私って高齢者?

うーん、「あなたは高齢者でしょ」と言われたときに、なにいってんだ、俺はまだ57歳だぞ、とかいうのは普通の反応だと思うんですけどね。どうなんでしょう。あなたは45歳だけど、体力はこれこれで知力はこれこれだから高齢者です、なんていわれて納得する人もめったにいないと思うんですが。きのうの日経から。

 舛添要一厚生労働相が昨年十二月に私的懇談会として立ち上げた「人生八十五年ビジョン懇談会」は三十日、計七回の討議結果をまとめた提言の原案を公表した。提言は「世界に冠たる長寿国となったことは我が国の経済社会の成功の証し」と位置付け、生涯学習の必要性などを強調。一方、「年齢で輪切りにする既成概念を見直すべきだ」と訴え、一定年齢以上の人を一律に高齢者と扱うことを問題視した。
 後期高齢者医療制度長寿医療制度)については、野党などが「七十五歳で線引きして別の医療保険制度に移すのは不当」と批判している。
(平成20年5月1日付日本経済新聞朝刊から)

たしかに、年齢というのはほとんどの場合はなにかの代理指標なわけなので、「年齢で輪切りにする」のはおかしい、というのは正論ではあるでしょう。ただ、それでは年齢以外になにかいい判断基準があるか、というのが実は大問題なわけで。
たとえば記事にある後期高齢者医療制度にしても、いっぽうで従来の老人保健制度はもたないことは明らかでしょう。野党などが「七十五歳で線引きして別の医療保険制度に移すのは不当」というのは一面の正論ではあるでしょうが、じゃあ退職したら全員国保でいいのか、といえば政治的におそらくそうはならないわけでしょう。当然「生活に困っているお年寄りの負担は軽く」といったことが政治的要請としては出てくるわけですが、それじゃあ生活に困ってるお年寄りってのは誰のことなんだ、どうやって判定するんだ、という話になったときに、いやこの人は78歳で働いてないけどその気になれば働けるんだからいまは国保でいい、働いて健保を適用されてくれ、この人は61歳で一見元気にみえるけれど実は困ってるから医療費の負担はナシでいい、とか、誰がどうやって判断するんでしょう。そういうときに、年齢というのはおカネでは買えず、まことに客観的かつ明白で、老若男女、お金持ちもそうでない人も、誰しも1年に1歳加齢するという点できわめて公平であり、かつ誰しも生き延びる限りは10歳のとき、20歳のとき、30歳のときを経験するという点で非常に機会均等なものです。たしかに問題はあるにしても、結局は多くの場合は年齢がもっとも納得のいきやすい指標ではないでしょうか。
実際、成人年齢とか、選挙権とか学校への入学とか飲酒喫煙の禁止とか、「年齢で輪切りにする」制度はいくらでもあります。これだって、本来はなんらかの客観的なテストで能力を判定し、契約などが独立して行える能力があると判断されれば15歳でも成人(実際、結婚すれば20歳未満でも成人ですし)とすべきでしょうし、能力がなければ30歳でも未成年、学校だって小学校から入学試験をやって、4歳で合格すれば4歳の小学1年生とか、「年齢で輪切りにする」のがそんなに悪いのならそうすればいいのではないでしょうか。もちろん、そんなこと誰も納得できないわけで、やはり「年齢で輪切りにする」のが多くの人に納得されやすいわけです。
「意欲と能力があれば年齢は関係ない」というのはまことに正論ですが、しかし制度設計においては話はそれほど簡単ではありません。それは成果主義の挫折とよく似ていると言ったら言い過ぎでしょうか。