で人生をよりよいものにしていってもらうことも大切なのではないかと思います。

 このように成果主義を取り入れた企業で様々な弊害が生じたことは事実ですが、成果主義そのものに問題があったとは考えていません。成果主義が十分に展開できずに中途半端になった。つまり、成果主義の運用に問題があったと見ています。
 どういうことかというと、個人の売り上げなどの結果を評価するだけに終始し、結果を生み出すのに必要とされたプロセスを、きちんと評価しなかったのです。そうなった原因の1つには、短期志向の強い欧米企業で普及している制度ということから、「成果は短期的な結果」と狭く捉えてしまったことがあると思います。
 実際には、ゼネラル・エレクトリック(GE)など成果主義を徹底していると思われている米国企業でも、短期的な結果だけでは決して評価していない。もっと社員の人間としてのありようを含めて評価している。
 このように社員の人間性や結果を生み出したプロセス、努力といったものを加味して評価しなければならないのに、単なる結果だけで評価してきた。その裏には、「欧米企業の成果主義は結果重視」という思い込みがあったわけです。

うーん、言葉の定義の問題といえばそれだけのことなんですが、それにしても成果主義というのは能力やプロセスではなく成果で評価するから成果主義だったのでは?「成果主義」と言い出す前は年功や能力や頑張りだけで評価していたかといえば当然そうではなくて、成果も大いに加味されてきました。能力主義、といっても、ではその能力はどう判断するかといえば、結局は仕事のプロセスと成果から判断していたわけで、なにも学歴と勤続だけで判断していたわけではありません。たしかに、かつては「成果は上がらなかったけどやったことは間違ってなかったし、もともと実力はあるし、相変わらず真面目によく頑張ったからいい点数をつけようか」という評価もあったと思います(今でもあるところにはあるでしょう)。それはよくない、いくら頑張ったからといって、あるいはいくら高い能力があるからといって成果につながらなければ意味がない、だからプロセスや能力ではなく成果で評価するのだ、というのが「成果主義」ではないかと思うのですが。花田氏の言い方だと、短期であれ中長期であれ成果を考慮しさえすれば「成果主義」だ、ということになってしまいかねません。
また、「ゼネラル・エレクトリック(GE)など、成果主義を徹底していると思われている米国企業でも、短期的な結果だけでは決して評価していない」というのはそのとおりでしょうが、GEの場合はたしかGE ValueとかGE Wayとかいったものの理解や実践といったものを重要な評価項目としているということだったと思います(自信なし)。これがはたして「成果主義の徹底」なのでしょうか?企業理念などの理解と実践そのものが成果だ、という理屈もなくはないかもしれませんが…。

 運用の点でこそ問題が生じましたが、成果主義の導入は多くの日本企業にとって必要なことだったと思います。競争が激化する中で、イノベーションを起こしたり、組織を変革したりすることを企業は絶えず求められるようになったからです。
 イノベーションを起こすためには、従来とは異なる知識や技術が必要になります。さらにイノベーションや組織変革の結果、企業内に新たな仕事が生まれたり、仕事の重要度が変わったりします。
 既存の技術や知識を基にした従来の年功序列型の人事評価制度を維持したままでは、新しい仕事に携わる人を評価したり、仕事の重要度の変化に応じて社員が受け取る報酬を増減させたりすることはできません。その具体例を挙げましょう。
 富士ゼロックスは1999年、年功序列型の人事評価制度を廃止し、「コンピテンシー(行動特性)」を評価指標とする成果主義型の制度を採用しました。その背景には、実は同社のビジネスモデルの転換があったのです。

まあ、これは富士ゼロックスがそう言っているのでしょうが、コンピテンシーで評価するのが成果主義型といえるのかどうか。コンピテンシーというのはハイ・パフォーマーの行動特性ということらしいので、成果に結びつきやすい行動をとっているかどうかを評価するということなのでしょうが、これは成果というよりは能力発揮の評価に近いでしょう。前述したように、能力は結局は発揮されることで評価されるわけなので、コンピテンシーによる評価は成果主義型というよりは能力主義型に近いのではないかと思います(もっとも、能力主義というと古いとか年功的とかいう印象を与えて「売れない」ので、コンピテンシーの売り込みには「成果主義」のキャッチフレーズが使われているのではないかという印象はあります)。
これはコンピテンシーに限った話ではなく、たとえば職務給中心の賃金制度を導入して「成果主義型」だ、といった議論も往々にして目にします。文字通りの意味であれば、職務給というのは職務に対して支払うわけですから、成果がどうあれ変わらないはずです(もちろん、この場合も成果については賞与などに反映されるでしょうが)。どうもこのあたり、年功的でなければ成果主義だ、といった荒っぽい議論が広がっている感があります。

 従来はコピー機の販売が主体で、営業の社員はある程度の訪問件数をこなしていれば売り上げが立ち、誰もが実績を上げて昇進できました。ところが、同社が「ドキュメントカンパニー」を標榜し、コピー機というハードだけでなくソフトウエアの利用を促す提案営業に主体が移ると、事情が変わりました。
 コピー機の販売実績で評価する従来の制度のままでは、提案営業という新しい仕事の形になかなか移行していかない。そこで人事制度をがらりと変えて、新しい仕事の重要性を社員に明示したのです。

賃金制度というのは企業の経営ポリシーの具現化ですから、技術革新やビジネスモデルの変化に応じて、企業がどのような経営戦略、人材戦略を採用するのかのメッセージとして非常に重要といえましょう。これは評価項目のウェートをコピー機の販売実績から営業提案の採用件数に移すといったマイナーチェンジでもいいでしょうが、富士ゼロックスのように、評価項目を提案営業の成功につながる行動特性に変更するというモデルチェンジを行えば、さらに効果的なメッセージになるかもしれません。
これは別に目新しい話でもなんでもなく、技術革新が起きるたびに起きてきたことだろうと思います。実際、日経連最後の専務理事となった福岡哲生氏の新日鐵時代の回顧を読むと、すでに半世紀以上前には、製鋼技術の進歩に対応して、賃金制度をそれまでの年功・生計費重視から職務重視のものに変えようという努力が行われていたことが記されています。これは職務主義ですが、少し下って1969年に出た日経連の「能力主義管理」も、同じような問題意識が背景にあります(それだけではありませんが)。
要するに、イノベーションがヘチマとかビジネスモデルが滑った転んだというときに、たしかに人事制度や賃金制度の変更によって経営からのメッセージを発することは重要ですが、それが「成果主義」でなければいけないという理由はありません。花田氏は「成果主義の導入は多くの日本企業にとって必要なこと」と言っておられますが、なにも成果主義の導入でなくてもよかった、むしろ成果主義以外の方法にしておいたほうが弊害が少なくてよかったかもしれない、ということも考えると、「多くの日本企業にとって必要」だったかどうかは少し疑問も残るところです。

 もっとも、すべての企業がここまで戦略的に成果主義の導入を進めたわけではありません。「同業他社が採用したから」という理由で取り入れた会社もありました。さらには、人件費の総額を抑制する目的で導入した企業もありました。
 問題は、緊急避難的に導入した成果主義を見直して、よりバランスの取れた仕組みに変えていったかどうかです。現実には何のフォローもしない企業が少なくなかった。手を全く打たずに中高年のモラールや職場のチームワークの低下を長引かせたから、「失われた10年だ」と言っているのです。
(後略)

「よりバランスの取れた仕組みに変え」ることが大切なことは論を待ちません。ただ、それが相変わらず「成果主義」か、というと、必ずしもそうではないでしょう。まあ言葉の定義次第かもしれませんが、プロセスや「人間としてのありよう」、コンピテンシーを重視する賃金制度まで「成果主義」だ、と言い張るのはやはり無理があるように感じます。そのくらいなら、高橋伸夫先生が言うように「成果主義は失敗だった」とはっきり認めてしまったほうがよほどすっきりするのではないでしょうか?